四
職員会議や設備点検などの都合で五時間目で授業は終了し、さぁ部活に、と明希は奏達と途中まで一緒にいこうと教室を出た。
そこで、一人のクラスメイトに声をかけられた。
昼休みの時、美鈴と一緒にいる内の一人だ。
もちろん、いつも明希を貶していた人間なので奏達の空気が剣呑になる。それを察知しながらも、明希がとりなすことはない。
してやる必要もない。
「何?」
そっけなく聞けば、相手はやや怯んだようだが頬をひきつらせながらも引かない。
「きょ、今日、一緒に帰らない?」
「何で?」
「えっ…」
間髪入れずに問い返されて言葉につまるクラスメイトに、明希は首をかしげる。
「笹井さん、家はどこ?」
明希が名前を呼んだことにまだ残っている大多数のクラスメイトが驚きを露にしたが、誰も突っ込まない。
呼ばれたクラスメイト・笹井は、驚きさらに質問の意図がわからず困惑しつつも答える。
「高島町、だけど…」
「あたしの家、双葉新町。美鈴の家と隣なんだから、知ってるよね?」
そこまで言えば、誰もが分かった。
高島町と双葉新町は方向が真逆で、美鈴の友人ならそれを知っているはずだ、と明希は言外に告げたのだ。
言われてようやく理解したのか、笹井は顔を赤くする。
どれだけ明希に興味関心がなく、重きをおいていなかったのか、今の発言で身勝手さをさらけ出したことに気付いたのだ。
「別に、笹井さん達の言動をどうこう言うつもりもないし、騒ぎにする気もないから、必死にならなくても良いよ。あたしも、好意を持てない人と一緒にいるのは疲れるだけだし」
おそらく、明希は無自覚だ。
その証拠に、顔色を赤から青に変えた笹井を不思議そうに首をかしげて見ている。
この先も好意を持つことも持とうとすることもない、と明言した、ということに。
何とも言えない沈鬱な空気がクラスメイト達を包むことに、疑問符を飛ばす明希に奏達は笑いをこらえるのに必死である。
反応しない笹井に、早く部活行きたいから放置で良いかな、となかなかにひどいが誰も責められないことを考え始めた明希に、声がかかる。
刺々しく険しい男子生徒の声に、振り返った明希はさらに疑問符を飛ばす。
なんか見覚えあるけど誰だっけ、と顔に書いてあるのだが男子生徒はその事に気づかない。
「お前、ブスの癖に性格もブスなんだな」
いきなりの暴言に、奏達から笑みが消えて殺気が立ち上ったのだが気付いたのは明希だけだった。クラスメイトは怒っている、と察知はしただろうが。
「いい加減にしろよ。美鈴に嫉妬してそこの不良共味方につけた上で囲んでいじめるとか、最低だろ。そんなんだからそんな不良しかダチになんねぇんだよ」
奏達を巻き込んでの暴言に、明希は怒るより先に同情した。
奏達の怒りを買った男子生徒に慈悲は与えられまい、と内心で冥福を祈っておく。
余談であるが、奏達の怒りの最大要因は明希への暴言であるが当の本人は気づいていない。
「外見も性格も最悪な奴、誰が好きになるかよ。とっとと諦めて、不良共に屑野郎を紹介してもらえよ。お前にはそっちの方がお似合いだろうが」
男子生徒は言いたいことだけいうと踵を返すが、その背中に向けて思わず片手をあげた明希の言葉に再び明希に向き直ることになる。
「良くわかんないけど、君、誰?」
顔見知りの体で一方的な暴言を吐き続けていた男子生徒は、驚き一杯の表情で明希を見る。
奏達もクラスメイトも、えっ、と言いたげな表情だ。
本気で、明希は男子生徒が誰なのかわかっていなかった。だが、言葉の内容は理解した。
明希は美鈴と違って電波ではない。
「美鈴に嫉妬、はしたことがないとは言わないかな。誰もが美鈴の味方で、あたしの言葉は嘘だとしか受け取られなくて、なんでもあたしが悪いって言われてきたし」
嫉妬以前に人間不審になっても良いんじゃないかな、と奏は思ったが空気を読んで黙っておいた。
「不良って奏達のこと? 服装とかでいってるなら今時古い考えだね、としか言いようがないんだけど。髪染めてる子なんてそこらにいるし、化粧もしてる子も、アクセをつけてる子も、制服着崩してる子も一杯いるよね? 君も制服着崩してるし」
ネクタイが緩められ、ボタンが外されている男子生徒は、確かに着崩している。第一ボタンまでしっかり閉めてネクタイも緩んでおらずスカート丈も規定通りな明希と相対しているからなおのこと、崩れ具合がよく分かる。
「で、理解したけど意味がわからないんだけど。君の言い分だと、あたしが君のことを好き、みたいに聞こえたんだけど。さっきも言った通り、君のこと知らないんだけど、どういう勘違い?」
ナルシスト? と、思ったことを言っただけの明希だったが、男子生徒にはすさまじいいクリティカルヒットだったらしい。公衆の面前でナルシスト扱いは誰でも嫌かもしれないが。
「っざけんな! お前がオレのこと好きだって言ったんだろうが!」
「いつ?」
「小学生の時、美鈴にっ!」
ん? と思ったのは恐らくそれを聞いた全員だった。昼休みのことがなければ、クラスメイトは明希を一方的に悪にしたかもしれないが。
暫しの沈黙のあと、明希はようやく合点が言ったらしく、思い出した、と呟いた。
「狩谷 正人くんか。そういわれれば、見覚えあるはずだよね」
何やらしみじみと頷いている明希に、奏が代表して問いかける。
無言ながら、きっと誰もが思っている。
「で、どういう関係?」
「通ってる剣道場が一緒で、小学校も中学校も一緒、でも住んでる町は違う、という顔見知り」
「友達じゃないのね」
「普通なら友達になってるんだろうし、あたしもあれまでは友達だと思ってたんだけどね。まぁ、あんなことがあったら誰も友情を感じられないと思うんだよね」
思い出しているのか視線を斜め上に向けながらうんうんと頷いている明希に、クラスメイトの幾人かがああうんと気まずげながらも同意を示すように頷く。同じ小学校出身なのだろう。
「それはやっぱりあの女関係?」
「うん」
「好き云々っていうのは? あの女の飛躍的超理論からの誤解?」
「いや、初恋、だね」
好きだったのは肯定する明希に、照れも羞恥もない。
新に対する反応を知っている奏達には、ほんとかよという思いが浮かんだ。もちろん、口にはしない。
「たださあ、初恋は叶わない、ていうでしょ?」
「それ、初恋は憧れや尊敬の延長上であるからちゃんとした恋愛感情に発展するのが難しい、てことやなかった? 叶わないんやのうて、進化しない、が正しい思うけど?」
「そう。それ、中等部の頃に知って、すごく納得した。あれ自体はショックだったけど、引きずらなかったのはなるほどなぁ、と思ったんだよね」
「ねぇ~、あれって何ぃ? さっきからすっごい気になるぅ」
「教師不在、学年のレクリエーション時間に初恋暴露からの公開失恋からの美鈴との交際宣言」
「「「うっわ…」」」
奏達はドン引きである。
同小学校出身者達は、恥じ入ったように俯いた。当時、明希を笑っていた自分達を思い出した為だ。
「確か、それが四年生の時、だったはず。え、あれ、まだ有効だったの? それだったらごめん。あの時にすっぱりきっぱり気持ちはなくなったから。というか、そもそも、刷り込みだったんじゃないかと思うんだよね。だから気にしないで」
自分の言葉が男子生徒・正人の心をメッタ刺しに抉っていることを知らない明希は、あっけらかんとしている。美鈴にたいしては萎縮して強気に慣れないのだが、それ以外に関しては明希は素を貫ける。関わりが気迫だったことがここで功を奏した。ちょっと悲しいが。
「なぁ、刷り込みって何?」
「小学校入学前から通っている剣道場で唯一の同い年で、同じ小学校で、同じクラスになった。ここまでくれば、好意的に思うなって方が無理じゃない? 相手の性格がどうしようもないほど最悪でない限り」
公衆の面前での暴言は、性格が最悪であることを証明している。
それはともかく、明希の言葉は非常に納得がいくし、学校外の時間も一緒になること多いもっとも身近な異性、となれば初恋相手になったとしても何ら不思議はない。
うん、と深く頷いた奏は、哀れみ全開の眼差しで正人をみる。
「六年も前の事を持ち出して罵ったあげく忘れられていて、当時の感情は勘違いで刷り込みだったと断言されて、どうでも良いと言いきられて、興味関心を持たれない、なんて、可哀想ね」
おそらく、美鈴と交際している、という点についても可哀想、と言っているのだろう。それが分かったのは明希達だけだったが。
奏の言葉と周囲からの何とも言えない残念なものをみるような視線に顔を真っ赤にして震える正人に、奏は追撃をかける。
「それに、明希には私の兄がいるからあんたはお呼びじゃないのよ。明希が良い女だってことも気づかないくせに、何年も想い続けてもらえるなんて思い上がんないで」
哀れみから一転、全力で小馬鹿にする奏の言葉に、やけくそなのか正人が声を張り上げる。
「はっ、お前の兄貴かよ。どうせ、不良崩れのバカだろ。そいつにはお似合いだ」
「……これ、俺は怒るべきだよね?」
正人の言葉に反応したのは明希達ではなく、明希達のは以後から近づいてきていた人物。
困惑ぎみな声は、どことなく哀れみが含まれているような感じがした。
ぱっと喜色を浮かべて振り向いた明希に、奏達はもどかしい気持ちになる。奏の言葉に反応しなかったのはなぜだ、という思いもある。
周囲から小さく黄色い声が上がっているが、当人はどこ吹く風で明希に柔らかい笑みを向けている。
「どうかしたんですか、新先輩」
「うん、俺は今伝書鳩」
「へ?」
「武道場の照明が割れたらしくて、掃除と整備で今日の部活は休みだって」
「そうなんですか。というか、なぜ割れた…」
「3年の体育で府避けた結果、みたいだね。部長達が良い笑顔で廊下に正座させられている人達のこと吹聴してたよ」
なんとも古典的な罰だ、と思わず明希は苦笑した。昨今、廊下にたたせておいたりすると体罰だなんだとうるさいのだが、この学校ではあまり問題になったりしない。入学時に指導方法に関する書類に保護者の署名を求めているからだ。同意したのだから文句は聞かない、と。
にわかにほのぼのしだした空気に、正人は蚊帳の外に追い出されたことに苛立つ。
「辻宮先輩、邪魔しないでくれません? 今、先輩には関係ないんですけど」
「関係有るよ? 君、俺の事を言ってたじゃないか」
え、とクラスからも反応があったことから、明希と同じように誰もが勘違いしていたのだろう。
気持ちわかるなぁ、と内心で明希は正人にたいしてちょびっと同情した。
「良くされる勘違いだから良いんだけど。辻宮 奏の兄です。よろしく」
一拍の後、周囲の声にならない驚愕が空気を震わせた。
周囲から数秒遅れて、正人は新の言葉を理解したのか顔を真っ赤にさせる。
新は品行方正、才色兼備、文武両道の優等生として知られる。同学年の悪友達と悪ノリの結果、教師にげんこつを食らったりすることもあるがそれはご愛敬。完璧な優等生でない分、逆に好感度はうなぎ上りだ。
容姿の秀麗さから女子人気、先述の悪ノリから男子人気、成績優秀でバカもやるところから教師人気、全て一定以上に得ている。完璧超人か。
そんな相手に、正人は不良と言った。
知らなかった、で済む話かもしれないが、あったこともない人間を先入観と思い込みで罵倒する人間だ、と自分を喧伝したのは痛い。これ以降、正人の言葉を信じる者は激減するだろう。
「ひとまず、狩谷 正人」
表情の変化に乏しい新の真剣な声音は、はっきり言って怖い。恐ろしい、という意味ではなく、緊張する、という意味で。威圧的、とも言えるかもしれない。
「もう部活には来なくて良いから」
「…え、剣道部だったんですか?」
「そう。無断欠席が高等部に入ってからずっとだから、部長も強行手段に踏み切ったんだよ」
家にも連絡をいれたし顧問から担任を通じて警告もしていたよね、と新が言えば、記憶にないのか正人は驚愕と混乱に見舞われた表情で立ち尽くしている。
「うちは決して強豪とかではないし、部活に高校生活を捧げろ、みたいなスポ根でもない。けど、自分の意思で始めたことは自己責任で果たしてもらいたい。続けられないと思ったなら、自分で退部届けを出すなりしておけ。この学校で、幽霊部員、なんて単語は存在を許されていない」
萩宮学園は、自主性を強く求める。今時珍しくない校風だろうが、ここではその傾向が強い。
学園の運営はある程度までは予算も含めて全て生徒会が采配を振るい、各部活においては顧問の監査があるものの部長と副部長の合議によって様々な事が決められる。独裁的であれば、下級生からの下克上的告訴が生徒会にあげられ生徒総会にかけられるが。
そうやって部長と副部長には責任と権限が重く多くのしかかっているが、その内の一つが、部員の強制退部だ。もちろん、厳格な規定が存在する。
簡単な例をあげれば、3ヶ月超に及ぶ無断欠席、だ。部活動に参加する意思なし、と判断される。もちろん、明確かつ正当な理由があり、事前申告または事後の詳細報告がなされていれば問題はない。例えば病気、家庭の事情、など。そういった申告があった場合、休部、という扱いがされる。
それらは決して、無理難題ではなく、学生、未成年など関係なく、人として当然の礼儀であり義務である。
「校則には部活動必須という項目はない。部活動に参加したくないのなら、最初から帰宅部を選択すべきだ。自己責任における強制退部は、内申にも明記されるし、この後、別の部活に所属するのも困難になる。―――せいぜい、頑張ると良い」
呆れと蔑みが込められた投げやりな激励は、明希に対しての言動による怒りか、自分が大切にしているものを下らない理由でおざなりにした事への怒りか。それとも両方か。
冷徹な新の視線と言葉に射ぬかれて、呆然とする正人の後方から、目を真っ赤にして男子生徒と女子生徒に支えられた美鈴がやって来る。
自分にとって都合の良い展開を思い浮かべていたのだろう。
正人の糾弾に周囲は自分の味方になって明希を責めている、と。
だが、実際は逆。
ようやく目を覚まし始めたクラスメイトは、明希の味方をするのも気まずく宙吊り状態で、新によって正人は叩きのめされたところだ。
うつ向きぎみに視線を上げた(つまるところ上目使い)美鈴は、予想外の状況に瞳を見開いた。
「正人くん?」
顔色悪く立ちすくみ、美鈴の声にも反応しない様子に、美鈴は明希と寄り添う新をみてなにかしらの超解釈をしたらしい。
「酷い、酷いよ、明希ちゃん」
はらはらと再び泣き出す美鈴は、それだけをみれば悲劇のヒロインのように可憐である。だが、もはやそれは十分に白々しいものとしか映らない。
クラスメイトはそれを知って、自分達のバカさ加減を知ってしまったし、他のクラスの面々も廊下で行われるやり取りに明希と正人のどちらが悪いのかを把握している。というか、把握できなかったら全員病院に行った方がいい。脳神経か精神かは不明。
つまり、明希を酷い、という美鈴に誰もが得体の知れないものをみる視線を向けたのだ。
今までのやり取りを知らないにしても、正人が間違えてしまったのは一目瞭然だというのに。
「どうして? 美鈴が正人くんをとったから? だからこんな酷いことができるの? 辻宮先輩にどんな嘘を言ったの? 嘘ついて恥ずかしくないの? 嘘がダメだってわからないの? なら、美鈴が教えて上げる。嘘ついたことを一緒に謝って上げる。だから、もうやめて。美鈴のことが嫌いなら、美鈴だけにして。正人くんやみんなを傷つけないで」
お願い、と泣きながら言う美鈴に、さすがにお人好しの明希も頬をひきつらせて口許を押さえた。
自分だけが正しくて、かわいそうなヒロインだと、そう思っているらしい美鈴に、ただただ吐き気がした。
その思いが、意図せずに明希の口から零れ落ちた。
「気持ち悪い…」
素直に、率直に、端的に、この上もなく的確に、美鈴の性根を表した単語だった。
奏達はそれに深く同意しつつ、ゴミを見るかのような視線を美鈴に向ける。
新は、無感情に美鈴を見る。好意は無論のこと、不快も嫌悪も存在しない。
周囲からの困惑と驚愕と恐怖に似た恐れのこもった視線に気づかない美鈴は、左右に寄り添う男女が困惑しているのも気づかず新に手を伸ばす。
「せ…」
「触るな、淫売」
女性に対して向ける最大級の蔑みを淡々と口にした新は、美鈴の手を加減なく力一杯叩き払う。
おそらく、美鈴の手は数時間後には真っ赤に晴れ上がることだろう。
「そこの元剣道部員の彼氏は気づいてないらしいけど、お前が何人もの男子生徒と肉体関係にあるのは結構有名だ。特に2年以上では」
「そうなんですか?」
「うん。友人達も含めて毒牙にかかりそうな奴等には二人以上で行動しろと忠告してきたよ。だから、高等部からはセフレは増えてないみたいだね」
「えっと…。なんでそんな事を…」
「さぁ? ただの色狂いなのか、体を使わないと味方を作れなかったのか、私は皆のものなの的な花畑思考なのか、良くわからないけど」
奏達から小さく、最後じゃない、最後だねぇ、最後だろ、最後やね、とそれぞれに意見が飛んできた。賛成多数で、花畑思考、で可決された。否定要素がないな、と明希は内心で同意しておく。
「後先を考えない愚行、としか…」
ドン引きした視線を美鈴に向ける明希には、今までわずかながらにあった幼馴染みとしての情はもう欠片もない。
今までで十分に目減りし、マイナスになって当然だったが、ほんの少しだけまだプラスだったのだ。それが、新から聞かされた所業で一気にマイナスへと突き抜けた。
美鈴の言い分を聞いていない、という考えはない。
今まで、不特定多数の男子生徒と二人で町を歩いているのを明希は見ている。彼氏がいるのに良いのかなぁ、とぼんやり思っていた程度だ。
「確かに、思考能力が欠如しているとしか言いようがないわね。そんなことしてたら、関係持った奴らにどんな要求をされるか分かったものじゃないわ。それに、恋愛において信用が全くなくなるし、結婚に対しても大きな障害になるわね」
「そやねぇ。うちとしてもそんなんが義理の姉や妹になられるんは勘弁やから、断固反対するやろね。ちゅうか、どんな病気持っとるかわからんから全うな男はまず近寄らんようになるんちゃう?」
「だから、先輩の友人とかは距離とってんだろ。視界にいれるのも不愉快だから、正解だと思うけど」
「別に、交際人数が多いのはいいと思うんだよねぇ。交際中は一人だけ、ならぁ。複数と同時、は完全アウトだよねぇ。近づかないで、腐れ女のドブ臭さなんて嗅ぎたくないから」
いつもの語尾を伸ばしたおっとり口調が鳴りを潜めただけで、かなり怖い。
寄り添う左右の男女が困惑も露に美鈴を見ているが、当の美鈴は新を見つめている。
美鈴の目が、自分の裏事情を暴露されたことに対してなんの反応も示していないのを見て、明希はぞわっと背筋を氷塊が滑り落ちるような悪寒を覚えた。
「明希ちゃんがひとりぼっちだから、何もできないから、可哀想だから、味方になってあげてるんですよね? 大丈夫ですよ。だって、美鈴がいつも一緒にいますから。明希ちゃんの代わりに、美鈴がちゃんとしますから。だから、ねぇ、先輩」
ぐるん。
擬音をつけるなら、そうなるだろう。
がしっと腕を捕まれた瞬間、新は美鈴の肘をホールドして空中一回転させたのだ。
咄嗟に明希がフォローしたことで、美鈴はどこも打ち付けることはなかった。
怪我をしていれば、運動部の副部長という立場上問題がある。美鈴の来歴を考えれば正当防衛も通じないだろう。
新の嫌悪も露な様子から危ないと判断した明希は、すぐに動けた自分を内心で良くやったと称えた。どれだけ性根の気味悪い存在相手でも、先に手を出して怪我をさせては善悪が逆転してしまう。
何があったのか分かっていないのか、美鈴は明希に支えられながらキョトンとしている。
「あ、ごめん。藤守。つい」
「いえ、大丈夫です。というか、先輩すごいですね。剣道以外にも何かやってるんですか?」
「合気道を少し。昔から護身の為に、ね」
「なるほど」
ゆったりした応答に、息を吹き返したのは美鈴の隣にいた男子生徒だ。
「ぼ、暴力行為だ! 運動部の副部長がしたなんて大問題だぞ!」
「怪我はある?」
明希が男子生徒を無視して美鈴に問いかければ、美鈴はあっけらかんとうんと頷いた。
「大丈夫だそうよ」
怪我はないのだから、暴力行為ではない、と言い切られて男子生徒は口を開閉させることしかできない。
腕を振り上げただけで暴行罪は成立するのだが、被害者が大丈夫と言ってしまっているので何とも難しい。その前に、近寄るなと牽制されている上に勝手に触ったので、どちらにも非はあるといえるが。
「何か問題はあった?」
「ないよ」
あっさり首を振ってしまっては決定的だ。
被害者である美鈴が何もなかった、怪我もなかった、と言っている以上、新が先に行った動作はなかったことになる。
それを理解してギッと睨んでくる男子生徒にため息をつきつつ、明希は美鈴から離れる。
正確には、離れようとした。
がっしりと腕に抱きついてきた美鈴に、明希は当惑する。
昼休みの一件から、密着してくるとは思っていなかったのだ。
「どうして? どうして、明希ちゃんなの? 明希ちゃんは何もないじゃない。長い髪も大きな二重の目も大きな胸も華奢でも小柄でもないじゃない! 先輩、先輩言ってましたよね?! 紙が長くて大きな目で華奢で小柄な女の子が好きだって! 胸もないよりあった方が良いって!」
ほら美鈴は理想通りでしょう、と自信満々に告げる美鈴に、新は天井を仰いで記憶を探る。自身の背中や顔に奏達の視線がいたいくらい突き刺さってくるのを自覚しながら。
「あぁ、あれか」
「兄さん…」
思い至った新に、奏の引いたような声がかかる。
「待て、待て、奏。その時の状況を説明させろ」
「釈明の権利は誰にでも等しくあるものね。どうぞ」
なんか釈然としないながらも、促されたので新はその時のことを語る。
2年前、中等部3年の時の事だ。クラスメイトとの雑談だった。
男同士だ。女の子の好みや胸とかの話は出てもおかしくはない。
その中の一つで、好きな子はいるか、というやつだ。
新は自分の容姿や周囲の視線を良く理解していた。昼休みの雑然とした空間でも、女子の情報網は侮れない、と言うことも。
だから、ほとんど適当だった。そのクラスメイトが、あまり好きなタイプでもなく、美鈴のファンであったからなおのことおざなりだった。
その頃から明希に思いを寄せていた、というかぶっちゃけ一目惚れなのだが、それを明確に言うとまずいと判断した。この話は内容がどうであれ必ず美鈴にリークされるとわかっていたからだ。
だから、外見上のことを全て真逆でのべた。
胸に関しては、巨乳厨のクラスメイトが、大きい方がいいよな、と頷けと言わんばかりに迫ってきたので、無いより有った方が良い、と答えた。
有ろうが無かろうが、明希なら何でも良いので、本当に適当だった。
以上、話の真相である。
話を聞いていた野次馬やクラスメイト、特に男子達には覚えがある内容なので、非常に納得した。美鈴の言動を考えれば、新がとった行動も納得なので、首を傾げるものはいない。
奏達も一応納得した。語りの中で明確に名前を出された挙げ句にさくっと告白された明希は、理解が追い付いていないのかポカンとしている。
「兄さんの言い分は理解したわ。でも、そのせい、ていうことも理解したわ」
「何が?」
「そこのアバズレが必要以上に明希にくっついて貶めていた理由。兄さんの理想に近づこうとする努力は良いとして、自分をより理想に近いように見せるために、それとは正反対の明希を傍におきつづけたってことよ」
引き立て役という存在が、美鈴は欲しかったのだろう。幼少の頃から、明希の家族に明希と比べて可愛がられてきたから、自然とその相手に明希が持ってこられた。新の理想――嘘八百である――と真逆、というのにも都合が良いと思ったのだろうが。
自身の失態に気づかされて、新は片手で顔を覆い項垂れる。
今度、周囲から突き刺さる視線は哀れみと同情である。さっきよりも痛く感じるのは何故なのか。
「なんや、ここまで来たら馬鹿馬鹿しくならへん?」
「「「ほんと、それ」」」
奏達の呆れを伴った頷きに、周囲も苦笑いを浮かべるしかない。
結局は三角関係のもつれ、しかも、両片想いの二人に横恋慕し悪辣な手段で恋敵――とは知らなかったが――を貶め、精神的に追い詰めていた脳内花畑の電波女の一人相撲、だったわけで…。
当の二人、明希と新は圧倒的な被害者である。新にも若干の非はあるが、美鈴の性格と言動を考えたら納得である。
ちなみに、すっかり蚊帳の外になってしまった正人は、美鈴の本命が新で自分への愛情も何もないことを理解して灰になりかけていた。明希は存在をすっかり忘れているが、奏達や周囲はちゃんと認識している。憐れむ気も慰める気もない。正人も十分に悪辣だったから。
「何か、もう相手するの面倒だから、先生に任せましょう」
騒ぎに駆けつけながらも、話の展開に入っていけず、内容に逃げ腰だった教師数名は、奏ににっこりと微笑みを向けられて我が身を嘆いた。
どう考えても、面倒事でしかない。これなら、殴り合いの喧嘩の方が可愛いげがある。
恋愛事、と言うよりも、美鈴の存在が非常に厄介であることは明白だったからだ。
奏と教師がいくつかやり取りをして生徒指導室で話を聞く、ということになって移動しよう、とした時。
「…って、新先輩、あたしの事が好きって言いました?!」
『遅いっ!!』
奏達だけでなく、周囲の野次馬やクラスメイト、教師に至るまで異口同音に叫ばれて、明希は縮こまるより他なかった。新は声をたてて笑う。若干、空笑いだったのは仕方ない。