監獄の中の男
「もう一度言ってみろ、罪人ふぜいが!」
「ぐっ……!」
ガシャンと激しい音が響く。
檻の格子にしたたかに体を打ち付けた少年は、その場にズルズルと倒れ込んだ。立っていた男が、彼の漆黒の髪を掴み上げる。
「神を裏切った大罪人め。そのお喋りな口を縫い付けてやってもいいんだぞ。ここじゃ全てが〝罰〟でまかり通るんだからなぁっ!」
「がはッ!」
みぞおちに一発叩きこまれ、意識が飛びそうになる。
それを怒りで留めながら、少年・ジェクスは、薄紅の鋭い瞳で男を睨みつけた。
「馬鹿だから馬鹿って言ったんだよ、脳無し共が。NPCのくせによ」
「黙れッ!」
男の太い両手が、ジェクスの細い喉を締め上げる。
「が、ァッ……!」
能力も使えない神託者では、体格差を前に為す術もない。
本来は大人同士であり、少年の体躯は〝時が止まっている〟故なのだが――それはこの場所では、何の意味も成さなかった。
此処は、『忘却の零番』と呼ばれる場所。
不死者のため、より正確に言えば神託者のために特別に造られた監獄だ。
歴史から抹消された元英雄は、この冷たい檻の中で一生を過ごし、やがて人々の記憶からも消されていくのが相応の罰とされている。
ただ此処は、人々の目に晒されないよう秘匿された場所。陽の下の英雄たちもあまり顔を出さないとあって、横暴な看守たちの温床、発散の場となっていた。
「どうした? 能力を使わないのか?」
「かっ……ァ、ぐぅ……ッ!」
「ああ、そうだった使えないんだったな! なんせその服は特別製だ。檻の格子も、神託者様の――」
「様々うるせぇよ……がっ!」
「口を慎めッ!」
ギリギリと喉を締め上げられ、爪を立ててもがくが頑丈な手は離れない。
どれだけ苦しい思いをしても、意識が飛ぶだけで死ぬ事は許されない。それが不死者に与えられた罰、償わなければいけない罪の重さだ。
かつての自身の望みであり、世界を救った事で与えられた、神からの褒美。それが今こうして牙を剥き、苛んでいる。
「神に背きし悪魔め!」
――悪魔。
卑しい願いによってククリア神から能力を得て、その力を悪用し民を裏切った者。それがこの世界における『悪魔』だ。
悪しき魔の者。
神の遣いと対極に位置する存在。
穢れたものとして、この世界では徹底的に隠蔽されている。民の神託者に対する信仰が揺らいでしまうからだ。
ここでは誰もジェクスを英雄扱いしない。
それどころか、人間として見ているかも怪しかった。この看守をはじめ、人々は神を裏切った事に対する怒りを彼にぶつける。
暴力を振るっても、食事を抜いても、拷問まがいな事をしても。すべては『罰』として正当化され、誰の目にも留まらない。
地獄のような場所だ。
それを他の神託者が知っているかどうかは定かではないが――神に洗脳されたお花畑たちの事だ、おそらく知らないだろう。
「どうせ共に旅をした賢者様の遣いも、肉壁にしか思っていなかったんだろう! たった一人で勝った顔をして、のこのこ戻ってきて! 恥を知れッ!」
……ふざけんなよ。
あの時どんな顔をしていたか、知りもしないくせによ。
心の中で毒づくが、当然ながら看守には伝わらない。
ジェクスはいよいよ抵抗を諦め、最近うっすらと見えるようになった幻影へ、埋没していく事を選んだ。
「レリ、ナ」
呼び掛けると、懐かしい姿が浮かび上がる。
レリナ・パルモント、ともに旅をした四人の仲間のひとりだ。賢者の遣いばかりだった中で、唯一自分からパーティーに加入してくれた、獣人の女の子。
白い猫種の耳、同色の髪に尻尾。先っちょだけ黒くて、「汚れてる」とからかうと、いつも顔を真っ赤にして怒っていた。
目は獣人にありふれた金色。たまに黒目が大きくなると、また印象が変わって見えたものだ。「可愛い」なんて口が裂けても言えなかったけど、どうせなら一回ぐらい言えば良かった。
きっとあの時と同じぐらい、喜んでくれていたはずなのに。
「レリナ……」
旅の途中、はぐれて行動するジェクスを目ざとく見つけては、いつも頬を膨らませて怒っていた。お小言の多さに、他の仲間からは「母ちゃん」なんて言われていた。
『もう、なんで集団行動しないの! 仲間でしょ!』
『お偉いさん方が勝手に選んだメンバーだけどな。俺はこういうの性に合わねえよ、はみ出し者だから』
『またそうやって流そうとする!』
『わーった、わーったよ! 行きゃいいんだろ、うっせぇなあ』
渋々重い腰を上げると、レリナは呆れ顔から一転、笑顔になる。こちらが少し折れると簡単に許してくれる、そんな『チョロいやつ』。
けれど、それが心から愛おしくて。
ずっと隣で怒ってくれるものだと思っていた。
『――ねえ、からかわないで聞いてね』
最終戦の前日、彼女は真っ直ぐな気持ちをジェクスにぶつけた。
『わたしを、その……あなたのお嫁さんにして下さい! 隣に、ずっと……この旅が終わっても、あなたの隣に……いたいの』
それは、願ってもない申し出だった。
ジェクスにとっても、彼女の存在はとても大きなものになっていたからだ。旅をした期間は一年もないけれど、傍にいない生活を考えられないほどになっていた。
『だってほら、ジェクスってだらしないし! 協調性ないし、金銭感覚おかしいし、後片付けも出来ないし! わたし以外の人が傍にいると、きっと嫌になっちゃうだろうから!』
『おいコラ、どさくさに紛れて……』
『だ、だからっ! わたしじゃなきゃ奥さん、務まらないと思うのっ!』
あの時、幸せだったのは確かだ。
しかし同時に、恐ろしくもあった。
この幸福があっという間に奪い去られ、この手の中には何も残らないんじゃないかと。
努力して積み上げてきたものが、一時の気の緩みによって瓦解し、奈落へと堕とされてしまうんじゃないかと。
皮肉にも、それは当たってしまった。
戦いの中、仲間は次々に殺された。
治癒も間に合わず、首を噛み切られ、胸を貫かれ――あまりにも残酷な死を前にジェクスが出来た事といえば、能力の反動に耐えながら、ただ目の前の敵を殲滅していくだけだった。
『この戦いが終われば……! この戦いさえ、終わればッ……!』
繰り返し己を鼓舞し、全身の痛みすら殺した。
殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して。
殺して殺して殺して殺して、殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して、殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して、
そうしてやっと、光明が見えた時。
足もとは赤い血の海で、傍らにいたはずのレリナがいなくなっていた。
『レリナ? レリッ……!』
彼女は目の前にいた。
モンスターに胴体を食われ、真っ赤に彩られた姿で。そこにいた。
『……ごめん、ね……』
そんな事を言っていた気がする。
しかし、あの時の事をジェクスはハッキリとは覚えてない。ただ声が嗄れるほど叫び、腕を千切れるほどに振るい、体がボロ雑巾になるまで能力を使い――気付けば、凱旋パレードの山車に乗せられていた。
『神託者様、ばんざい!』
『ジェクス様ー!』
呑気に花弁を散らし、口々に声を上げている群衆。
山車にも同じ花が飾られ、ジェクスの他に四人の仲間を模した木製の像が飾られていた。その中には、レリナのものもあった。
『……なんだこれ』
レリナはこんな不細工じゃねえよ。
心の中の呟きは、誰の耳にも届かない。ただ轟く歓声だけが、ジェクスの耳にあふれて聞こえていた。
レリナの目は、こんなキツくない。くりくりとしたアーモンド形だ。
鼻だってこんな低くないし、お腹まわりも最近ちょっとぽっちゃりしてきた。胸だってもっとある。髪型も違う、ここの毛はもっと跳ねている。本人が毎朝困っていたぐらいの剛毛だ。
お前ら、あいつのどこを見てたんだよ。
もっと見てやれよ、レリナを。
ただの一般市民なのに世界を救ったんだぞ。
俺なんかよりよっぽど凄いだろ、なあ。
『ジェクス様ばんざーい!』
『世界を救ってくれてありがとう!』
……世界? そんなものどうだっていい。
あいつと約束したんだよ。
この戦いが終わったら、結婚しようって。
王なんてガラじゃないから、店を構えてのんびり暮らそうって。
それで町一番の大家族をつくって、それで――……。
『なんだよ、これ……!』
漏れた声もまた、誰にも届かない。届きはしない。
ジェクスはうなだれ、頭を抱えた。
『狂ってる……。狂ってる、こんな世界』
昔は英雄になれる事に、純粋に憧れを抱いていた。
父に剣を与えられた日は、興奮して寝付けなかった。あの時間が永遠に続いていたなら、まだ希望を捨てずに済んだのだろうか――……。
「なんだぁ、壊れたか? 反応しなくなっちまったな」
どこかから声がする。
気付けば取り巻いていた回想は消え失せ、うっすらと見えていたレリナの姿も、どこにも無くなっていた。
「チッ、案外弱っちいなコイツ」
背中を踏まれ、ぞんざいに抱えられて檻の中に投げ込まれる。
重たい音を立て、錠が掛けられた。遠ざかる足音が響き、やがて何も聴こえなくなる。
ジェクスは起き上がる気力もないまま、四肢を投げ出して静かに目を閉じた。
「どうせ俺は……昔っから、弱いままだよ」