24話 冒険者の宿屋(終)
コンコン――と、唐突なノックの音に心臓が跳ね上がる。
目前のゼィロルも、僕と視線を合わせたまま、目を大きく見開いてきょとんとしていた。
「……ああ。まったく間の悪い愚か者じゃのう……」
「?」
困惑する僕をよそに、なにかを理解してぼやくゼィロル。
「確かにそうしろと教えたのはわしじゃが……このタイミングとは、相変わらず動きの読めぬやつじゃ」
ゼィロルは小さく溜め息をついて身体を放してくれた。
「ま、今回一番頑張ったのはあやつじゃろうし、譲ってやるのが親心かのう」
思い切り嫌そうな顔で渋々呟いている。
「どうなるかはおぬし次第じゃが。くっふふ、まったく予想がつかんようで、つくようで。あやつは面白いのう」
扉の向こうへ視線をやって、やれやれと首を傾げて黍を返す。
「帰る。今後ともよろしくの、僧侶どの」
「あ、おい――っ」
引き止めようとした僕の頬に、軽く唇を合わせて窓から飛んで行った。
「……なんだったんだ」
唇が触れた頬に手を充てて呟く。
しばらくして、もう一度扉が控えめにノックされた。
予感というか、予想というか、ノックの仕方で誰か分かる程度には親しくなっているのだろうか。扉を開ければ思った通り、フルルが立っていた。
しっとりと濡れた黒髪につやつやの肌は風呂上りなのか。
それにしては格好がおかしい。
冒険用ではない、はじめてみたときに似た黒いバニーガールの正装に、羽毛の枕を抱えて立っていた。
「あ、ああ、あのっ、マアちゃんが着替えとかを、届けてくれて、この衣装もあって、お、男の人に……お礼をするなら……こうすると、よ、喜ぶって、教えてくれて――」
「聖職者を誘惑するな」
バタンッ!――あえて大きな音が立つように扉を閉めて、大きく溜め息を吐く。
慌てて再度叩かれる扉。
ゆっくりと扉を開ければ、隙間からこちらを見上げているフルルが見える。
「あ、あの……?」
「あー……ああ」
最大の難問が残っていた。とりあえず宿の廊下で話し込むわけにもいかないので、扉を開けて中へと促す。
どう穏便に話を有耶無耶にするか、疲れた頭で思案を巡らせる。
「……」
「……」
フルルはなにか小箱と枕をテーブルの上に置き、僕と向き合う。
上目遣いで見つめられる。
フルルはそっと手を伸ばし、僕のローブの袖を掴んだ。
思考は停止して、緊張が全身に走る。
「……」
「……わたし……いっぱい迷惑かけちゃったから……お詫びしないと、と思って」
フルルは静かに歩みを進め、そのまま僕の腕の中へと納まってしまう。
「……」
「……」
ベッドまで三歩。頭の中の冷静な部分が勝手に距離を測っていた。
いや、冷静に考えればもっとなにか別のことを考えるべきはずなので、つまり冷静な部分などない、つまり冷静ではないと客観視できるということは冷静なのかも知れないけれど三歩なんてすぐに――
(いや、おちつけ――)
フルルがくいっと顎を上げて、瞳を閉じる。
フルルの艶やかな唇に視線が奪われる。人命救助を思い出して。呼吸が止まる。
フルルはその唇をやや小さく尖らせて。
気の遠くなるほどとも思えるような時間の流れ。
実際は二度、瞬きを挟んだくらいか。
覚悟を決めるとか決めないとか冷静とかそういう思考の前に身体が自然に動く。
寸前――
――ぱちりとフルルの目を開いて。
僕の身体は石を噛んだ車輪のように軋んで止まる。
「それで……これには、なんの意味が……あるんですか?」
「――は?」
「ゆうわく?」
「は?」
僕を見上げているフルルは、僕の尋常ではない様子を見て、恐れながら首を傾げる。
「え、と……マアちゃんが、こうすると、男の人は……喜ぶって……」
「……は?」
意味が分からない。考える。
「?」
首を傾げるフルル。
「あ、本気で言ってるのか」
考えて、思い当たる。具体的な行為までは知らないのか。
だから色々と無防備だったのか。
9歳児並の知力に改めて衝撃を受けた。
腕の中、僕を見上げている純真無垢な瞳。
おぬし次第と、賢者が言っていた言葉を理解する。
(無知な少女になにをやらせてんだあの悪徳賢者がっ!)
なんて羞恥の混ざった怒気も一瞬で霧散してしまうほど、懐に飛び込んで来た迷える子兎はぎこちない、不安そうな笑顔を浮かべていて。
震えながら言葉を続けた。
「あ、あの、これで……明日からも、わたしと一緒に……冒険、してくれますか?」
フルルは賢者じゃないのだ、もちろん答えがわからないから質問しているのだろ。
腕の中、そんな不安そうな上目遣いで問いかけられても、応えられる答えなんて一つしかないことが何故わからない。
「……おまえは賢者よりも強力な遊び人だなぁ」
賢者には絶対真似できないだろう、最強の天然な力技だ。
賢者なんかにならなくても、遊び人のままで最強だ。
僕は呟き、腕の中にあるその小さな身体を引き寄せて、形の良い丸い頭の匂いをたっぷりと嗅ぐ。風呂上がりの良い匂いだ。
「え? え? え?」
こんなにも甘くて乳臭い匂いがする子兎なのに、どうしてこんなに苦みの効いた笑いが浮かんでしまうのだろうか。
賢者にでも尋ねれば教えてくれるのだろうか?
くだらない考えに益々苦笑が濃くなってしまう。
「あー……そうだね、フルルがもう少し成長して、それでもまた同じことしてくれるなら、このお礼はそのとき受け取りましょう」
窮鳥懐に入れば猟師も殺さずとは上手く言ったもので。
なにもかもが洗い流されてしまうような心地。
毒気を抜かれるとでもいうのか、なにも知らない相手にこのまま手を出すのは聖職者としても男としても駄目だろう。
「ふえ?」
腕の中、困惑している子兎を解放し、右手を差し出して僕はしっかりと頷く。
「だから、明日からもよろしく」
「……――はい!」
こちらの気遣いなど微塵も分かっていないだろうに、安堵と共に無防備で幸せそうな笑顔を浮かべ、大切な物のように僕の手を両手で握るフルル。
その瞳に浮かぶ綺麗な涙に対して、心臓は大きく高鳴り――
「ほら、もう夜も遅いんだから、早く部屋に戻りなさい」
と、どこまでも理性的な言葉をかける以外、どうすればいいというのか。
本気で神の啓示が欲しいと祈ってみるが、もちろん神様はなにも答えてくれない。
「あの……でも、もう少し……お話が、したいです……」
俯いて、言い難そうにしながら、羽毛枕をゆっくりと手に取った。
……は?
「お礼に……わたしの、あの、この、アイス……もらってほしい、です……」
ラティスが言っていた王都からの土産だろう。
ゼィロルが届けてくれていたのか。
羽毛枕を持ち上げた隣には、小さな白い紙箱がる。
「アイスが、嫌だったら、いちごを、あなたにあげます……いちごも……嫌い、ですか?」
だめ、ですか? と小首を傾るフルル。
「ああ……ダンジョンで言ってた、あげるって……これかぁ」
呻く。本当に、どうすればいい?
僕は力なく天を仰いで笑うしかないのだった。
次の朝。
「大丈夫か?」
「……はぃ」
まだ寝ぼけているのもあるだろう、フルルは真っ直ぐ歩けないようで、僕の腕に捕まっている。
フルルの身体を気遣いながら部屋の扉を開ける。
「無理するなよ」
「えへへ……」
扉を開けて、腕にしがみついたままのフルルを優しく支えながら廊下へと歩みを進めれば、宿屋の女主人が客を引き連れていたところに遭遇した。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……昨晩はお楽しみでしたね?」
女主人がぽそりと呟く。
背後の客は、ミーティ、アルネラ、ラティス、ゼィロル――ではないか、無表情なマアシャンテだった。
それぞれ、青ざめた表情、呆気に取られた顔、驚いて目を丸くしている、無表情ながら涙目に怒りが込められていて。
「誤解だ」
僕は反射的に言う。
当然誤解だ。
昨晩は今までのこと、これからのことなど、取り留めのない話をしているうちに、僕もフルルもそのまま眠ってしまい、フルルは机にうつ伏せて眠ってしまった。
そしてダンジョン探索での疲労から来る筋肉痛でふらついているだけだ。
ちなみに賢者の石が台無しになっていた件については、よくあることだと諦観気味に笑っていて、それはそれでこう胸に来るものがあったが、今はそれどころではない。
「わ……」
牽制の意味で片手を挙げれば、体勢を崩してぐらつくフルル。僕は咄嗟にその身体を支えて――一同から冷ややかな視線を向けられる。
慌てず、ゆっくり身体を起こして、考える。
「誤解だ。昨晩は普通に話をしていて、そのまま眠ってしまったただけだ。そうだよな?」
フルルからきちんと言って貰えれば誤解も解けるだろう。
「昨晩、は……お礼に……わたしの……たいせつな……あの、あれ……あれを、あげて……これから、も、いっしょで……ふぁぅ」
むにゃむにゃと眠そうな声で、欠伸を堪えるフルル。
確かに、アイスを半分貰い、これからも一緒にダンジョンに挑みましょうねと話をまとめた。概ね間違いではないのだが、全力で否定したくなる言い回しだった。
「いっしょに……いってくれるって……やくそくを……」
「ふ、ふふ、ふふ、へぇ、そうなんだ、ルシェくん達が大物を仕留めたって、酒場で聞いて、急いでこっちに来たんだけど、へ、へぇ、そうなんだ、そうなんだ。大物、へぇ、へー?」
青ざめた表情で壊れ気味に笑うミーティ。
「あたしもほら、昨日の競売結果を届けてあげよっかなってついて来たんだけど……」
なにかを堪えるように、アルネラは書類で口元を隠しながら目だけを歪めながら僕とフルルを交互に見比べている。面白い話のネタを手に入れたときの、悪そうな目だ。
「私達は普通にフルルを迎えに来たのだが、まさか朝帰りとはな。妹に先を越されるとは、なんとも言い難い悔しさを感じてしまうものだ。それはともかく、これはさすがに身内だからといって見逃して良い領域を超えているのではないだろうか?」
なにを言っているんだこの神殿騎士は。
「おまえ、殺すの」
マアシャンテは唇を噛み締めながら、なんとかそれだけを呟いた。
「あらあら、マアシャンテちゃん、そんな物騒なこと言っちゃぁだめよ、うふふふ」
ミーティは言いながら、マアシャンテの肩に手を置いて動きを止めてくれる。 その指はマアシャンテの肩に食い込み、不思議そうに顔を見上げて、マアシャンテは恐れて一歩下がる。
「まて、誤解だ」
無理があるのは承知している。
朝、宿屋の部屋から男と一緒に出て来るバニーガールという場面を目撃され、なにをどうしたって弁解できるはずもない。誤解だと繰り返すことしかできない。
「……えへぇ、ずっと……いっしょに……いて……」
疲労が色濃く残り、テーブルで眠ったせいで寝違え気味で気だるげで、筋肉痛で足腰が立たず、眠そうに腕にしがみつくバニーガールはどこか満ち足りた表情をしていて、そのまま僕の腕を枕にしようとでもしているのか頬を摺り寄せて来る。
僕だって昨日の疲れが残っている。げっそりと疲弊した表情をしていることだろう。
益々なにを言ってもどうにもなりそうもない。
「戦士殿……?」
「うふ、うふふふ」
ラティスがぎょっとしながらミーティに問いかける。
ミーティが放つ、静かな殺気が一番怖い。殺すのは自分だと目が訴えている。
堪え切れずアルネラが大きく吹きだした。
問題は山積みで急務で重大だ。
(どうしたものか)
神に啓示を求めても、賢者に答えを求めても、充てにならないこの世界。
自分で考えて、自分でなんとかするしかない。
「……誤解だ、おちつけ、冷静になるんだ」
だけど僕如きの浅知恵では、なにを言っても墓穴を深くしているだけのようで。それでも墓穴に埋まる訳にはいかない。
僕は必死であれこれと言い訳――もとい説明を続ける。
こんな状況だというのに、寝ぼけながら益々腕にしがみついてくるバニーガール。
もう笑うしかない。
「んー、なに? 楽しそうだよねぇ、楽しい? 楽しいよねぇーうふふふふー」
ミーティの壊れた笑いも大きくなる。
きっとミーティ自身もどうしていいのか、自分でわかっていないんじゃないだろうか。だからどうしようもなく笑っているのだろう。
「どうしようもない状況でも、笑うことくらいできるらしい」
こんなどうしようもない状況でも世界が続いて行く限り、なんとかしなければならないことだけは確かなわけで。
絶望に悲観せず、希望に傾向せず、どうしようもないありのままを受け入れて立ち向かうしかない。
それならせめて泣かずに笑っていよう。
幸いなことに、その場を盛り上げ人を楽しくさせることが仕事の、人を笑顔にすることが仕事の遊び人が隣にいてくれる。
そうだ、フルルに教えてもらった。
どうしようもなくても、誰だって笑うくらいできる。一人ではない、誰かがいてくれれば。
「うふふふふふ――」
といっても、笑顔にも多種多様なのだが。
壊れた笑いのミーティ、爆笑するアルネラ、半笑いのラティス、マアシャンテは一瞬だけゼィロルと入れ替わり、にやにやと笑顔を浮かべている。
あとは宿屋の女主人がこの状況を見て苦笑しているか。
誰しもが笑っているのに、誰しもがどうしようもないこの状況。
不気味な笑い声の合唱が、朝の陽射しの差し込む廊下には不釣り合過ぎて、また笑えてしまい、笑い声の合唱は益々禍々しさを増していく。
「んぅ……んふふ……」
そんな中、僕の腕にしがみつくフルルだけがなんだか満足そうな顔をして、幸せそうに笑っている。
(まだ目的はなにも果たしていないだろうに)
一触即発の空気の中、そんな顔をされると思わずこちらの顔もほころんでしまい。
「あー! なにその優しい笑顔ー! やっぱり絶対なんかあったでしょ!」
「誤解だ」
「あっははははは」
「お、おちつくんだ戦士殿。そこの酒場の娘も、笑ってないで押さえるの手伝え! マアシャンテも!」
「マアちゃん、じゃあ牛年増の手伝いするのよ……」
「そっちじゃない!」
フルルへの呆れを含んだ微笑みを合図に、騒がしくなる宿屋の廊下。
「……えへへぇ」
そんなこんな、なにもかもおかまいなしに、ふてぶてしいまでに純粋な笑顔を浮かべ、すやすやと眠り続けるフルルにやっぱり笑いしか浮かばず。
喧騒は益々盛大になって行き、陽気な空気の中でいつまでも続くのだった。




