6-6 約束
相手がどんな人物であろうとも依頼は完璧に遂行してきたイリヤだったが、指示をもらってから標的が気になった。対象はわざわざフクロウに依頼するほどでもない小物で、通常なら契約以前にフクロウの調整役にすらたどり着けるはずはない。それなのに組織がこんな依頼を引き受けたことも、それがイリヤに回したことにもすくなからず驚いた。依頼の大小にこだわりはなかったが、これほど程度の低い依頼を受けたのは今回がはじめてで、その理由を模索した。
あまり物事を深く考え込まない質のイリヤだったが、それでも真っ先に思いあたるのはあのミミズクを逃してからどうにも調子を崩しているということ。
体調が悪いわけでも標的を殺しきらないこともないが、仕事に身が入らず精彩に欠ける。注意が散漫になり相手に近づく絶好の機会を逃したり、普段なら絶対にしない些細な失敗をたびたび繰り返していた。判断を誤るような大きな失態は冒していないが、こんな仕事が回された理由は組織がイリヤの不調を疑っているからではないかと思った。
そんな状況下でも彼女のことが気になって、必要のないことまでいろいろと調べてしまったのには他にも理由があった。あまりに簡単すぎる仕事内容に多額の契約金を支払った依頼主は、殺害の際、事故死にみせかけてほしいという注文をつけてきた。そういう注文はよくある。しかし、なんの罪も犯していない、誰からも恨まれる隙すらない貴族の娘ごときにそんな大層な細工が必要とは思えないのに、イリヤの気を引いて止まなかったのは、リゼ殺害の依頼をしてきた依頼主がリゼ本人だったからだ。
生まれたときから人を殺すために育てられ、他の生き方も知らず簡単に人の命を狩ってきた自分の生まれを人と比べてどうこう思ったことはなかったが、生まれたときから何不自由なく育てられた貴族の娘が自分の命を簡単に手放そうとしていることに純粋な興味が湧いた。
誰でもおいそれとフクロウに接触できるものではないが、王侯貴族に仕えるもののなかには裏事情に精通している者や、同業の引退者や転身が紛れていることもすくなくない。リゼも表向きには従者をしている裏の関係者からの紹介を得て、フクロウの調整役にたどり着いていたようだ。殺しの請負人は他にもいるのに、その紹介者はよほどフクロウとの繋がりが強いのだろう。
依頼主であるきれいな娘はいつも笑顔でしあわせに暮らしているように思えたが、調べていくうちに、その笑顔がすべて偽物だと知った。気高い両親から言われるがままに完璧に育ち、すでに決まっている完璧な婚約者の元へ嫁ぐ。しかし、その婚約者が長い時間をかけて愛を育んでいたのは別の人だった。
他の人を愛しながらも心を殺して紳士な態度を貫くやさしい婚約者の胸中を察して哀れに思ったところで、引き裂かれるふたりをリゼが救うことはできない。リゼの婚姻は国王から承認された王侯貴族の正統な契約であり、拒んで相手を辱めることも家の名を落とすような行動も絶対に許されない。周囲から羨望と祝福を贈られる彼女に許されていることは、笑顔で暮らすこと、家を繋ぎ勢力の駒に徹することだけだ。
イリヤは物心ついたときから人を殺す技術を仕込まれ、教えられたことは完璧にこなし、ときには教え以上の成果をあげて、襲いくるならず者はすべて返り討ちにしてきた。懸賞をかけてイリヤを襲うよう仕向けていたのは育ての親だということや、自分がなぜこんな育てられ方をしているのか、フクロウという存在は知らなかった幼少期にすでにおおよその見当をつけていた。
はじめて人の命を奪ったときも戸惑いや罪悪感は微塵も感じなかった。かといって、大罪を犯しどんなに恨まれている相手でも、死んでいい人間だから殺していいとは思わない。育ての親から才能を期待されたり結果を誉められたことなど一度もなかったが、人を殺すときに苦労したこともなく、これだけがイリヤの進む道だと、他にしてみたいことなど考えたこともない。ただ、人を殺すことが自分に与えられた仕事だから、役割をこなしているだけだった。
組織から疑われている時期の依頼だったから、更生のつもりで対象の行動をよく観察して今回は無駄なく依頼を完遂しようと思っていた。だが、頻繁に彼女を見に行くようになり、彼女の偽物の笑顔を目にしているうちにイリヤは無性に苛立ちが募っていった。その苛立ちはいったいなにに対してなのか、他人に興味を持つこと自体がはじめてで原因を考えてもわからなかった。仕事中に感情が揺さぶられるなど、本当に体のどこかがおかしいのかもしれないと、この依頼を済ませたら医者に診てもらうべきかもしれないと本気で考えていた。
訳もわからず苛立っていた自分を思い出し、イリヤは困惑したまま言い放つ。
「あのときは、悪かったよ」
彼女はおどけるように肩をすくませてほほ笑む。
「見知らぬ男性が突然目の前にあらわれたかと思ったら、いきなりお説教がはじまってしまって、本当に驚きました」
「自分でもなんであんなことをしたのか……怖かっただろう」
「いいえ、誰かに心配をされたり叱られたのははじめてだったので、とても嬉しかったです。しかもそれが自分が依頼した請負の方からだなんて、可笑しくなってしまって」
いまのリゼの表情は、邸で見せていた作られたものとは違う、村の家で毎日見てきたこぼれるような笑顔だ。
リゼを殺しに行ったのに、はじめて姿を見たときから目が離せなくなって、ただ見ているだけでは物足りなくて話がしたくなった。それで彼女が領地内の森へでかけたときに考えなしに声をかけて、彼女に対してのべつまくなし文句を並べ立てた。忠告したところで彼女が家に逆らうことなどできないと知っていたのに、一度口を開いたら言葉が止まらなくなった。最初は呆気に取られていた彼女が、口元を隠すことなく弾けるように笑い出したのだった。
「死ぬほど嫌なら、なんで逃げ出さないんだろうって本気で意味がわからなかったんだよ」
「いま思えばそうするべきでした。でも、逃げてもなにもできない私なんてどこへもたどり着けず行き倒れて、つかまって連れ戻されて問題が大きくなるだけでしょう。だったら楽になってしまおうと思ってしまいました」
「リゼは発想が極端すぎる」
呆れるように言ったけれど、絵に描いたような完璧だけを求められて育った彼女がたどりつきそうな解決方法だと思った。事故であれば誰も咎めようがない。頑固な彼女なら、本気で死ぬ覚悟を決めていたはずだ。
「約束、思い出していただけましたか?」
あのときの彼女の笑い声に毒気を抜かれ、頭に浮かんだことをそのまま口走ってしまった。それにリゼはなんと応えたか、イリヤにとってはそこがもっとも重要なのに必死になって考えても思い出せない。おそらく落雷を受けたのはその前後だから記憶が消し飛んでいるか、そもそも返事を聞いていないのかもしれない。
「リゼはなんて返事したっけ?」
「もう一度おっしゃっていただければお返事します」
リゼはすました顔で姿勢をただし、イリヤの前に立つ。二度も言わされるとは思わなかったが、リゼがそうしてほしいのならそうすることにする。
「その命、いらないなら僕がもらう。ふたりで一緒に生きよう」
リゼは跳ねるように近づいて、両手で手を握ってくる。
「はい。未熟者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
やっと思い出した。
あのミミズクのように、ただリゼを逃がしてあげたかっただけなのに、矛先不明な苛立ちをぶつけるように散々叱りつけたあと自分がいったいなにをしているのかわからなくなって、とち狂った言葉を放ってしまった。それから最悪なことに落雷を受けて、自分で言ったこともリゼが承諾してくれたことも全部忘れてしまったのに、記憶をなくしてもなお性懲り無くリゼにまとわりついていた。きっとどうなっても彼女のそばから離れる気はなかったのだろう。
彼女をかどわかし自分だけのものにするなど、売り飛ばしていないだけで、やっていることはあの人さらいと同じではないか。
ふと「不都合な事実を記憶に閉じ込めてしまうこともある」そう医者が言っていたことを思い出す。落雷の衝撃で、脳はこれ幸いと自分が暗殺者である事実を消して、リゼに見合うような別人に変わって生きたいと願ったのかもしれない。けれども、たったいま目の前で平然と人を殺めてみせたイリヤの手を、リゼは恐れずに掴みほほ笑んでいる。
そもそも彼女はイリヤが何者か知ったうえでずっとそばにいてくれたのだから、これ以上の確認は必要としない。手負いの役立たずな男など追い出せばいいのにと一時は思ったりもしたが、リゼはそばにいてくれるという絶対の自信が、記憶をなくしても心の片隅にあったのだ。
馬がイリヤの腕に頭をすり寄せて、早く歩こうと急かす。馬にせっつかれるままふたりはなにごともなかったかのように鞍に乗り、ふたたび村に向かって歩を進めた。
「よくひとりで僕の面倒をみようなんて思ったね」
「私をさらってくださる奇特な方ですから、それこそ死ぬ気で頑張りました」
リゼの真面目な物言いに笑いが漏れる。威勢よく言い放ったそばから雷を受けて倒れるとは、生に無頓着なふたりへの天罰か、あるいは試練か。
すこしずつ他の記憶が戻りはじめて本当の名前も思い出したが、そのままイリヤを名乗ると決めた。そう伝えると、彼女もリゼのままでいいと言った。彼女の本名も思い出したが、彼女がそうしたいというならそれでいい。
「ウルさんが……うちの従者ですが、いろいろと手を尽くしてくださって、村の方もとても親切で料理など教えてくださるんですよ。薪割りはさすがにまだ無理ですが、筋はいいと褒められました」
「前に言っていた、君が『差し出せるもの』って、なに?」
「宝石です。長年使っていなかったような髪飾りなどをこっそりウルさんにお渡ししようと思ったのですが、今後私たちが必要になるものだからと受け取ってくださらなくて、そのまま持ってきてしまいました」
気まずそうな話し方をするのは、きっと自分に与えられた物だったとしても家の財産の一部を盗んだという罪悪感があるからだろう。
彼女が傷ついていないことにも、村の者がやさしかったことにも心から安堵した。以前町に寄ったとき無用心に貴金属を換金したせいで、悪党たちから目をつけられていたのだろう。あの医者も換金のことを知っていてあえて誤解を招くような言い方をしたとみえる。
「想像していたより大変だけれど、毎日楽しいです」
「まだまだ、世のなかは君の知らないことだらけだよ」
「楽しいなんて浮かれていられるのはいまだけですね、覚悟しておきます。いろんなこと教えてください」
「うん、なんでも」
森から抜けた途端、生ぬるい突風に煽られリゼが背中にしがみついた。胴に回された彼女の手に自分の手を重ねる。彼女の家や婚約者は、リゼが忽然と姿を消したあとどうなっているだろうか。わざわざ調べる気はないが、このさきどんなことがあろうとも彼女が望む限り守りたい。
イリヤをフクロウの医者の元へ連れていくよう指示したり、リゼに色々と入れ知恵したのはあの従者だったようだ。やけに協力的な得体の知れない従者が、裂けた大木と雷撃模様を残したリゼの馬を使って工作をしてくれていたら助かるが、そこまで手を貸す義理があるかは不明だ。話を聞くだけでもただ者ではなく、リゼには随分と肩入れしているようだった。ああいう見事に擬態している輩は、下手に接触すると危険だから触れないほうがいい。
フクロウはどうするべきか。復帰するとしてももうこの顔では使い勝手が悪いだろうし、体は全快したとはいえ反射はまだ万全とは言い難く、いままで通りの活動は期待できない。怪我による身体能力低下を理由に雑用係へと落とされるならそれはそれで構わない。
考えたところでどうにもならないことばかり、だんだん面倒になって、なるようになる、と自分に言い聞かせて考えることをぴたりとやめた。
道端に目を向けると溶けかけの雪のしたに緑が見えて、点々とちいさな黄色い花をつけていた。道の端に走る溝を雪解け水が流れ、すべてこの先にある川に集まって、遠くの大河まで清冽な水が運ばれていく。
暑いよりは寒いほうがいい。雪は好きだけれど息が凍るほどの極寒の地はあまり得意ではないから、ここからもうすこしだけ南へ移動してみてもいいかもしれない。もしくはリゼの行ったことのない街を渡り歩いたり、大河をたどり別の国へ旅をしてみるのもいい。家に帰ったらこれからを相談しよう。
気温があがってもまだしがみついているリゼの手に指先を絡めると、それに応えるようにリゼはイリヤの手を深く握り込む。
イリヤが望むものはただひとつ。明日も明後日も、何十年先の雪解けの日も、今日と同じようにリゼとふたり、自由に生きていく。