一
藤守 明希、は男勝り、活発、おてんば、と称されるような少女である。
剣道を始めてからは一度も肩を過ぎたことのないショートカットの黒髪に、大きな団栗眼と鼻の頭に浮いたそばかす、愛嬌のある可愛らしい顔立ちではある。だが、凹凸の少なすぎるスタイルと相まって『少年』のような雰囲気が色濃い。
小学校入学と前後して始めた剣道にのめりこんだことが、それに拍車をかけている。
明希が通う萩宮学園は、私立の中高一貫校。
普通の公立学校に通いたかったのだが、隣家の加納家の一人娘の主張により、したくもない中学受験をしてまで、通うことになった。
それは別にいいのだ。
勉強が嫌いなわけでもないし、明希は特別頭がいいわけでもないが一般的に賢い部類に入ったので、受験も苦ではなかった。
私立だけあって公立では望めない設備や年に一回全体クリーニングが行われる綺麗な校舎は、単純に嬉しかったしわくわくした。
それでも、明希はそっとため息をこぼす。
中等部三年間、ずっと、教室に入る前はいつだって憂鬱な溜息をこぼしていた。
高等部に入学した、一ヶ月前のあの日から、その日常がまた繰り返されている。
いつも通りに加えて、一つ多い溜息をこぼすと明希は教室のドアを開けた。
クラス替えがされただけのような目新しさのない面々の中に、いるとわかっていた存在を認めてほほが引きつらないように必死になった。
「あ、明希ちゃん、おはよう」
「おはよう、美鈴」
語尾が力なく下がったことに、名前の通りに鈴が転がるような声をかけてきた少女は気付かなかったらしい。そのことにほっとしつつ、自分の席に座る。
すぐさま、少女が目の前を陣取る。
明希が見上げた先には、楽しそうな可憐な微笑みが咲いていた。
腰に届く長くつややかな黒髪、二重瞼に長く自然にカールした睫毛に囲まれたアーモンド形の瞳、ミルク色の滑らかな肌、小作りのパーツがバランス良く配置された、清楚可憐な美少女―――隣家の一人娘・加納 美鈴は、ほっそりした両手を向けてくる。
何かを要求しているのではなく、受け取れ、と差し出しているのだ。
両手の上には、可愛らしい赤いタータンチェックの巾着袋。大きさと形的に、お弁当だとわかる。
「部活、頑張ってね」
跳ねるような声音とともに机に置かれたそれに、明希は小さく礼を呟くことしかできない。
「うわっ、また貢がせてのんかよ。いい加減、自分で作ったら~?」
「そうそう。加納に甘えてんなよ、藤守」
「藤守さんも女の子なんだから、料理くらいしなよ」
「無理じゃない? 今時、スッピンで来てるくらいだもん」
ケラケラ、クスクス、とこれ見よがしに向けられるのは嘲りだ。
「もう、皆! あたしが好きでやってるんだから、そんなこと言わないで! 大丈夫だよ、明希ちゃん。何もできないけど、剣道があるもんねっ!」
剣道しかないの間違いじゃね、という呟きがどこかから聞こえたが、明希は反応しなかった。
中等部の三年間で、慣れてしまった。
仕事人間の両親に代わり、世話を焼いてくれたのは母親の幼馴染兼親友夫婦である美鈴の母親だった。
料理好きで世話好きな子供好き、とお節介な近所のおばちゃんとしての要素を網羅した彼女には、明希としては純粋な好意と尊敬、感謝を抱いている。
だが、いつからか、そのお節介を焼くのは美鈴になった。
きっかけが何だったかはもうわからない。
美鈴の母親が風邪を引いたとかそんな些細なことだったような気がする。
それから、明希の家で料理をふるまうのは美鈴になり、いつからか洗濯物をして、掃除もするようになった。兄と弟は可憐で優しい美鈴にデレデレで、それを少しばかり不快に思っているのは明希だけで、ぽつりとそれを零せば、嫉妬だの八つ当たりだのと言われた。しまいには、できないことをしてもらっておいて文句言うな、と兄にも弟にも言われる始末。
美鈴の母親は無断で洗濯物に触れなかったし、無断で部屋に入らなかった。それが普通で、無断で入り込んで独断で洗濯物に触れて、部屋の配置を変えてしまう美鈴は非常識ではないのだろうか、と思った。だが、それを口にすることはなかった。
言っても無駄だとわかっているからだ。
小さなため息一つで口を閉ざした明希に、兄も弟も勝ち誇ったようなドヤ顔をしていたのは無視した。顔面に右ストレートを叩き込みたくなることは確かだったので。
ちなみに、兄も弟も立派なゲーマーへと成長し始めており、インドア派の片鱗を見せていたもやしっ子の典型である
明希は、剣道に夢中だった。家のことを手伝ってこなかったのは事実で、そのことを後ろめたくも思っている。だから、稽古がない日、母親に手伝いを申し出たことがある。
出来ない人に教えながらするのは疲れるのよ、向こうに行ってて、と返ってきた。
母親の隣には、美鈴がいて一緒に料理をしていた。
仕事仕事で合間の休みに料理をする母親にとっては、一から教えなくてはいけない明希よりも教える必要のない美鈴を相手にするほうが楽なのは確かだろう。
だが、コミュニケーションを『疲れる』と切って捨てた母親に、明希がどう思うか考えなかったのだろうか。
笑いながら、明希ちゃんは本当に何もできないね、と言う美鈴の言葉がとどめとなって、明希はもう何も言えなくなった。
美鈴が笑えばみんなが笑い、美鈴が何かすればみんなが褒め、美鈴が明希を庇っているのか貶しているのか微妙な言葉を口にすれば、みんなが明希を責め貶した。
学校も家もそうだった。美鈴の母親も父親も人を貶す言葉を口にしないのに、美鈴は息をするように口にする。
否、正確には、明希の事だけは自然に当然のごとく、貶すのだ。
嫌われているのだろうか、と思っていた。だから、中学受験の話が出た時は驚いたのだ。
明希ちゃんは何もできないから一人にすると心配で、と眉を下げて言う美鈴に、両親も兄も弟もそうだそうだと頷いて中学受験を進めてきた。断れば、それが凶悪犯罪であるかのように咎める視線を向けてくる。
意地を張ったってできないことはできないんだ、素直さは美徳だぞ、とあきれたようなため息交じりに父親に言われれば、明希に拒否権はなかった。
美鈴の両親は気遣ってくれたが、結局、強制されるような形だったが自分の意志で受験を決めた。
入学後も変わらない。
小学校と同じことの繰り返し。美鈴が行くなら、と同じ小学校出身の子達がこぞって受験し、入学してきたからだ。中には、金銭的、学力的に受験すらできなかった子もいたが。
だが、部活に入ったことで生活時間に差ができ始めた。剣道部に入った明希と家庭科部に入った美鈴では、当然ながら活動日も活動時間も被らなかったからだ。部活のある日、それが明希にとって至福の時間だった。
同学年の部員は相変わらずだったが、元来、人懐っこく物怖じしない明希は年上に可愛がられる傾向にあり、先輩達とは仲が良かった。
だが、別の形で美鈴の存在は明希を圧迫するようになった。
給食のない私立では、毎日お弁当が必要になる。
それを知って、明希は挑戦しようと考えていたのだ。
学校を美鈴に決められたが、そこでどう生活するかは自分の勝手だ、と。
手始めにお弁当を。
内容は至極簡単だ。
お握り二個とスクランブルエッグ(卵焼きが作れなかったのだ)とウィンナーと茹でたブロッコリーにプチトマト。
中学1年生が初めて一人で作った、と考えれば十分だろう。
だが、美鈴はそれを見て自分のお弁当を並べ、嗤った。
出来ないのに無理するから、そんな変なお弁当しか作れないんだよ、と笑いながら取り上げられたお弁当はゴミ箱へ。
決意の形が、呆気なくゴミとなったのを見つめて、呆然としている明希の耳は周囲が美鈴を褒めている言葉も自身を馬鹿にしている言葉も素通りしていた。だから、その様子に嫌悪を表している人も視界に入らなかった。。
通い始めたころは、常備されている冷凍食品を詰めたり、美鈴の母親が作りすぎたと渡してくれた料理を詰めたりしていた。そうした食事をしながら、自分にできる初歩から始めようと頑張ったのに、それはあっさりと踏みつぶされた。
本当に明希ちゃんは何もできないね、しょうがないから、明日からあたしがお弁当作ってあげる、と言う美鈴の言葉に何も返さなかった。それが肯定と受け取られることをわかっていても、返事をすることの意味が分からなくなっていた。
拒否すれば責められ、肯定すれば貶される。どちらも、痛むのは変わらない。
そうして、繰り返された日常で明希は慣れてしまった。
美鈴の優しさと言う名の、暴虐に。
諦めてしまえば、楽だったのだ。
たとえ、美鈴の作る料理が砂を噛んでいるように味がしないと感じていても。
部活で発散させるだけでは足りないくらい、明希は疲れていた。
遠く、ぼんやりと過去を反芻していれば、いつの間にかホームルームの時間になっていた。
お弁当を鞄にしまい、入ってきた担任の話に耳を傾けながら、机のわきにかけた鞄が、ひどく重い陰鬱な雰囲気をまとっているような気がした。
精神的に疲労しながら、四時限目の授業を終えた明希はゆったりとノート類を片付けた。
早く片付けても遅く片付けても、結果は同じ。美鈴は毎回明希を迎えに来て、美鈴の友人の輪の中に引きずり込み、いつも通りに明希を貶すのだ。。
そんな事をしていれば、当然、明希に個人的な友人が作れるわけがない。部活関係以外に、明希は美鈴を介さず親しくできる存在がいなかった。
美鈴が向かってくるのを認めて、お弁当を持ち上げ移動の準備を始めると、目の前に影が差した。
「ねぇ、一緒に食べない?」
問いかけながら、どこか必死な様子も伺える声音で明希を誘ったのは、クラスでも浮いた存在の女子グループのリーダーだった。
明るい茶色の髪はともすれば金にも見え、よく見れば鉄紺色の瞳は大きくくっきりとした二重に挙げられた睫毛、白磁のような肌に小さな赤い唇。
華美ではないが、華やかな美貌を持つ彼女がつるんでいるのは、彼女と同様にひどく目立つ容姿や着崩した服装などから敬遠されている面々ばかり。
愛嬌があるとはいえ、平凡な日本人顔でしかない明希が、誘われるなんてありえない。
「それ、食べたくないんでしょ」
今度は断定的な言い方をして、瞳を丸くした明希に微笑んでお弁当を手に取ると教室の後ろにあるゴミ箱に放り込んだ。
かつてと違い、すっとしたのはなぜかなんて問うまでもない。
「ひどいっ! 一生懸命作ったのに!」
泣きそうな甲高い声で喚く美鈴に、予想外の展開に呆然としていた周囲が息を吹き返す。
口々に彼女を責め立てるが、冷ややかな視線で全員の顔を見てから鼻で笑う。
華麗な彼女がすると、妙なすごみがあった。
「中等部で、藤守さんが一生懸命作ったお弁当を捨てたことは、酷いことじゃないとでも?」
張り上げたわけでもない声で言われたことに、三年前といえども覚えている面々は多かったらしい。口をつぐんで視線が泳いでいる。
美鈴のお弁当を捨てたことを責めるなら、明希のお弁当を捨てた美鈴も責めるべきだ、と言外に言っていることに気付いたからだ。だが、それはごく少数。
「はぁ? そんな男女と加納じゃ比べようがねぇだろ」
「比べろなんて言ってないわ。私が言っているのは、私のした行いと加納さんがした行いのどこに差があるの、てことよ」
「だから、加納と藤守じゃ…」
「加納さんが作ったから価値が高いの? レストランじゃあるまいし、女子学生が作ったお弁当の価値なんて、等分に決まってるでしょ?」
馬鹿に仕切って言い切られ、言い返せなくなった面々を見まわし、顔を覆って泣いている美鈴を一瞥して、彼女は明希に向き直った。
「お昼、私達の分から分けてあげる。一緒に食べよ」
さっきまでの冷ややかさを綺麗に捨て去って、やや強引に明希の手を引いて入り口で待つグループに手を振る。
されるがままに引っ張られる明希は、ちらりと振り返った先で美鈴がにらんできていることを確認した。部活の先輩といるときも同じような視線を向けてきていた。
自分が認知していない誰かと明希がいるのが気に入らないのだ、と最近気が付いていた。
その日から、彼女達のグループは積極的に明希を誘いに来た。
髪を染め、メイクをして、制服を着崩して、今流行りのアクセサリーを身に着けている彼女たちを遠巻きにしていたのは何だったのか、と思うくらいに明希は穏やかに過ごす事が出来た。
数日後、また挑戦してみればいい、可笑しかったらアドバイスしてあげるから、と彼女達に後押しされてお弁当を作ろうとキッチンに立つと、母親に乱暴に押しのけられた。
曰く、人の好意をゴミ箱に捨てるような娘にキッチンに立つ資格はない。
美鈴から話を聞いていたのだろう。
彼女達に助けられた次の日から、両親と兄と弟の態度が冷ややかな気はしていた。
ぴしゃりと切り付けられた明希は、抗弁する気も起きずにずいぶん早い時間だったが家を出た。
朝練のために訪れた部室には誰もいなかったが、武道場には男子副部長がすでにいた。
「早いな、藤守」
「…はい、いつもより早く起きたので」
「そうか」
基本的に表情が動くことが少なく頭抜けて整った容貌をしているため、人形の様にすら見える一つ上の先輩に、明希は淡い思いを抱いている。中等部時代からだ。
だが、仄かな初恋を美鈴に木端微塵にされ、周囲に女じゃないと様々な言い回しで言われ続けた明希はそれを誰にも悟らせなかった。失恋するのはともかく、誰かの言葉や行動によって踏みつぶされるのはもうごめんだったのだ。
親しい者に見せる優しい仄かな微笑みが、明希は好きだった。
「…元気がないな」
「え…」
「中等部の頃から、部活の時以外はどこか表情が暗かったが、最近はそれが薄れていた。でも、今日は前以上に暗い、というか、痛々しい…」
無理に明るくふるまうな、と囁くように言われて頭を撫でられて、意図せず、大きな瞳から雫が零れた。驚いたように息をのむのが気配で分かったが、動揺して固まり拭うこともできずに棒立ちになっている明希を気遣ってか、何も言わずに頭を撫で続けていた。
数分後、ようやく涙が止まって事態に気付いて顔を真っ赤にし、慌てて逃げ出した明希は知らない。
逃げ出した後姿を目にした女子部長と副部長、男子部長が目を吊り上げて即刻男子副部長をつるし上げていたことを。