堂島 夏生という男
思えばクソッたれな人生だった。
堂島夏生、享年十五歳。いわゆる『いい子ちゃん』で、両親の言う事も、教師の言う事も素直に聞いてきた。それが当たり前で、これ以上ないベストな生き方だと思っていた。
ずっと満点で、主席にいるのが当たり前。
そんな人生を突き崩したのは、名も知らぬクラスメイトの一言だった。
「堂島。お前さあ、いい子ぶって疲れねぇ?」
そいつは中学の不良グループのお頭みたいな奴だった。
みたいなというか、実際にそうだったのだが――当時のジェクス、夏生にとっては知らぬ情報だ。
逆立てた髪のてっぺんを染めていて、顔つきも相まってなんだか猿のモンスターみたいだなと、その時は呑気に考えていたものだ。
「どういう意味?」
「そのまんまの意味だよ。なあ、たまには息抜きも必要なんじゃねえの?」
「別にそんなの考えた事もないし」
本を抱えて立ち上がると、猿のモンスター――名札には『銀条』と書かれているから、そう呼ぶとしよう――が、行く手を塞いできた。
「ンな邪険にすんなよ、オレは心配して言ってんだからさ」
「友達でもないのに?」
「薄情だな、クラスメイトだろ。な、帰りにゲーセン行こうぜ」
自分のものより太い腕で肩を組まれ、妙な馴れ馴れしさに警戒を覚えた。
けれど同時に、夏生には魅力的な誘いにも聞こえていた。
両親は昔から教育しか頭にない人で、テレビゲームをはじめ、アニメも漫画もネットも、果てはお菓子に至るまで触らせて貰えなかった。それらはすべて、成長の妨げになるものと見なされていたからだ。
周りにある物は厳しく制限され、それが子供にとっての普通だと思っていた。だが、どうやら周りはそうではないらしい。
「昨日の『ストリンガー・ナイン』面白かったよな!」
「今週のステップ買った? 持ってるんだったら読ませてよ」
「面白いチャンネル見付けてさー。マジおすすめだから」
「コンビニにあの商品売っててね、もー笑えるほどマズかったの!」
朝から下校の時間まで、誰の口からもそんな話題が出てくる。
夏生からすれば、それらはすべて異世界人の会話に等しかった。意味が分からないし、何を喋っているのかも分からない。ただ聞いていると無性に苛立ちを覚えて、いつも休み時間には耳栓をして、自主学習に励んでいた。
そんな夏生に声を掛ける者が現れないのも、また当然の事で。
中学になるまでずっと孤立状態で、だからこんな風に声を掛けてくれる人はほとんどいなかった。これほど密着されたのも初めてだ。
「ゲーセン……?」
「なにお前、ゲーセンも知らねーの? ゲームセンターだよ、筐体とかユーフォーキャッチャーとかあんの。知らねえなら教えてやるよ。な、行こうぜ!」
強く腕を引かれ、夏生は少しだけ迷った。
知られてしまうと、あとで親にうるさく言われるだろう。言われるだけならまだ良い。体罰にまで及ぶとヒステリックになって、なかなか落ち着かない場合がある。そうなったら厄介だ。
適度に収めないと、取り返しのつかない事になってしまう。
「……一時間だけなら」
結局、夏生は銀条の誘いを受けた。
この日から「一時間だけ」は何度も繰り返されるようになった。しまいには二時間、三時間とドンドン伸びていき、それに従い銀条や彼の友人とも親しくなり、感化されて口調や服装も変わっていった。
目ざとい両親が、その変化に気付かないはずもない。
「夏生! そのだらしない格好はなんだ!」
シャツの襟を第二ボタンまで開け、ネクタイを緩めた恰好で家路に着こうとしていたところを父親に見付かったのは、最悪としか言いようが無かった。タイミングが悪かったのだ。
「今の子供の間では当たり前なんだよ」
内心では言い返したい言葉が山ほどあったが、無難な受け答えに留めておいた。けれど僅かながら苛立ちが漏れ、それが癇に障ったのか胸元を掴み上げられる。
「誰に対してそんな口をきいていると思っているんだ、生意気を言うな!」
「…………っせぇな」
「何だと!? 今すぐ家に入れ、みっちり説教してやる!」
「――ッは。誰が好きこのんで戻るかよ、こんな家」
手を振りほどいた夏生は、吐き捨てるように呟いた。
そのまま怒り狂った父親から逃れ、頼ったのは銀条の知り合いの家だ。三十一歳、一人暮らしだという木暮という男は、髪にグレーのメッシュを入れ、いつも煙草と酒の匂いをさせていた。
「すみません、お世話になっちゃって」
「いーのいーの。クソ親のこと聞いたよ、大変だったねえ」
木暮は妙に間延びした口調で喋りながら、透明な液体が注がれたコップを夏生の前へ置いた。何気ない動作でそれを口元へ持って行った時、アルコールの独特な匂いが鼻腔をかすめる。
「これって……」
「うん、酒。嫌な時にはこれだよ」
「けど俺、未成年ですよ」
「薬だよ、薬。グイッといっちゃいなよ、クソ親から逃げられた記念にさ」
そう言われ、両親の顔が浮かぶ。
笑顔よりも真っ先に思い出したのは、頭ごなしに叱責された時の鬼のような表情だ。とたんに胸の内に気持ち悪さがわだかまり、押し流してしまいたくなる。
「じゃあ、一杯だけ」
手元にあるこの一杯で爽快な気持ちになれるなら、それで良かった。
何もかも忘れてしまいたかった。
どうせもう、後戻りは出来ないのだから。
それから夏生は、酒を飲み煙草を吸うようになった。
木暮に連れられて色んな店にも行くようになり、以前よりも知り合いが増えた。喧嘩も日常茶飯事だ。
刺激的な毎日に、以前とは全く違う人生を送っているような気分だった。
それはまるで、生まれ変わったような。
◆◆◆
「たらいま。良いモン手に入ったぞ」
その日、夜遅くにアパートに帰ってきた木暮は、足取りも覚束ないまま、夕飯を準備して待っていた夏生に何かを手渡してきた。
オモチャみたいな色合いの、小さな錠剤だ。
「なんすかこれ」
木暮は気味の悪い笑顔で言った。
「薬らよ、薬。おめーもろめよ」
口が回っていなかった。
目も虚ろで、今の彼にこの部屋がどう映っているのかは分からない。明らかに正常ではない顔をしている。
けれど夏生には、どうしてか、幸せそうな笑顔に見えた。
「……一錠、だけなら」
分かっていた。
今の自分は、生まれ変わった姿などではない。
ただ堕ちて、堕ちて、堕ちて。
どこまでも堕ちて、煤けて、泥だらけになって。
――見る影もなく、汚れてしまっただけなんだと。
「これでろめよ、すっげぇから」
渡されたのは、アルコールの匂いのする液体だった。
それをあおった後の事は、よく覚えていない。ただ変容する世界のなか、何かをずっと強く願っていた気がする。
それから全てはひしゃげて、
上も下も分からなくなって、
自分すらも分離して、
色の在り方に気付いたようで、
万物が線で繋がったようで、
人間には触れられない、なにか大きなものの存在を、感じたようで――……。
「きみ、馬鹿だねえ」
気付けば夏生は、どこまでも広がる星空のような場所に立っていた。
一瞬幻覚かと思ったが、それにしては意識がはっきりとしている。ただ薬を呑んだ後の事はよく覚えていない。サイレンが微かに聞こえていたような気もする。
「あれが何かも、一緒に呑んだらどうなるかも分かっていたくせに。無知なフリして従って、それで死ぬなんて。ドMかい?」
どこかから聞こえてくる声。
やたら失礼な物言いに、正体を掴んでやると意気込んで上を見上げると、そこに何か白いものが見えた。
絹糸のごとき白髪、透き通った薄い水色の瞳。けぶるような睫毛。服装は、薄く白いワンピース。
美が付くほどの少女がそこにいた。
「おい降りてこい、名乗れよ!」
「うわ、粗暴な人だな。僕こういう人苦手なんだよ……どうしよ。願いごと聞かなかった事にして、地獄にそのまま送っちゃおうかな」
「おいコラ! なんか不祥事っぽいこと呟いてねぇで降りてこい!」
「んー……しょうがないな」
少女は渋々といった様子で降りてきた。
「これでいいかい? それと、僕の名前は『オイ』でも『コラ』でもなく、ククリアだよ。それ以上乱暴な呼び方したら、不敬罪でゴミムシに転生させるよ」
「職権乱用かよ……。って、いま何て言った? てんせい?」
聞き返すと、少女――ククリアは、怒り顔から一転、ニンマリとした笑みを浮かべた。
「そう、転生。君は本来なら地獄行きが決定しているんだけど、死の間際の願いは、僕に届くほど強いものだった。だから、やり直しの機会を与える事にしたんだ」
「やり直し……? それじゃまるで、神様みたいな……」
「まあ、似たようなものだ。もっとも僕ら『管理者』は、君たちの想像する神様ほど優しくはない。だからまた道を踏み外す事になっても、眺めてるだけで関知しないよ。それを理解した上で、転生か地獄か。どっちか選んでくれ」
最悪な二択だ。
もちろん地獄行きは勘弁して欲しいが、神だか何だかよく分からない少女の言いなりになるのも釈然としない。
それでもやり直しの機会を与えて貰えるのは、夏生にとって嬉しい事だった。
もう一度やり直せたら。
もしも生まれ変われたなら。
そんな夢物語に憧れた事は、一度や二度ではなかった。叶えられないと理解していながら、女々しいと思いながら、それでも願った。
その願いが今、ようやく届いたのだろうか。
そして堂島夏生は、念願かなって生まれ変わりを果たした。
商人の家系であるアルスタッド家の三男坊として生まれたジェクスは、四歳の頃に神託者と告知され、五歳で家族から離れてモルダットへと移住した。それから七歳で能力と前世の記憶を取り戻し、鍛錬のすえ十四歳で旅立つ。
賢者の遣いの三人を連れ、各地に存在する炎の祠をめぐる旅。
その中で一人の少女に出逢い、ジェクス――夏生は、初めての恋をした。