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1-6 約束

 空から黄昏時を紡いだような琥珀色の髪を耳にかけ直し、目の前の可憐な娘が食後の片付けをしている。青年はそれを手伝おうと、しびれの残る手をついて椅子から立ち上がろうとして彼女に止められる。経年劣化の浅い家、火の灯された暖炉、生活に必要なものはすべてそろっているが、肝心の記憶が青年にはなかった。

 十日前、目を覚ましたらここにいた。身の回りの世話をすべてしてくれる彼女の名はリゼといい、血の繋がりもなければ古くからの友人でもなく、出会ったのはつい最近のことだという。

 なぜ世話係として一緒にいるのか、それまでの経緯は思い出せず、彼女はただ「なるべくしてなっただけ」と繰り返す。彼女も青年のことは詳しく知らないと言ったが、その言葉に違和感を覚えたものの、まったくの嘘という様子でもなかったから問い詰めたりはしていない。

 記憶をなくした原因は側撃雷を受けたせいらしい。目を覚ますまでずっと昏睡していたわけではなく、落雷を受けてから朦朧としたまま生活をしていて、はっきりとした意識が戻ったのが十日前のことだ。雷を受けた証拠として、左半身にはうっすらと赤い樹状模様が刺青のように走っている。

 意識が曖昧なとき、医者にも診てもらったようだが、鎮痛剤の他にも大量の薬を処方されていた。大木への落雷のあと、そばにいた馬にも分散されたことで奇跡的にこれほどの軽傷で済んだのだろうということらしい。どれほどの腕前の医者に診てもらったのかは知らないが、雷に打たれて生き延びるという稀有な症例はそうそう診ていないだろうから、もっともらしい適当な薬を渡して追い返したのではないだろうか。

 いずれにしても雷に打たれて生き延びたというのは本当のようで、一生分では済まされないほどの運を使い果たしてしまったに違いない。

 いま自分のことでわかっているのは、一般的な榛色の髪と瞳の色、背は高めだが高すぎるということもない。年齢はリゼより上のようだがそれほど差が離れているようでもなく、顔つきも特筆すべき点はなく全体的にどこにでもいそうな男。なにもかもが至って平均であり、落雷の痕以外に目立つところもなく、唯一の特徴といえば無駄な贅肉は一切なく筋力がかなり多いこと。いまは震えているが握力も相当あるようだから、かなり激しい手作業をしていた肉体労働階級だったことがうかがえる。しかしあまり日焼けを重ねていないから、屋内作業者だろうか。いまのところ手がかりがまったくなく、外見からの推測しかできない。

 事故当時よりは体から赤みがひいて体の運動能力も回復してきているから、無理にでも体を動かしていれば改善はしそうだが、顔にも残る落雷が走った痕などは完全にはなくなりそうもない。

 落雷を受けたときに彼女もその場にいたらしいが目に見える被害はなく、外傷を負ったのが自分だけでよかったと思う。彼女に傷が残れば家族や周囲の者は一生嘆きつづけることになるだろう。その場面をたやすく想像できるほど、まるで彫刻に魂が宿ったのではないかと思うくらいに彼女の美の比率は整っていた。

 同じ人間なのかと疑うほど、透き通るような肌に血色のよい頬、一切の無駄がない彼女の横顔を感心しながら眺めていると、ふいに視線がかち合う。


「イリヤさん、薬は飲みましたか?」

「まだだけど、ここのところ調子いいし痛みもないから飲んでない」

「体調がよくなったと感じても、それは薬が効いているからだそうですよ。ちゃんと処方された分は飲みきらないといけません」


 名前を呼ばれて返事をしたが、もちろん自分の名前なども覚えておらず、便宜上、彼女からはイリヤと呼ばれているがおそらく本名ではない。顔を合わせたときに自分でそう名乗ったわけではないというから、「イリヤ」というのは彼女がつけた名で、おそらく「リゼ」という名も愛称か偽名だ。

 まるで聞き分けのない子どもに諭すように、リゼはやさしい口調で語りかけ、屈んで顔を覗き込んでくる。とっさに椅子の背もたれに張り付くほど背中をそらして距離を保ち、翠玉色の瞳から顔ごとそむけようとすると、彼女はすかさず両手で頬を押さえた。


「やっぱり、最初のころより赤みは薄れてきているみたいですよ。よかったですね」


 両手に頬を固定され、彼女の視線は肌や怪我の具合を確認するため顔中を走り回る。怪我人相手に過保護になっているだけなのか、もともとの性分か、知り合って間もないはずなのに接し方は親しい人に対するそれと大差ない。

 聞いた話をまとめると、つまり彼女とはじめて出会ったのは、まさに雷にあたった日ということになる。意識が混濁しているあいだ、彼女は献身的に身の回りの世話をしてくれて、自分もほうけた老人のようにそれに素直に従っていた光景だけはうろ覚えながらに思い出せる。

 知人でもない彼女が記憶を取り戻す手伝いなどできないが、自分自身、不思議と焦燥感に襲われることもなく、事故当時のことを根掘り葉掘り聞き出したいとも思わなかった。


「肩の傷は?」

「この通り。もう平気だよ」


 左腕を大きく伸ばし、縦横に動かして見せる。派手に流血した左肩の裂傷も傷自体は浅く、縫合創部が引きつるものの傷は完全に塞がり、肩を回しても動きには支障ない。その様子を見て彼女はよかったと、嬉しそうにほほ笑んだ。

 意識が戻ったときイリヤはひどい混乱状態に陥ったが、なだめるような彼女のやさしい声は気を落ち着かせるのに役立った。自分が何者かもわからない状態で、初対面の人間がいきなり目の前にあらわれたにもかかわらず、不思議と警戒心を持たなかったのは彼女だからこそだと納得がいく。

 わからないことは積もり積もっているが、目先の問題として最近気になりだしたことがある。


「薪をもらいに行ってきます」


 すました顔で静かに言って深い緑色の外套を羽織り、木挽きの小屋へ薪を買いに行く。帰ってくるときは木こりが薪の運搬を手伝ってくれて、そしていつもリゼの服は汚れている。薪のほかにも併用して使っている泥炭や食糧なども調達してくるが、その資金がどこから捻出されているのかが不明だった。落雷前にイリヤが所持していた荷物は少量で、必要以上に金品を携帯しているわけでもなかった。意識がないあいだにイリヤが持っていたものを掠める暇は十分あったが、仮に財宝を持っていたとしてもリゼという娘はそんなこと、思いつきさえしないだろう。

 記憶喪失でもどんな勘の鈍い人間でも気付く、質素な服を着ていてもその指先の動きだけで彼女が高貴な生まれの娘であるとわかる。食材の元の形も知らず、ひとりで服を着たこともなければ、首のうしろ側が日焼けするほど屋外にいたこともないほどの育ちだろう。下手をしたら異性に触れたことすらないかもしれないのに、そんな彼女がどういった経緯で、こんななにもない家でイリヤの世話役になったのか想像もできない。縛りつけていないから逃げ出せるのに、逃げ方もわからないほどの無知とは思えないし、逆に現状への順応力の高さと行動力を見せている。

 彼女は帰るところも家族もいないと言ったが、それは本当で嘘。イリヤはどういうわけか彼女の言葉の真偽を見極めることができた。けれどもそれは嘘をついてまで隠しておきたいほどの彼女の個人的な事情だから、暴きたいとも思わないしそれほど気にならない。

 扉を開けると深夜に降った雪が地面をうっすらと覆い、照り返しの眩しさに目を細める。まっさらな雪面には彼女の足跡だけが一筋伸びていて、イリヤはそれとは逆方向へ歩き出す。踏み出した数歩でぐらつきを感じなかったからもう杖の支えもいらないと、一度は握った杖を壁に立てかけて家の裏手に足を進めた。

 広くはないがふたりで住むには十分な大きさの家、水捌けのいい軽傾斜の土地に建てられ日当たりはよく、湧き水か雪解け水の流れる水音が絶え間なく聞こえる。生活傷がほとんどないこの借家は村はずれにあって、生活水準をみるに、人里離れた辺境の地という感じはせず、主要街道か大きめの町に近い村かもしれない。

 ゆっくりと歩いて薪置き場を探り、そこにあった手入れのされていない錆びた斧をひっぱりだす。もうすこし体が自由に動くようになれば薪割りくらいできるはずだが、まだ斧をうまく振り下ろせるほど力を込められない。柄を握り軽く振ってみると体が斧を振り下ろす動作を知っていた。両手をじっと見つめて握ったり開いたりしてみる。考えていなかったが筋肉のつき方からしても肉体労働というよりは、武器を扱う兵士などという可能性のほうが高い。手の皮膚も硬いから常になにかを握っていたのだろうが、握っていたのは工具ではなく武器かもしれない。だが体に傷跡がほとんどないから、用心棒や傭兵のようなあらくれ仕事ではなく、よくて衛兵くらいだろうか。しかし、どこかに仕えていたなら身分や所属を証明するものを所持しているはずなのにそれらしいものはなく、事故当時着ていた服も旅人にしては軽装だったというのが妙だ。

 まあいいや、そう頭のなかで呟いてイリヤは家の周りを散策する。自分のことに関してだけ、まったくと言っていいほど情報がない。記憶に靄がかかるとはよく言ったもので、目の前にあるとわかっているのに手を伸ばしても届かない。必死に追いかけても距離は縮まらない、まるで夢のなかにいるような。そう思ったら途端に興味が薄れてしまった。もともとそういう性格なのか、脳が思い出そうとしていないのかはわからないが、とりあえず彼女にだけは迷惑をかけないよう体の回復だけは急ぎたい。

 ふいに視線を感じてその方向を見上げると、大木の枝に止まっている立派な羽角を持った大型のミミズクがじっとイリヤを見ていた。巣でも近くにあって人間を警戒しているのだろうか、どこへ動こうとも視線の追尾からは逃れられなかった。厩の裏手に回って身を隠すと、枝を移動して監視するようについてくる。野鳥に弄ばれて散々家の周りをうろつかされたあと、幹に手をついて休憩しているところでリゼが、馴鹿をつれた木こりの青年とともに戻ってきた。

 心配そうな顔でリゼが小走りに近づいてくる。


「大丈夫ですか」

「うん、体を動かそうと思って歩いていただけ」


 彼女がつれてきた青年は荷車から手際良く薪をおろしながら、こちらの様子をちらちらと盗み見ている。前回薪を運んできた木こりの大男より随分と年若いが、顔がよく似ているから家族かなにかだろう。

 イリヤはまだ村の者と話をしたことがなかった。ふたりの関係をリゼが村の者にどう説明しているのか知らないが、村に突然あらわれた得体の知れない異分子は受け入れ難いのではないだろうか。


「ひとりで歩けるから心配ないよ」


 設定がわからない状況下で必要以上に人前でリゼと接触するのは避けるべきかと思い、やんわりと断ったつもりだが彼女は気づかず掴んだ腕から手を離そうとしなかった。リゼはぴたりと寄り添い補助しようとしてくれているが、力が入りにくいいまの状態でも彼女のほうが非力だ。彼女の親切心を押しのけるのも気が引けて、微妙な力加減で頼る振りをしているから余計に歩きづらい。

 支えようと腕に添えられた彼女の手を何気なしに見遣る。彼女の手にはいつも包帯が巻かれているが、自分で巻くのが苦手らしく結び目はいつもほつれかけている。

 そのあいだもひきりなしに送られてくる視線。作業の手が疎かになるほど木こりの青年が魅入っているのは、ふたりの動向ではなくリゼだけだった。きっといままで生きてきたなかで、こんなにきれいな人は見たことがないのだろう。ここまで洗練された美を見せられたら目を奪われて当然で、年齢的にも同じころだろう彼女に懸想するのも無理はない。

 年頃の若者が女性に見境なく夢中になるのは仕方のないことだが、リゼが向けられているあまりに粘着質で遠慮のないその視線にイリヤはなんとなくひっかかりを感じ、わざとよろめいた振りをして彼女の肩を思い切り自分に引き寄せた。

 リゼはそれに気づいて急ぎ、体を支えようと腰に腕を回す。まるで抱き合っているようなふたりの姿に青年の顔は炎が灯ったように一気に赤くなり、すぐに視線を地面に落としてしまった。


「全部おろし終わったので、帰ります」


 ふたりの様子から目をそらしたままの青年は、見た目からの予想を裏切るうわずった高い声でたどたどしくそう言うと、素早く頭を下げた。体格が立派すぎて勘違いしていたが、声変わりの途中ということは、彼はリゼよりもさらに年若い少年だ。


「あれ。なんだ、子どもだったのか」


 てっきり嫁候補に値踏みでもしているのかと思ったが、彼は純粋にきれいなものに見惚れていただけだった。どんな反応をするか見たくて軽くからかったつもりだったが、さすがにまだこういうことに免疫のない子ども相手には意地悪がすぎたかもしれない。大人気なかったことを反省し、馴鹿をひいてそそくさと帰る少年の背中に詫びた。

 このささやかな牽制に気づいていないリゼも少年の背中を見ながら言う。


「幼いころから家の手伝いをしているそうですよ、しっかりしていますね。きっと遊びたいだろうに。一見しただけではイリヤさんとも差を感じません」

「それ、どういう意味」


 ぼそっとつぶやいたせいで、その質問は彼女の耳に届いていないようだった。リゼの目に自分はどんなふうに映っているのだろうか。たしかにあの少年は父親譲りの逞しい体格で大人びて見えるが、まだあどけなさを残す少年から十歳は年上であろう自分と大差ないというのはいったいなにについてなのか。なんだか腑に落ちない思いだが、リゼには悪意などないから、気を取り直して疑問に思っていたことを訊く。


「薪とか食べ物は、どうやって手に入れてるの?」


 よそ者であるふたりが消費する薪や食事をすべて無償でわけてもらえているとは思えないから、その資金源が気になった。こんなちいさな村で生活費の調達などままならないはずだ。


「なにもできない私に差し出せるものなんて、そんなに多くありませんから」


 一瞬言い淀み、気まずそうに俯いてしまった彼女を見て、その言葉の意味を探し、しばらくしてから察した。

 彼女は素性をひた隠しにしているが、良い家柄の娘であることは明白だ。花のように育てられたはずの彼女の凋落をすこし気の毒に思うも、生き抜くために身を削ることは方法は違えど誰しも同じである。自分は記憶のないまま世話をしてもらっている立場であり、不自由な体ではまだ手助けできることもなく、さらにその恩恵にあずかっているいまは無能な他人が口を挟むことでもない。

 金だけが目的であれば、若くうつくしい彼女なら大きな町へ出て上手に自らの花を売り、相応以上の対価を得て華やかな暮らしに戻ることもできるだろう。けれども、その方面の知識や技術を手ずから授けるのはいささかためらわれる。どんな生き方も自分で学び選択すればいい、イリヤはそう考えて口をつぐむ。

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