第七話
斜面を器用に下っていくリフリール。
木々の迷路をすり抜けるように下り続けた。
木を盾にして、彼は逃げ続けていた。
やがて息は弾み、次第に足の反応が鈍くなってきている。
彼が恐ろしい速度で迫るグリザールから少しの間でも、逃げ続けられたのは彼の体が覚えていた本能的なものだった。
石化する前の記憶が、彼をグリザールの鋭い爪から遠ざけていたのだ。
山の斜面を駆け降りる事がどれほどの事か、山に登る者なら理解していただけるだろう。
それはまさしく無謀と言ってもいいはずだ。
リフリールはその無謀を押し通しつつ、駆け下り続けた。
しかし、ついに息遣いが聞こえるほどに追いつかれたのだ。
「逃げられそうに……はっ……はぁっ……ないな」
足はもう満足に動かない。
化け物は猛然と突き進んできていた。
リフリールは足を止めて、グリザールを待ち構えた。
ここまで手こずらせた憎い人間を引き裂こうと、グリザールは足を止めた人間に襲い掛かっていく。
直線的ではあったが、その凄まじい速度の突進は避けられそうも無かった。
万全な状態ならば、一度くらいは避けられるかもしれない。
今は疲れ果てて、反応も鈍くなっていた。
間違いなく避けられない。
確実に一撃は受けるのだろうと覚悟を決めた。
グリザールは勢いを殺さずに突き進み、リフリールの体を強烈に弾き飛ばした。
リフリールは宙に浮いて、そのまま後ろの崖下へと跳ね飛ばされていた。
もちろん、勢い余ってグリザールも滑落していく。
『グォォォオオオオオオオオオオオオオオオ!?』
断末魔の叫びだった。
グリザールは何度も岩や木々に激突しながら、崖を転がり落ちていく。
ゴシャッ!! グシャッ!! と鈍く骨が潰れる音だけが聞こえてくる。
やがて衝突音が二つ崖下から聞こえてきた。
「山を下って行ったらしいな」
アーリがグリザールの残した痕跡を辿りながらそう言った。
するとダイラスが口を開いた。
「俺たちから引き離したんだろう」
「馬鹿な、あいつは戦うすべを持たぬ」
「見に行くのか? もう手遅れだろうが」
「黙れ、次にその口が余計な事を言ったら、ただじゃすまないぞ」
アーリが激情を抑えて、冷ややかにそう言い放つと出来る限り歩調を早めた。
ダイラスとウルゴはその後ろに続く。
それから、かなり歩いただろう。
上ってきた一時間分くらいを無駄にして、ようやくグリザールとリフリールが滑落していった場所へとたどり着いていた。
「ここで痕跡は終わっている」
アーリは崖下に目をやった。
すくむような高さだ。
目を凝らしてみると遥か下の方に一匹のグリザールが倒れている。
「いた。グリザールが倒れている。リフリールの姿は見えない」
「なに? 崖下に滑落させたのか?」
「どうやらそのようだ。あいつめ、やるな」
「ほっほ、勝手に落ちたかリフリールが謀った。どちらにせよ無事ならいい。奴の姿は見えんのか?」
アーリはもう一度目を凝らして崖下に視線を送る。
何度見ても、やはりグリザールの姿だけだった。
「声をかけてみるか?」
「それはやめておいたほうがいいじゃろうな、別の魔物が寄ってきてもかなわぬ」
「しかし……」
アーリが決めかねていると、後ろの木陰から気配を感じる。
―――まさかまた。
と、三人に緊張感が走った。
しかし、その緊張はすぐに解かれることになった。
「どうやら私は石である」
そう言いながら出てきたのは、リフリールだった。
体中土だらけで、服は擦り切れたり、ところどころ破けている。
すぐに三人はグリザールを奈落の底に叩き落したのは、このリフリールだと確信出来る容姿だ。
「服がぼろぼろじゃな。体は無事なのか?」
「全く問題は無い。ただかなり疲労感は感じる。ここまであの化け物を連れ出すのに体力の大半を使ってしまったから、崖を登るのが本当につらかった」
「待っていろ」
アーリは失われた古代の呪文を唱え、リフリールに力を分け与えた。
「大地よ、今私に力を与え、この者の苦痛を取り払いたまえ……」
次第に回復する疲労感にリフリールはなつかしさを覚えていた。
アーリは額にうっすらと汗をにじませている。
そのことに気が付いたリフリールは、労わるように首を縦に振った。
「楽になった。もう大丈夫だ」
「大丈夫か?」
「わかった。無理はするなよ」
「ああ」
ダイラスはその光景をみながら、ほほの傷をさすっている。
「失われた古代の技術か。初めて見たぜ」
「その通りだ。他言はするな」
「余計な事を言うつもりはない。が、グリザールの皮膚を切り裂いたのもそのおかげか」
「そうだ。私たちはメドゥを倒すために失われた古代の技術を集めてきている」
「ふっ、やはりついてきて正解だったな。だが俺の前で使っても良かったのかよ?」
「お前は嫌いだが、どうやら間者の類ではないな」
アーリはダイラスに軽く視線を送る。
小さく息を吐いてから、ダイラスが答えた。
「さぁ、どうだかね」
彼は満足そうににやりと笑みをこぼして、そっぽを向いた。
「痛みもないのかの?」
「全くない」
「だがこうして、触られるとどうじゃ?」
「感覚はある」
ウルゴがうーんと唸り声を上げながら、お手上げだと示した。
全く不可思議なこの体にどういったことが起きているのか、ウルゴの深い見識をもってしても、まるで見当すらつかないのだ。
とにかくエルフヘルムに急ごうと、彼が言うと一行は降りてきた山をまた登り始めた。
それから数日間のうちに三度の襲撃があった。
小規模で一行にとっては力不足の魔物達だったようだ。
ダイラスの大剣に薙ぎ払われ、アーリの鋭い剣さばきに倒れていった。
ウルゴは出る幕も無いと、戦槌を遊ばせる余裕すらある。
そんな一行が、やがてエルフヘルム前に位置するヨンドの村についていた。
このヨンド村が魔物の襲撃を防げているのは、エルフ兵と契約を結び、領地を確保しているからに他ならない。
そう大きくない村であったが、人々はエルフの守護によって塀の無い場所でもある程度は安全に暮らすことが出来ている。
木造建築の家が並び、広々とした畑には作物が育っている。
人々もせわしなく歩きまわって活気のある村だ。
「私達には補給と休養が必要だ。三日後にはエルフヘルムだ」
アーリが村に入るなりそう言った。
すぐに宿屋に荷物を置いて、彼らはしばしの休養のために自由行動となった。
ダイラスとウルゴは二人ですぐに酒場に向かっていったようだった。
無類の酒好きがここまで酒を飲まずにやってきたのは、絶え間なく襲ってくる魔物達のせいだ。
酒好きな冒険者の死因の多くは、酒を飲んでいるうちに襲われて何が何だかわからぬままに死んでしまうことだった。
そのことをよく知っているダイラスとウルゴは、旅の途中では自制心を良く働かせているのだ。
だが、今ここは村の中で休養の時分だ。
彼らに酒をやめろというのは余りにも酷だとアーリは諦めたようだ。
「これがこの村で使える銀貨だ。欲しいものがあればこれで買うと良い」
「これで何が買えるんだ?」
「パンなら30個ほど買えるな、それに服も3着か4着なら買えるだろう。まずは服を買う事をお勧めする。そのぼろきれは見るに堪えんからな」
彼は着替えを持っていなかった。
仕方なく応急処置をしたもののどうみても浮浪者しか見えなかった。
石化していた時に来ていた服は、歴史を知る上で重要な参考資料になるからと提供していた。
そのため彼には新しい服が必要だった。
「買う時にこの銀貨を渡せばいいんだな」
「そういうことだ。あとは店の店主がやってくれる。私は補給とここの領主に挨拶しなければならぬ、すまないがついていってはやれぬぞ」
「ありがとう。私は大丈夫だ」
リフリールがそう答えると、アーリはすぐに部屋から出ていった。
彼は一人残された宿屋の一室で、何をすべきか考えていた。
腰にまかれた布のベルトに下げられた硬貨入れ。
数枚の銀貨がその中には入っている。
ずしりと重さを感じ、リフリールは少しばかり落ち着かない。
「買い物か……」
村に着いたのが昼過ぎで、今はまだ日が昇っている。
少しだけなら散策する時間があるだろうとアーリがそう言った事を思い出していた。
「よし、言ってみるか」
木製の扉がギィィィっと音を立てて開かれる。
それから、古くなった階段をきしませて降りていく。
宿屋のおやじは、お出かけですか? と、一言だけ声をかけた。
リフリールは一つうなずいてからそれに答えた。
「服が欲しいんだが、連れに場所を聞くのを忘れていた。どこにいけばいい?」
「それなら、向こう側ですなぁ。ここから5軒先を左、酒場の前を通って少し行ってみてください」
「丁寧にすまない」
「いえいえ」
扉を出て、言われた通りに行くとシャツの絵が描かれた看板を見つける。
どれもこれも木製で出来ていて、趣がある街並みに見事に調和している。
前まで行くと中から怒鳴り声が聞こえてきた。
「だからあんたはいつになったら覚えるんだ!!」
癇癪を起したような、金切り声だった。
少しためらったものの、ここしかないと仕方なく看板をくぐって入っていく。
中ではなんと、体中温かそうな毛皮を身にまとった小さな娘が叱られていた。
「何やってもあんたはだめだねぇ!! どうしてあんたみたいな半人を置いているのかわかるかい!? 役に立つと思ったからだよ!! それなのにあんたって子は恩を仇で返すのかい!?」
少し太った中年の女性が見えてくる。
リフリールに気付かないほどに憤慨したその女性は織り機の前で、新しい服を作っている途中のようだ。
そこで何か重大なミスを毛皮娘がしたのだとリフリールは思った。
「あふっ……あっふっ……」
毛皮娘をよく見たリフリールは目を細めたり、開いたりして真偽を確かめようとしている。
なぜなら、彼女は毛皮を身にまとっていたわけではなく、彼女自身が犬のように全身を毛で覆っているように見えたからだ。
それにまるまるとした毛並みはとても毛皮のようには見えない。
リフリールはどうやら彼女は、毛玉自身なのだと思った。
丸みを帯びた毛玉は、床に突っ伏して泣いていた。
更によく見るとその頭には猫のような耳までついているのだ。
こうなってしまっては、人間というよりほとんど獣のようだと感じている。
衝撃を受けたリフリールがぼんやりと固まっていた。