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3-6 約束

 朝日が姿を見せる前に家を出て村のはずれまで、林道を馬に任せて移動する。雪に埋もれて道と呼べるようなものなどないように思えたが、雪がめくれた場所から荷車の轍が深く残っているのが見えた。村の者が定期的にどこかへ、行商へ出ている証拠だ。土地勘のまったくない場所で、目印のない雪原を進むのは多少不安だったが、町まで人の手が加わった道がつづいてるとわかって安堵した。

 馬の白い息が塊になって吐き出され、自分の目の前にも白い靄ができる。これから気温はあがるだろうが、まだ日がのぼって間もないころで気温は低い。皮膚を切るような冷たい風が山間を這い、雪を舞い上げ、その度に外套の裾をひるがえす。その風から逃れたいリゼが、家を出てからずっと背中に張り付いていた。

 林道を抜けて空地へ出ると波打つような小丘陵が無限に見えるほど広がっている。いまのところどんな景色をみても記憶が揺さぶられることはないが、雪原での行動に迷いがないところを見るに、この地方で生活または活動していた経験は十分にありそうだ。

 気温があがりはじめたころ、ようやく馬車が通れそうな広さの街道があらわれ、道を覆う雪もなくなり歩きやすくなった馬の歩行速度があがった。こまめに休憩を挟もうと思っていたが、訊くたびにリゼは断り、イリヤも疲れを感じなかったから馬の様子も確認しつつ彼女がうなずくまでは止まらず歩を進めた。

 それまで誰とも行き交うことのなかった道は町が近づくにつれて整備され、さらに歩きやすくなる。別の方角からの道ともつながって徐々に広くなる道や変わる景色に飽きることはない。踏み固められただけだった土道は、町へ入るころには石畳の通りへと変わっていった。

 通りすがる人が増えてきて、ふたりは馬から降りて歩く。リゼは体を伸ばし、ちいさく跳ねて脚をしきりに動かしていた。馬移動も楽ではないからきっと我慢していたのだろう。自分はなんともないが、彼女のために定期的に休憩を取るべきだったとイリヤはいまさらながら反省をした。

 町全体の規模はちいさいが建物は隙間なく密集していて、通りには露天商が並び、想像していたよりもかなり栄えた町だった。中央広場まで出ると人はさらに多くなり、その風景にイリヤは既視感を覚えた。人の顔に覚えはなく、この場所である確証はないが、町並みに見覚えはある。それがリゼと治療のために訪れたときに見た記憶なのか、それ以前からの記憶なのかはまだ判断がつかない。

 通りすがる人々はリゼに見入ったあと、ついでにイリヤを見る。そしてイリヤの顔を見たあと歩き出し、もう一度視線を顔に戻す。顔に走る雷の名残りが珍しくて見ているらしい。それがなにかの痕だとわかると模様自体には興味をなくしてしまうが、顔に不気味な模様のある男がひときわ目立つ美人を連れていたら注目を浴びないわけがなかった。

 居心地の悪さに顔を隠そうかと考えているとリゼの手が腕に触れる。


「体調はどうですか? この先に馬を預けられる宿所があるので、まずはそちらに向かいましょう。私はそのまま診療所へ行ってまいりますので、イリヤさんは休んでいてください」

「僕は平気だよ。リゼこそ疲れていないの?」

「はい、元気です」


 確実に疲労は溜まっているはずだが、旅の楽しさからすこし興奮状態になっているのだろう。彼女は村にいたときよりも生き生きと、嬉しそうに握り拳を両手で作って笑っている。


「そう、それならいいけど」

「先生がお忙しいかもしれないので、早めに連絡をいれておきます」


 町は人で賑わってはいるが、彼女ひとりでうろつかせるのは心配で、宿を取ったあとも診療所までついていくことにした。中央へ進めば進むほど家と家の間隔は狭くなり、路地は迷路のような作りになっている。元は城壁だったのだろう中途半端に崩れた名残りが、いまはただの仕切り壁として利用されていた。大昔に城郭都市の建築を取り入れた町が、そのまま宿場町へと変貌したのだろう。活気ある中央広場や目抜き通りから幾重にも分岐する路地は複雑に入り組み、裏路地をのぞいてみると、密集した建物が落とす影には不穏な気配が漂っていた。人が増えれば増えるほど悪いものも呼び込むのは必然で、裏路地へは入らないようリゼに強く注意をしておいた。

 散々注意したというのにリゼの足は目抜き通りから離れていき、目的の診療所はその入り組んだ裏路地の一角にあった。見た目は普通の民家のようだが、消毒の匂いが路上にいてもかすかに感じられる。一日の内、日の当たる時間はどれほどあるのだろうかと考えてしまうほど暗い路地だが、一応普通の装いの町人が通りすぎるから危険な区域ではなさそうだ。

 窓からのぞき見ると、受け付けしているのかどうかもわからないほどなかは真っ暗だ。どんな伝手を頼ったらこんな怪しさしかない診療所にたどり着くのか、リゼはためらう様子もなく扉をあけて、灯のない薄暗い診療所のなかへ臆せず入っていった。

 お嬢様育ちらしからぬ行動力はあるが箱入り故の無知なのか、彼女は警戒心が薄いところがあると、一緒に生活しているあいだ頻繁に感じていた。どれほどの家柄かは知らないが、大切に育てられてきたことは彼女が髪の毛をひとふさ耳にかける仕草だけでもわかる。それなのに、知りもしない男とふたりきり、不自由だらけの家で暮らし、さらに介護までさせていたなどと親が知ったら、イリヤは拷問の末に首をはねられるかもしれない。

 足を踏み入れた小部屋は待合室か応接室か、複数の椅子と埃まみれの書類が山積みになった机だけが置かれている。周辺住民から頼られているような診療所には見えないが、部屋は十分すぎるほど薬の匂いが充満していた。先に見える閉ざされた扉の奥からは人の気配がする。


「先生、いらっしゃいますか」


 リゼの声からすぐに反応があり、奥からがたごとと大きな物音が鳴った。重たいものが床に落下する音とともにくぐもった女の怒鳴り声と、それをなだめるようにしゃべる低い男の声が聞こえる。そして苛立ちを含む足音がひとつ階段を登っていった。

 目線だけちらりとリゼに送るが、当然ながら彼女はその物音が雄弁に物語る、奥の部屋での出来事について想像を巡らせていない。しばらくしてもうひとつの足音が扉に近づく。

 開かれた扉口からのそりとあらわれた長身痩躯な男は、無精髭を生やし、乱れた着衣から胸元をおおきく露出させていた。細身ながらに均整の取れた体つきで、長い腕を気怠そうに持ち上げて、汗ばんだ顔を袖で拭き取っている。不揃いに生やしている髭に気だるそうな表情、医者らしからぬ風体でかなり年上に見えるのに、なぜか妙な瑞々しさを放っていた。

 こういう場面に遭遇したときは、すかさず恥じらい顔をそむけて目を伏せるのが淑女定番の所作だが、まったく気づいていないらしいリゼはすこしも怯まず礼儀正しくあいさつをした。


「先生ご無沙汰しております」

「おお、無事生き延びたか」


 リゼから先生と呼ばれた男は、イリヤに気づいて細い目を幾分か見開いた。観察するような鳶色の瞳が見えたとき、「胡散臭い」そう瞬時に頭が判断した。けれども霞む記憶のなかに治療をしてくれているこの男の姿があったから、一応礼をしようかと思ったが、イリヤよりも先にリゼが話はじめて発言の機会を逃してしまった。


「先生のおかげで体調は回復したようですが、記憶は混乱したまま戻りません」


 リゼに目尻を下げていた医者は、途端に興味をイリヤへと移した。


「へえ、それはそれは。面白いことになってるね。今日はもう患者こないから診てあげよう、奥に来て」


 人差し指だけで呼び寄せられ、素直についていく。奥の部屋へ入る前に、リゼを振り返りあえてゆっくりとしたしゃべり方で諭す。


「ひとりでどこかに行かないで、ここにいて。いいね」

「わかりました。では私はそちらで待たせていただきます」リゼは壁際に置かれた長椅子を指差しながら言う。

「なにかあったら呼んで」


 通された診察室とおぼしき奥の部屋は、手前の乱雑な部屋からは想像できないほど整頓され清潔に保たれていた。中庭から斜陽が差し込み、路地からみえた暗い部屋とは別世界なほど室内を明るく照らしている。

 言われる通りに服を脱ぎ診察台に腰掛けると、それまで誰かがここにいたであろうにおいと温もりが伝わってくる。最初に感じた印象通り、この医者はろくでもない男だろう。そう思えば思うほど、なぜリゼがこんな医者を頼ったのかが不可解でならない。

 信用ならないと思っていたが診察時は打って変わって真面目な表情になり、触診の手際も指示する声もまるで別人のようだった。肩の傷もそれ以外の傷も全身隈なく調べられ、言われた通りに体を動かし痛みもなにもないこと、運動機能に問題がないとわかると記憶についての質問をはじめた。


「なにを思い出せない?」

「自分に関わるすべてです。名前や過去、どこにいてなにをしていたのかも」

「君は自分を忘れたかったのかな。過去を捨てて生まれ変わりたい、とか」

「そんな器用な真似できるものなんですか」


 服を着込むとき大きな鏡に全身が映る。改めて見るとまるで稲妻を描き写したかのように、樹状の模様が刺青のごとく左半身を覆っていた。模様は喉と左頬にも伸びていて、その不気味なありさまに、これがリゼの体に刻まれていなくてよかったと見るたびに思う。


「記憶の忘却は、時間経過や関心度合い、情報の上書きなど理由はいろいろあるけど、自我の防衛反応によって不都合な事実だけを切り取ったように閉じ込めてしまうこともある。まあ君の記憶障害は単純に落雷が原因だよ。一時的な喪失ならなにかの拍子に戻る場合が多いけどね、だがもう一度雷に当たれば戻るってものでもない。今夜、この町の名物料理を食べてそのおいしさが刺激になって思い出すかもしれないし、何度修羅場に遭遇しても思い出さないかもしれない。良い機会だと思って、気にせず別人として生きれば?」

「簡単に言ってくれますね」

「助言だよ。忘れたままのほうが幸せなこともある。それに自分が何者か思い出したところで、たいした人間ではないと思うよ、君は」


 冗談というふうでもなく、それは医療に携わるものとして患者にかける適切な言葉ではないような気がする。医者だろうがなんだろうがそんな言い方をされたら、ほとんどの人間は腹を立てるのではないだろうか。けれどもイリヤはなぜかそれを否定しようという感情がすこしも働かなかった。それよりもイリヤがひとことふたこと話すたび、いちいち面白がるように笑う彼が気になっていた。


「あなたとは初対面ではなさそうですね」


 その言葉に細い目がすこし開いてイリヤは確信した。最初に顔を見たとき流れ込んだ光景はこの場所ではなく、この医者もいまよりすこし若い。その記憶は落雷を受ける前に見たものなのだと直感で悟った。


「知り合いってほどでもないけど、何度か怪我を診てやったことはあるね」

「それなら、ひとつだけ教えてください」

「ひとつでいいの?」腕を組み机に腰掛ける彼は余裕の表情でイリヤを見返す。

「僕に家族と呼べる人はいますか?」

「個人的なことはそんなに知らないけど、基本的に君は()()()()()()とは無縁な人だよ」


 イリヤくらいの年齢ならまだ独り身でいるほうが多いだろうが、早々に結婚をして家庭を持っていてもおかしなことではい。しかし医者はいないと断言し、その言葉に嘘がないこともわかった。自分の家庭どころか、親や兄弟という血縁さえいないというのなら、医者の言う通り、別の地で別人として生きることも難しくないだろう。この質問もやりとりもすべてを見越しての「助言」だったのであれば、やはりこの男は油断ならない。

 ほかにもイリヤがこれまでどこでどうやって生きてきたのか、リゼのことについてもこの男なら多少なりとも答えられるはずで、いくらでも質問はあるが上階で静かに耳をそばだてている人物に、これ以外のことを聞かれるのは避けるべきだと感じた。この医者もイリヤを知っていたのにぺらぺらと昔がたりをはじめなかったのは、部外者の存在があったからかもしれない。

 察しのいい医者は話を切り上げ、棚から新しい薬を取り出している。イリヤはそれよりも欲しいものがあって、別のものを注文した。医者はその注文に驚いたあとまた腹立たしいにやけ顔を見せたが、その笑みは以前のイリヤを知っているからこの状況を楽しんでいるのだ。以前の自分なら考えられない行動をしているのだと気づいて、その歯痒さにはじめて唸りたくなった。

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