4-6 約束
診察室を出て長椅子を見ると、リゼは肘掛に腕を乗せてその上に顔を突っ伏して寝ていた。近づいて声をかけても起きず、腕のしたから深い寝息が聞こえてくる。よほど疲れていたのか深く寝入っていて、男ふたりの体重で軋む床の音にも反応せず、肩を軽く揺らしただけでは起きなかった。
「そのまま寝かせてあげなよ。診察台に運んでおいてあげるから。君は、ええと、適当にそこら辺でも観光してくれば?」
「宿は近いので連れて帰ります」
顔を見なくても声色から男の顔がにやけていることが伝わってくる。こんなところに置いていったら彼女がなにをされるかわかったものではない。腕を取り肘掛にもたれかかっている体に腕をまわして抱え上げる。なにを焦っていたのか彼女の体が軽いことを考慮せず、引きあげる力に勢いがつきすぎてリゼはその反動に驚いて目を覚ましてしまった。
「ごめんなさい。あまりに座り心地がよかったものだから、ついうたた寝を」
「待たせたね、宿に戻ろう」
「はい。その前に診察代を」
こんな埃まみれの硬い椅子など彼女にとって座り心地がいいわけはないが、それでも構わないほどに疲れているのだろう。まだ足取りもふらふらとまぶたは眠そうなまま、肩がけの革袋に手を入れるリゼに医者が手を振って制止する。
「ああ、いい。いらないよ。前回ももらいすぎていたくらいだからね。あ、それと、もしこれから資金調達するなら気をつけて。ここら辺はかなり足元を見る輩が多いから、あまり相手の言いなりになって売りをしないほうがいいよ」
「そうでしたか、以後気をつけます」
「若い彼のほうがそういうのをよく利用して、相場を知っているだろうから、詳しく教えてもらったらいいんじゃないかなあ」
その言葉にぎくりとして医者の顔を見遣ると、それまでの人を小馬鹿にしたようなにやけ顔は鳴りを潜め、流し目にこちらを鋭く見ていた。まだ自分がどんな人間だったか思い出せていないのに、この医者の言動からして自分には期待できる部分などないということを知ってしまった。なにも言い返せないのをいいことに、好き勝手言われてはたまらない。これ以上余計なことを口にするな、と目で制し、イリヤは強引にリゼの腕を引いて診療所をあとにした。
宿へ戻る前に中央広場の露天商をひと通り眺めたあと、夕食を取るため近くの食堂に入る。医者が言っていた町の名物料理が実在していたことに気づき、なんとなく注文してみた。料理名を告げたとき店主が妙に喜んでいたのが気になったが、料理は大して待たずに運ばれてきた。
鼻腔に届く香りに嫌な予感がしつつも口に含むと、その煮込み料理は食べ慣れない珍味が強烈な香辛料で香りづけされた郷土料理で、有り体に言えばまずい料理だ。味の感想を表情には出さなかったが、周りの客は無言のイリヤの心情を察し「味はとにかく悪いが万病を治す」と言って大笑いした。地元住民ですらまずいと認めるその料理は、肉よりも野菜と生薬がふんだんに使われている薬膳煮だった。
そこでイリヤは医者に騙されたことに気づき、あまりの悔しさに我慢しきれずとうとう唸り声を漏らしてしまった。
イリヤの呻き声と体に良いという周りの話が気になったのか、リゼが興味ありそうに器のなかの食材に目を泳がせていた。
「味見したい?」
「えっ? はい。でも」
「ちょっと待って…………はいどうぞ」
イリヤはくたくたに煮込まれた具材のなかで、もっともまずいと感じたものだけをあえて拾い集めてひと匙にすくい、リゼの口元へ運んだ。怖気づいたように彼女は目の前の匙とイリヤの顔を交互に見てためらっていたが、意を決したように口を開きひとくちで食べ切った。
リゼは姿勢を正し頬を高潮させて咀嚼している。他の客もその様子を見守り、リゼがどんな反応を見せるかを楽しみに待っていた。
イリヤはさっさとこのまずい料理を平らげてしまおうと匙を持ち直してから固まって、あっ、と心のなかで呟いた。てっきりまずい料理を前に、彼女は思い切りがつかず迷っていたのかと思ったが、おそらくイリヤが使っている匙で食べさせられることに戸惑ったのだ。彼女は他人とひと皿の料理を分けあったり、大きく口を開けて同じ匙で食べあうなどという行儀の悪いことははじめてだったのかもしれない。
「美味しいですよ」
飲み込んでからリゼはにこりと笑って言う。その言葉に嘘の音はないが、とても信じられずイリヤは目を瞬いた。
「そうかなあ」
「香辛料の刺激や苦味もありますけど、食材の甘みとの調和が絶妙で良い風味です」
厨房の陰から彼女の感想を待っていた店主が姿をあらわし、嬉しそうに彼女の味覚の鋭さを絶賛していた。誰もが認めるほどのまずい料理だとしても、郷土の誇りを褒められたら嬉しくなるものなのだろう。残念ながらこの刺激がきっかけでイリヤに記憶が戻ることはなかったが、彼女が喜んだならそれでよしとする。
食堂を出て、宿へ通じる路地を歩く。日が落ちると気温は一気に下がり、リゼは寒そうに肩をすくませていたが、イリヤは外套を脱ぎたいくらいに暑かった。確かにあのまずい料理は体を内側から温めてくれるらしいが、余計な気疲れも増やしてくれた。
行き交う行商人や食堂を出入りする人々、密集して立ち並ぶ建物や人の往来で角の丸くなった石畳の道、この町のどこを見ても見覚えはあるがこの場所で生活していた記憶はよみがえらない。医者を見たときはすぐに記憶がちらついたから、イリヤにとって比較的重要度が高くても、思い出せそうな人物もいるらしい。
町の場合は同じ地域であればどこも似たような作りだから、あの医者に会ったのはこの町ではなかったのかもしれない。手がかりになりそうなものはなにも見あたらず、さきほど見た中庭つきの診療室も記憶のなかにはなさそうだ。
イリヤが思い出そうと周りを見ているうちに歩幅がずれて、隣を歩いていたリゼとのあいだに距離ができてしまった。気力だけで乗り切っていたリゼにもさすがに疲れが見えて、町並みには一切目もくれず黙々と歩いている。
足を早め近づこうとしたとき、ふいに脇道からあらわれたふたり組の男が流れるように彼女の両脇についた。会話をしないふたり組の男などスリか人さらいと思っていい。日暮れ前に歩いた宿までの路地は比較的安全なように思えたが、日が落ちたあとの頼りない街路灯のあかりだけでは闇が強い。この道を通る者は土地勘の薄い旅行者がほとんどとなれば狙われて当然だ。
男たちが動く前に気配を消して忍び寄り、うしろからリゼの体ごと引き下げ、小脇に抱えたまま別の路地へと逃げ込む。そのまま振り返らずリゼの手を引いてしばらく路地を歩いたが、男たちが追ってくる様子はなかった。スリは獲物の隙を狙うだけでよほどの理由がなければ執拗に追い詰めてきたりはしないし、標的に連れがいたとわかればなおさら面倒ごとは避けたがる。見てまわったところそれほど悪い町ではなさそうで、リゼのような風貌の旅行者が格好の餌食になるだけだ。
遠回りをしてようやく宿にたどりつく。自分が狙われていたということには気づいていない彼女は、宿屋に隣接している湯殿へと向かった。イリヤも湯浴みを済ませてさっさと部屋に戻ったが、しばらく待ってもリゼが戻る気配は一向にない。彼女が入浴に割く時間は恐ろしく長いということは知っている。湯殿の利用者のほとんどが旅客で番台もいるから安全なのに、さきほどの件のせいで彼女がひとりでいることが心配で落ち着けなかった。安否確認のためとはいえ、さすがに湯殿をのぞきに行くわけにもいかず、部屋でこれからのことを考えて時間をつぶす。
寝台に腰掛けてうしろへ倒れ込み、腕を組んで導管が走る天井を眺める。客室が常にあたためられているのは、あの導管のおかげだ。雪深い地帯ならではの設備だが湯殿まである宿となると、宿代はかなりのものだろう。ひと晩を明かすだけなら薄い壁で仕切られただけの安宿で十分なのに、彼女はまだ庶民の金銭感覚がわかっていない。しかし、リゼのことだから自分のためでなく、イリヤの体調を気遣って良い宿を取ったということもありえる。
これから医者と落ち合い知っていることをすべて聞き出すか、助言通りに遠く離れた土地へ移り住み新しい人生を歩むか、そしてリゼをどうするか。彼女がイリヤのそばにいるのはあくまでも約束のためであり、思い出せばリゼは満足するのだろうか。あの医者に頭を下げるのは悔しいが、いつまでもリゼを縛りつけるくらいなら、可能な限り教えてもらい思い出す努力をすべきだろう。
考え込んでいると廊下からリゼの足音が聞こえ、部屋の扉がちいさく鳴らされ応答する。静かに扉を開けて入ってきたリゼは風呂からあがったというのにまた外出着を着ていた。
「まだ出かける気?」
「はい、これから馬の購入資金の調達に行ってまいります。イリヤさんは先にお休みください」
荷物を台の上に置いて、外套に伸ばすリゼの手を掴んで行く手を遮る。いつも包帯を巻いている手は風呂上りで剥き出しのままだった。
「資金調達はもうしなくていい」
「でも、馬が」
「馬はいらない」
まだその身を軽んじるリゼの思考にすこし腹が立ったが顔には出さず、引き寄せて隣に座らせると懐からちいさな容器を取り出す。
どこぞの女主人に頼まれて作っていたという外皮薬を、医者に頼んでわけてもらった。蓋をあけて強い花香のする乳白色の軟膏を指に取り、リゼの荒れた手に塗り込んでいく。リゼはその軟膏からただよう芳香を短く吸って嬉しそうな声をあげた。
イリヤにとっては鼻が曲がるほどきつい匂いに思えるが、リゼにしてみれば毎日こんな花の匂いだけに囲まれて生活していはずだ。
「良い匂いですね」
「あの医者がくれたんだよ」
「先生、本当におやさしいですよね」
自分からリゼのためにと頼んでわけてもらったものなのに、正直に言うのが照れくさく言葉を濁したせいで、手柄はすべてあの男のものになってしまった。自分も褒めてもらおうとうまい言い訳をあれこれ考えたが思いつかず、実際に軟膏を作ったのは医者で、しかも気前よく無償でわけてくれたからリゼの評価は正しく、イリヤはただただ閉口した。
華奢な指先は冷たい水にさらされてひび割れし、慣れない料理で透き通るような肌はやけどを負い、柔らかい手のひらは工具を握り締めてできた豆が潰れている。痛みを和らげるため、いつも包帯を巻いて補強しているのだ。いつかは慣れるものかもしれないが、つい最近まで銀食器しか握ったことのない彼女の手にはまだ厳しい。
自分の手と比べてちいさな手を包み軟膏を塗り込む。医者から、油分が多いが撫でていれば成分が肌に浸透するから、感触が変わるまで塗擦してあげるように、と用法を教えられた。いくら薬とはいえ患部に刺激をあたえすぎるのはよくない気がして、痛がっていないかリゼを見ると、その顔はこれまで見たこともないほど赤くなっていた。そこで医者にまた騙されていたことにイリヤは気づき手を止めた。
直に匂った軟膏のかおりはきつかったが、リゼの体温で温められた匂いは変化して、それほど嫌なものではなくなっていた。
「リゼはこれからどうしたい? 僕はもう動けるようになったけど、記憶だけはどうしようもない。この先ずっと約束を思い出さないかもしれないよ」
「私は、イリヤさんが約束を思い出してくださるまで、気長に待ちます」
「わかった」
リゼは柔和な顔立ちに似合わず、かなり頑固な一面を持っている。自分で決めたことは貫く性格だとわかった以上、彼女に質問することはもうなにもない。体調が回復したからといってこれだけ世話になっておいて、それで彼女と別れるつもりは元からなかった。理想を言ってもいいのなら、記憶があろうがなかろうがリゼをそばに置いておきたい。そう思っていたからまだ一緒にいられる正当な言い訳が見つかったことにイリヤは酷く安堵した。
「でもご迷惑になるなら諦めます」リゼは珍しく自信なさそうに声をひそめる。
「そんなことあるわけない」
まだ握ったままだったリゼの手をすこし強く握りなおして言う。
これからも彼女を迷惑に思うことなど絶対にない。もしこの奇妙な共同生活に終わりがくるとしたら、離れていくのはリゼのほうで、原因になるのは記憶を取り戻したあとのイリヤのはずだから。
「おやすみなさい」
笑顔が戻ったリゼは自分の寝台へと移り、眠る準備をはじめた。灯りの調節弁がひねられ部屋が徐々に暗くなっていく。二つの寝台のあいだに引かれた間仕切りに映る影と、服の結び目を解く衣ずれの音が隔たりを越えてリゼの動作を勝手に教えてくれる。ゆらめく影に見入り、とぎ澄まされた耳がすべての音を拾い集めてこれ以上よからぬ考えを持ってしまわないよう、顔を背けて眠ることに集中した。
きれいな花は見るだけに限る。迂闊に花弁に触れればすぐさま花冠は形を崩し、咲きはじめたばかりでも散って元には戻らない。それなのにそばにあった清廉な花が自分のために誰かに散らされていたかと思うと、自分の愚鈍さにめまいがして、感じたことのない仄暗い感情が心の底で渦を巻く。生きるためにどんな選択をしようともすべて彼女の自由だと、止めようともしなかった自分の薄情さをいまさら恨めしく思った。