三
結局新との関係は親しくなったがそういう意味では進展せず、夏休みが終わった。
キッチンに立ち入らせてもらえず、弁当を作ってくれるわけでもない母親なので、必然的に購買で明希は昼食を調達することになる。それを察知していた奏達は、それぞれの弁当を多めに持ってきていた。
「おかず交換みたいなものよ、気にしない気にしない」
にこやかに引っ張る奏に申し訳なくも嬉しい明希は、素直に従う。こういう好意は固辞しない方がいい、と明希は理解していた。
「ねぇ、明希ちゃん、一緒に食べよう!」
明希専用、と奏が持ってきていたプレートにそれぞれのおかずやサンドイッチ、おにぎりを載せていた面々はきょとんとして美鈴を見る。
「あのね、美鈴、もう怒ってないよ」
ん? と怪訝に首を傾げたのは明希だけで、奏達はドン引きだった。
「美鈴もちょっと怒っちゃったけど、もう大丈夫。辻宮さん達に無理矢理付き合わされてるんだよね? 気付かなくてごめんね。助けてあげるから、一緒に食べよう」
何やら奇怪な言い回しの上に意味不明な着地をした、と困惑しながらも理解した明希は、助けを求めるように奏達を見たが、人外生物を見るかのように美鈴を見ているので自分の理解は正しいのだと判断した。
「…無理矢理じゃないし、助けてもらう必要はないけど」
奏達のおかげで反論できるだけの精神状態になった明希は、やや力なくそう告げる。まだ、力強く拒絶するだけの精神的余裕がない。度重なる暴虐は、そう簡単に薄れない。
「おば様、優しいから美鈴の為に怒ってくれただけだから、美鈴が言えばもう大丈夫だよ。明希ちゃん、何もできないから誰かに助けてもらわないといけないもんね。辻宮さん達と離れにくいのわかるよ。でも、その代わりに今まで通り、美鈴がいるからね!」
あれ話が通じない、と明希は困惑する。
明希の言葉に対する反応もなければ、またしても『何もできない』発言だ。
どう反応するのが正解なのか、と思う明希より早く奏が反応した。
「とっとと離れなさい、電波」
誰かが喉が引きつったような悲鳴を上げたが、美鈴に引っ張られることで奏の姿が見えていない明希は怒ってるなぁとしか思えない。声が異常に低く冷ややかであるから、怒りは察せられた。
「明希は、私達と食べてるの。人の食事を邪魔するのはマナー違反で失礼よ。高校生にもなってそんなこともわからないの?」
そうだな、と細やかな同意はほとんどの人の耳には入らず、空気に溶けた。発言者は教室の隅で友人とパンの袋を開けている男子生徒だが、その向かいの友人にすら聞こえていなかった。
「明希ちゃんは美鈴の幼馴染なの! 美鈴と一緒にいなきゃいけないの! 明希ちゃんも美鈴といたいでしょ? 何もできない明希ちゃんを助けてあげてきたもん。一緒にいないとダメだってわかってるよね? だって、明希ちゃんは何もできないんだもん!」
繰り返される、何もできない、という言葉。
それに明希の心は痛み、言葉を奪う。畳みかけるような声が、なおも自身を否定し続ける言葉が、呼吸さえ奪っていくようだった。
顔色を悪くして黙り込む明希に、奏の忍耐が限界を迎えた。
「他人貶して、踏みにじって、何とか自分の優位を保とうとしてる性格ブスがっ! いい加減、その口閉じなさい!!」
苛烈な声音に、たたきつけるような言葉に、ひっと引きつった悲鳴を上げて美鈴は大きく後ずさる。
「そもそも、あんたは何で明希に突っかかるのよ」
「み、美鈴は幼馴染で…」
「つまり赤の他人でしょ。明希の全部に関わって日常に沿わなきゃいけない事なんてないでしょうが」
至極もっともな発言に、クラス中に何とも言えない空気が漂い始める。
「だって明希ちゃんは何も出来ないもん! 誰かが助けてあげないといけないでしょ。だから…」
「あんたが助けてあげる? バカじゃないの? そもそも、何をもって明希が何もできない、何て言ってるのよ」
「お料理できないし、お裁縫もできないし、部屋の片付けに洗濯物だって、美鈴がいないと何もできないんだもん!」
「明希の母親はなにしてんのよ」
間髪入れずに言った奏の言葉に、美鈴を含む周囲は数秒硬直し、ついで、美鈴を除く誰もが頬をひきつらせた。
ようやく、本当にようやく、美鈴の異常さに気付いたらしい。
「おば様はお仕事してるから忙しくて…」
「世の中、働きながら主婦業してる女の人がどれだけいると思ってんのよ。家族の協力が必要なのは当然だけど、助けようとした手をはねのけておきながら文句が言える立場じゃないわね」
奏は正論のみで美鈴に返す。
自身の感情は持ち出さない。今、奏は美鈴に対して言っているのではない。
無責任に追従し続け、言葉尻にのって明希をけなしてきた周囲にたいして言っているのだ。
「誰だって最初からできない。習熟度なんて物は人それぞれだし、誰にだって得手不得手がある。苦手なことは任せて、できることはやる。それが協力し会う、てことでしょう。その得手不得手を理解しようとして申し出た娘にたいして、『疲れる』の一言を向けた母親は母親失格よ。優しさを踏みにじって虐待しておきながら、良く説教できるものだわ」
あぁなるほどあれは虐待なのか、とこの時になってようやく理解したらしい明希ののんきな呟きが、奏の怒りを煽る。ただし、明希にそんな自覚はなく、声に出したという自覚すらない。他三人が明希の母親にたいして内心で両手を合わせたが、当然、誰も知らない。
「この教室内だけでも、家庭科実習以外で料理してる女子はどれだけいるのよ。裁縫なんて、滅多に針を持たない人間の方が多いわよ。片付けも洗濯も他人が勝手に手を出して良い領域じゃない、なんてこと小学生だってわかるわよ。あんたが言ってることもやってることも、非常識、の一言でしかないのよ。バカじゃないの」
ざっくり、と切りつけるような奏の言葉は、美鈴だけでなく教室内の大多数にも被弾した。
女子生徒は特に、だろう。昨今、学生の内に家の家事を担う者の方が少ない。片親であるなどの特殊事情がなければ特に、だ。明希のようにやろうと動いたことがある者も少ないだろう。
自分達が明希をけなしてきた言葉が自分達に帰ってくるのだ、とようやく気付いたらしい。
奏達にはどうでも良いが。
「いい加減、人の気持ちを考えて言動を行いなさい。いつまでも、しょうがない、で許されるような年齢じゃないのよ。そんなのは幼児までだと理解しなさい。それすらできないのなら、あんたは幼児以下の脳みそしかないクズよ。うざいわ。消えて」
きっつぅ、と楽しげに笑いながら呟いたのが誰かなんて、明希は確認するまでもなくわかったので苦笑いを浮かべるだけだ。
言いたいことを行って満足したらしい奏は、美鈴に背を向けて自分の席に座り直す。
俯いて震えている美鈴に、十数年の幼馴染みとしての情から明希が声をかける。
「…美鈴。時間なくなるから、友達のところに行って早くお弁当食べなよ」
それは紛れもない親切心と優しさだった。証拠に、奏達は呆れたような視線を明希に向けながらも微笑ましげだ。あれだけの事をされていながら良くもまぁ、という思いが大半であるが。
奏とやりあっている内に時間はそれなりにたっている。昼休みは残り半分だ。
自身も食べれていなかったので、明希は気を取り直して箸を手に取ったのだが、美鈴は顔をおおって泣きながら教室を出ていった。
箸を取り上げた形で固まった明希と奏達は、開け放たれたドアを見つめて数秒。
一つ頷いて食事を始めた。
マイペースなその様子に、教室内の空気はなんとも気まずいままであったがようやく動き出す。
明希は自身に様々な感情の視線が刺さっているのを自覚したが、すべて無視した。これに居心地悪くなる時期はとうに通りすぎている。好意の方が慣れなさすぎて挙動不審になる。悲しい。
昼休み、五時間目、と時間が過ぎても美鈴は戻ってこなかった。