終
生徒指導室に行ってからの展開は、面倒、その一言であった。
理路整然とし、納得できる明希と新の説明にたいし、自己中心的で自己愛の強すぎる美鈴の説明。
色々と正反対すぎて、教師は文字通り涙目だったが、奏達や明希のクラスメイト達の自供に似た証言により、美鈴の非が大きいと判断がされた。
それぞれの保護者に通達、後日、全員での話し合いを行う、ということで処分は保留となった。
美鈴の行為が名誉毀損に相当するのかは今一わからないが、長らく明希の精神を圧迫し洗脳に近い状態に置いていたことが明らかであるため、学校側だけでは判断しきれない、と考えたのだ。
明希自身としては、もう関わってこなければご自由に、という心境なのだが。
実際に口にして、新も奏達もクラスメイトも教師もうつむいて沈黙した理由を、明希は知らない。
生徒指導室から解放され、帰路についた明希だが、何故か一緒にいる新に緊張MAX状態だった。
流れるような感慨もなにもない告白の件は、生徒指導室で説明する際、正式に告白され、否やはない明希はほぼ反射で頷き、教師(特に独身者)のひきつった笑みと共に祝福を受けた。瞬間、羞恥で明希が死んだのは余談。美鈴の反応は、自分に都合の悪いことが耳に入らない特殊性質、とだけ。
そんな敬意を経て、現在に至る交際歴2時間弱の二人は、無言である。
緊張でガチガチの明希に苦笑する新は、そっと明希の手を握る。
瞬間、跳び跳ねんばかりに体を震わせた明希の顔を覗きこみ、新は微笑む。
「今まで通りで良い」
「へっ?!」
「奏達と過ごす時間の半分くらいを、俺と一緒に過ごしてくれたらそれで今は良い」
「い、今は…?」
「そう。いずれは、色々としたいけど」
「い、色々…」
「色々」
思わず立ち止まってそんなことを言い合っていると、明希の顔がどんどん赤くなる。
年頃である。色々、に敏感に反応するのは致し方ない。
ひとまず、今は、という言葉に安堵の息をついた明希は、少々固く微笑みながら頷いた。
友人関係どころか身近な人間関係が破綻していた明希には、性急なのは混乱と歪みを生みかねないと新が判断したのは正しかった。大いに我慢することになるだろうが、それは未来への楽しみ、に変換して耐えるしかない。
再び、ゆっくりと歩き出した二人だが、明希の家はすでに目と鼻の先だった。
玄関前の門先で、新に送ってくれた感謝を述べようとすると、玄関が荒っぽく開いた。
明希と新は同時にそちらを見ると、明希と面差しの似た40代女性が明希を睨んでいた。
状況と場所を考えて、女性が明希の母親であることは明白だった。
「よく平気な顔で帰ってこられたわね、恥知らず」
棘をふんだんに含んだ嫌悪の声に、幸福と喜びに綻んでいた明希の表情が、抜け落ちていくように無になる。
それを見た新は、離しかけていた手を強く握り直した。はっとして仰ぎ見て来た明希に微笑みかけると、安心したように肩から力を抜いた。
「いつも面倒見てもらっておきながら、美鈴ちゃんの恋人をとるなんてどういう神経しているの。しかも、嘘も良いところの内容を先生方に吹聴して、美鈴ちゃんを悪者にするなんて」
二人のむつまじい様子に苛立ったのか、母親は捲し立てていく。
開けっぱなしの玄関の奥には、父親が厳しい表情で立ち、リビングに続く扉から顔だけ除かせた兄と弟が汚物を見るように明希を見ていた。
それに、怒りも悲しみもわかないことに、明希は気づいた。そして、理解する。
奏達の、新の、良くしてくれる部活の先輩の、おかげで明希は想われるということを知った。
慈しまれるということ、好かれるということ、頼って良いということ、願って良いということ、出来なくても良いということ、出来ないことは悪し様に言われることでも貶められる理由にもならないということ、たくさんの、明希は悪くないということを知った。
貶められる度、『何も出来ない』と言われる度、凍っていった心が溶かされて、慣れたのではなく痛みに鈍くなったのだと知った。
それが心を殺すことに繋がると知って、そうなる前で良かった、と安心されることが喜んでくれることが嬉しいと知った。
そして、考えた。
知ったことばかりで、思い出したと思うことがなかったのは何故か、と。
わずかな思考で、答えに至れた。
考えるまでもないことだったのだ。
明希は、家族に想われていなかった、と。
「何とか言ったらどうなの?!」
美鈴擁護の言葉を並べ立てていた母親を置き去りに、思考に沈んだ明希に怒りの声がぶつけられる。それによって思考から戻った明希は、母親ではなく新を仰ぎ見た。
沈黙している明希が何か考えている様子だったから、反論することを控えていた新はひとつ頷いた。大丈夫だ、というように。
ふっと力の抜けた笑みを浮かべた明希の横顔を見た兄と弟が、驚いたように瞳を見開いたことに明希はもとより誰も気づかなかった。
「言ったところで、意味はないよね」
「はぁっ?!」
「だって、先生から話を聞いたのに、あたしを一方的に悪いって言うし、言い分を聞かないし…」
一拍区切って、明希は呆れを隠さない視線を細めてため息混じりに呟いた。
「いつだってあたしの言葉を否定してきたんだから」
言ったって意味はないよね、と繰り返す明希に、母親は反論しようとして出来ないことに気づき固まる。
明希の言葉が肯定されたのは、ただ一度。
剣道をやりたい、それだけだった。
いや、肯定、とは言い切れないかもしれない。
最初に剣道を始めたのは兄だったが、最初に半年分の月謝を払った(その必要はなかったが、当時の熱意がすさまじく続くと思い込んだ)のに、一ヶ月強で辞めてしまった。それ以降分の月謝が無駄になることを渋った両親に、兄を迎えにいくのについていったときに剣道に魅せられた明希が主張して願いが叶ったにすぎない。
つまり、無駄にしたくないために明希の主張を受け入れただけで、月謝を先払いしていなければ主張は却下されていたことは明白だったのだ。
沈黙することで、母親はそれを肯定してしまった。
「好きにすれば良いんじゃないかな? 信じたいものを信じれば良いんじゃないかな? あたしが嫌いなら嫌いで良いんじゃないかな? それは、貴方の感情だから。貴方の感情は貴方のもので、向いたそれを拒む権利はあっても、否定する権利は貴方以外の誰にもないんだから。美鈴が良いなら、そうすれば良いんじゃないかな?」
自然と、母親を貴方と呼んだことに明希は気づかなかった。呼ばれた母親はショックを受けたように青ざめたが。
その様子に、新はただただ蔑みと呆れを向ける。ショックを受ける資格などないくせに、と。
「話し合いで、何も言っても、何を信じても、何をかばっても、貴方のしたいようにすれば良い。あたしはあたしの言いたいことを言うし、信じたいものを信じるし、共にありたい人を選ぶ。お互い様だよね?」
だから関わらないで、と最後に告げた明希は、呆然と固まる母親と父親に頓着せず、新に向き直る。遮られてしまった送ってくれたお礼を告げる。
笑みでそれに答えた新は、母親をまっすぐに見つめて、告げておくべき事だけを告げる。
「初めまして。明希さんとお付き合いさせていただくことになりました、辻宮 新と申します。萩宮の高等部2年、剣道部副部長をしています。加納 美鈴とは個人的接点も接触も感情も一切なく無関係の間柄で今日まで来ましたので、ご理解のほどどうぞよろしく」
頭を下げながら、理解しなくても良いけど、と思う新は顔をあげて明希の頭を撫でるときびすを返す。
本当なら家に連れ帰りたいが、被害者とはいえ問題発生直後である以上軽率な行動は控えるべきだろう、と判断した。状況的に連れ帰っても賛同しか得られない気がするが、そこはそれ。
何より、明希が平然として母親に向かい合っていたことで、大丈夫だ、と判断できた。
笑顔で見送ってくれた明希に安堵して、新は自宅への帰路につく。
新を見送った明希は固まったままの母親の隣をすり抜け、靴を揃えて隅に寄せると、廊下の半分以上を陣取って立つ父親に何も言わず何とか通りすぎ、リビングへの扉を素通りして階段を上る。
明希が自室に入り、つい最近つけた内鍵をかけた頃、ようやく母親達が動き出したが、明希は我関せずだった。
食事と風呂の際には部屋から出てきたが、何か言いたそうにしている両親と兄弟を文字通り無視してさっさと終わらせると再び自室にこもった。
これらの行動は、今までと何ら変わらないのだが、両親も兄弟もショックを受けている様子だったのが明希には不思議でならなかった。
ここ数ヵ月、無視していたのはそっちなのに、と階段を上る直前に我知らず落とした呟きが心を抉ったことに明希は気づかなかった。
仕事の関係もあり、話し合いは土曜日に行われた。
明希の内心の吐露からわずか数日、明希の両親は何とも言えないもやもやを抱えたまま出席し、開始直後に心臓を串刺しにされたような感覚に陥った。
美鈴の両親、加納夫妻が土下座して全面謝罪を行ったのだ。
言い訳は一切しなかった。
自分達の躾不足で多大な迷惑をかけた、とその場の誰に対してよりも明希に詫びていた。
両親や兄弟以上に気にかけ、何かと声をかけ、幾度も美鈴をたしなめていたことを知っている明希は、それを苦笑をもって受け入れた。何より、明希に被害を及ぼしたのは美鈴であって、彼らではないのだから。
流れ弾のようにして当事者になってしまった新(ぶっちゃけ事の中心であり原因だが)の家族は、明希が良いなら自分達が何か言うことはない、と告げて早くも話し合いは終わりそうだった。
美鈴もこの場にいるのだが、涙目で明希を見てくるだけで何も言わない。いつもなら、その様子に庇護欲をそそられた男子や周囲が明希を悪者にして来るから、この現状には戸惑っているかもしれない。周囲がそうなるように誘導してきただけで、美鈴が何か考えて行ったことはなかったから、どうしたら良いのわからないのだろう。
「あの、本当にうちの娘に悪いところはなかったんですか?」
和解、で結論が出そうだったところに水を差したのは明希の父親だった。空気が凍った、と明希は思った。
何言ってんの、と誰もが言いたげな表情で父親を見るが、しかめた表情の当人はそれが分かっていないらしい。
「うちの娘は、加納さんのお嬢さんと比べて何もできない子です。家の事もろくに手伝いもせず、文句だけは言う。女らしくもなければ優しさもない。そんな子です。それが…」
「藤守は、優しいですよ」
父親の言葉を遮って新がごく自然に呟いた。
「部活動中、誰かの怪我に一番最初に気付くのは藤守です。料理上手で綺麗好き、赤色やオレンジが好きで、ぬいぐるみとか可愛いものが好きですよ。笑うと八重歯が覗いて可愛いですね」
のろけか、と教師側から呟きが漏れ、明希は真っ赤になった俯いた。新の両親は満足顔である。美鈴の両親は安堵したように新を見ている。
「俺には、貴方方が何をもって女らしくない優しくないと言っているのかわからない。髪を伸ばしていれば、化粧をしていれば、料理ができれば、裁縫ができれば、フリルやレースを着ていれば、華奢な靴を履いていれば、爪を整えていれば、女らしい? 望んでいない相手の部屋の掃除をして、弁当を作って押し付けて、洗濯物に手を出して、自分の好みで整えようとするのが、優しい? 俺なら鼻で笑いますね」
「…あ、明希は、家では何も…」
「申し出た手伝いを、疲れるから向こう行って、と突き放したのは貴方では?」
そう言われてはもう二度と自ら言えないのでは? と新に言われ、周囲が頷いて、明希の母親は反論できずに俯いた。
「文句ばかり、と言うけれど、貴方は言わないんですか? 自分の部屋に、知らない間に勝手に入られて、レイアウトを変えられて、お気に入りの家具を入れ換えられて、好きな色のシーツを剥ぎ取られて、本棚に勝手に手を加えてめちゃくちゃにされて、下着を兄弟の前で広げてダサいと言われても?」
唖然とした父親がぎこちない動きで明希を見るが、俯いた明希にはそれはわからなかった。
そんなことは知らない、と言いたげな表情に、美鈴にされたことを聞いている新や新の両親(双方ともに情報源は奏)はただただ呆れた。
親に訴えても意味がなかった、と明希は言っていた。
知らない、何てあり得ない。最初から明希の言い分を聞く気がなかった、ということの証明だ。
「そもそもの疑問なんですが、どうしてソレと藤守を比べるんです?」
ソレ呼ばわりに、美鈴が酷いと泣き始めたが、誰もがスルーした。
「外見も得意分野も性格も何もかも真逆でしょう。比べたところで無意味だし、比べるという行為事態が個人を侮辱している証明ですよね? 貴方方はそんなに藤守が嫌いなんですか?」
「そんなわけっ…」
「じゃぁ、理想じゃないから、そうならないから、理想通りがいるから、蔑ろにしていただけ、と言いたいんですか?」
だけ、で終わる出来事ではない。
反論出来ないのか、驚愕のあまりか、どちらでも構わないが、明希の両親は口を開閉させるだけで何も言わない。
世間一般的な女らしさ、として挙げられる項目を美鈴は網羅しているだろう。性格的なところはおいておく。
それらを理想として、そうじゃないといけないと思い込んだのなら、美鈴に急速に傾いたのも理解できる。納得は永劫にしたくないが。
明希は、美鈴ができることが出来ない訳じゃない。興味を持つのが遅かっただけで、やれば出来る子だった。それは夏休み中の奏達との過ごし方で判明している。
料理は奏達全員が、裁縫なんかは服さえ自作する子が、お菓子作り、家庭菜園、などなど得意とする者や趣味とする者が気ままに教え、興味の赴くままに明希は吸収していった。
元来、明希は器用だったのだろう。一ヶ月ほどで覚えてしまえるくらいなのだから。
何とも言い難い沈黙が室内を包み込み、美鈴の白々しい泣き声だけが響いている。美鈴の両親は再び顔を伏せて、土下座の体勢のままで動かない。
羞恥から回復したらしい明希が、ゆったりと首を傾げる。
「別に、この人達があたしと美鈴をどう見てたかっていうのはどうでもいいんですけど…」
ザクッと鋭く切り付けていると自覚していないらしい明希は、両親の顔が歪んでいることに気付いていない。
「ひとまず、あたしとしてはもう美鈴が関わってこなければいいんで。あ、でも、加納のおばさんとおじさんとは仲良くしたいかな。色々と面倒見てくれたし」
だからもう立ってください、と苦笑と共に告げる明希に、顔を上げた美鈴の両親は顔を真っ赤にして泣きじゃくった。良い年した大人としての外聞など気にしていないような、号泣っぷりだ。
まっとうな親の下で育った娘は電波で、まっとうでない親の下で育った娘はまとも。
えっナニコレ、と教師達は一様に思った。
「この人達にしても、大学出るまで保護者でいてくれればいいです。関わってこなければそれでいいです」
さくっと主張だけを述べれば、明希の両親は顔色を悪くしてフルフルと震え始めた。
新の言葉に、明希の主張に、完全に打ちのめされている。
「…藤守は、こう言ってますが」
話し合いも何もねぇよ、と言わんばかりに脱力した生徒指導の言葉に、美鈴の両親は何度も頷いた。美鈴は転校させ、もう二度と関わらせない、と言いながら。
美鈴が何やら喚いているが、誰も聞いていない。
「貴方方も、もう少し大人になって藤守の話を聞くことから始めたらいかがですかね…」
もう遅いでしょうが、という言葉を飲み込んだ生徒指導に、明希の両親はかくかくと頷くことしかできない。
なんだかなぁ、と空気が漂う教師達の号令で、話し合い(?)は終了を告げる。
部屋から出ると、廊下で待っていた奏達に囲まれて、自然な笑みを浮かべ、新と手をつなぐ明希を見て、明希の両親がショックを受けていた。
それに気づいていたのは奏達だけだが、鼻で笑って無視した様子にもショックを受け、悄然と帰っていった。
その後、美鈴は学校を休学し、一ヶ月後には母方の祖父母に引き取られて転校、両親もさすがにそのままそこにいるわけにもいかず引っ越していった。
学校は美鈴の取り巻きによる一騒動があったものの、新達剣道部の先輩を筆頭にした2・3年によって大事になる前に抑えられた。奏達の精神的フルボッコもあったりしたが、知っている人間はみな見て見ぬふりをした。
明希の学校生活は平穏となったものの、家ではそうではない。
話し合い前後での怒涛の展開について行けない両親はよそよそしく、兄弟も何がどうなっているのか把握しきれない上、色々と驚きが続きすぎて明希に絡むどころではなかった。
ある意味、静かで穏やかな日々である。関係が歪んでぎこちなくなっていること以外は。
それに嫌気がさして辻宮家に避難する明希を見て、衝撃を受けて落ち込みさらにぎこちなくなる、という悪循環が生まれているが誰も矯正しようとしない。
明希自身、家族にそれほどの興味もなかったし、原因に心当たりもなかったので、しようという気すらなかった。
高校卒業後、立地と交通の便を理由にして、明希は辻宮家に居候することになった。
辻宮家の両親からのアタックと、奏の口八丁手八丁で丸め込み、ダメ押しで新が迫ったことで実現した。明希自身に家族への情が無くなっていた、というのが大きな要因だろうが。
奏達のおかげで成績が上昇した明希は、周辺で名門と名高い芙蓉女子大に合格した。もちろん、剣道は続けている。
新と奏は近場の城聖大だ。
大学卒業と同時に、新と籍を入れて、親しい友人や身内だけを招いた式を挙げる。
そこに、明希の家族の姿はなかったが、気にする者はいなかった。