22話 再度挑む。ヴルックス迷宮3
「な――」
なんで。声が出せない。痛みはない。ただ、ダガーが刺さっている部分から赤い液体が流れ出て行く。身体が動かない。
「生まれながらに世界の絶望に挑み続けたわしはな、フルーレルの何倍も過酷な世界を見続けておる。何倍も深い挫折を見てきた。何度もな」
痛みが全くないので血だとは思い浮かばなかった。
「おぬしは絶望の深さを知らんからそんなことが気軽に言えるんじゃ。呆れと怒りと、嘲笑しか浮かばぬよ」
泣き顔のまま言う。
「わしの心は動かん、もう止まれはせん。どうしようもない程この世界に絶望しておる」
だからこうするのか。
だから、こんなことをしたのか。
賢者は泣き顔のまま頷く。頷き、その姿が変化して行く。
ゴースト体の賢者は、激しく燃え上がったと思えば、巨大化し、紫雷と黄金の火炎を纏う女神――否、魔王の姿へと変貌を遂げる。
魔王ゼィロルは静かに、不思議な響きを持つ声で宣言する。
「さぁ、三代目の賢者よ。貴様をそのように生み出したのはこのわしじゃ、怒りを覚えるじゃろう? 怨んでおるじゃろう? 憎んでおるじゃろう?」
思い切り煽るような物言いで声を響かせる。
「絶望しきっておらぬおぬしのために、もう一つ動機も作ってやったぞ。こやつを助けたくば、わしを滅ぼしてみせるがよい!」
「――――――――」
魔王の哀しい声に呼応するように、祠から咆哮が上がり。
巨大な白竜が現れた。
軍馬の10倍程はあるだろうか。鱗のある馬のような胴体に爬虫類の手足。
額には一本の碧い角。鰐のように突き出た口らは牙が生えていて、背中には蝙蝠のような翼。
白竜が空中に浮いている。
地底湖の神秘的な光景の中、奇妙に収まっていて――直感的に思い至る。
「うむ、ここは大昔、竜の寝床じゃった場所じゃな」
魔王が応えてくれた。
竜に対峙するため、ふわりと浮かび上がる魔王ゼィロル。
「この世界で唯一、わしを恐怖させたのが竜じゃが、復活させたところで勝てんじゃろ。中身がフルーレルではまともに操れまい。先程の黒牙熊と同じようなことにならぬか?」
耳元でゼィロルの声だけは聴こえる。あれはフルルなのか?
「ほれ、あの竜。耳が長い。あれは兎の耳じゃ。おぬしがやった装備が余程気に入っておったんじゃろうな、融合魔法で取り込んでおる」
良く見れば、水色の瞳に面影があるかも知れない。銀色の鱗はミスリルの輝きに見える。あの爪で一凪ぎするだけで人間なら木端微塵だろう。
「竜ではわしには敵わんよ」
ずっと欲しがっていた賢者の力だ。
眠る前、絶望と共に、切望をしていた力だ。
何度も何度も思い描き、夢の中でも見ていたと言っていた。
賢者の力。それを存分の現実で振るえるんだ。すぐに慣れるだろう。
見れば、白い竜はその力を凝縮するように小さく、人の形へ変化して行く。
「それがどうしたと言うんじゃ。竜人化魔法? そんなものでわしには勝てん」
フルルの変身が行き着く先は、遠目には人間に戻ったようにも見えるが、額の碧い一本角は、そのまま大きさを人型に合わせ、髪は白髪へと変わり、両手足はミスリルの手甲足具と融合し竜の鱗へと変わっていた。
ミスリルのベストも竜鱗へと変化し、まるでそのためにあつらえたように開いた背中からは白い竜の翼が伸びている。
なによりも耳が特徴的な変貌を遂げ、お伽話にある妖精のように長く伸び、ぴんと空を指し示していて。
(……ああ、兎の耳か)
その表情は完全な無表情。感情を微塵も移さない、死人のような面持ちで佇み、唇からは静かに青白い火炎が漏れ、虚ろな水色の瞳に反射している。
「だから、それがどうしたと言うとるじゃろう。魔奴贄の枷から解き放たれたフルーレルが賢者の力を操れるなら、確かに並の竜よりも強かろう。竜人か、やるではないか。じゃが、それでもわしには敵わん。わしが運命の輪の中心、神へと届かぬようにのう!」
なにもわかってない。
なにかの魔法なのだろう、相変わらず声だけは耳元で聴こえるのだが、言い 切ったのを合図に、魔王ゼィロルは竜人フルルへと破城槌のような勢いで飛んで行った。
その巨体を片手て受け止める小さなフルル。白竜の翼は羽ばたく。受け止められた場所から砕け散って行く、魔王の身体。
「全部わかった上で言うとる!」
そこだ。わかっているから、わかってない。
攻撃を仕掛ける魔王、受けて砕く竜人。
戦いは激しく繰り広げられる。
「なんじゃ賢者を試すか?」
むしろ、なんでそこまでわかっているのに、なんでわかってないんだって腹が立つ。
「詭弁で賢者を騙せると思うな!」
戦いながら、どんどん砕かれて行く中でも、余裕たっぷりに僕との会話を続ける魔王ゼィロル。
だから、凄く単純な話なんだって。
賢者の考えなんて僕達にはわからない。
僕達の考えは賢者にはわかっている。
そして。
神の考えなんて賢者にもわからない。
神は賢者の考えをわかっているのか?
賢者の考えを、神が理解してるかどうか、それすら賢者にはわからない。
神の考えをわかっていない、そうだろ?
「どれがどうした! わしがこの世界の全てを幸せにしようとしても無理じゃったんじゃ! この世界に神の救いはない! 神に見捨てられた憐れな世界じゃよ」
竜人フルルの青白い火炎で粉々に粉砕される魔王ゼィロル。が、次の瞬間には 竜人の背後に魔王の巨体が形作られて――竜人を掴みかかる。
「この世界を作った神なら、この世界を救えるはずじゃろうが! すべての人を幸せにできるはずじゃろうが! 無力で哀れなフルーレルを救ってみせるがよい!」
魔王の手は内側から弾け飛ぶ。竜人フルルの手には白刃の長刀が握られていた。
魔王と竜人は地底湖の上空を飛び交いながら、激しく爆炎を飛び散らし、洞窟を震わせる。激化して行く戦闘。
僕はもうこんな茶番染みた戦いはどうでもいい。
賢者から見ればフルルなんて虫けらで、人間なんて精々虫けらに毛が生えた物なんだろう。
それなら、実際に本物の虫、例えば月蚕ならどうだ?
おまえは月蚕の考えを全て理解して、蚕のために世界を良くしようと動くか?
蚕が自分達の環境の改善へとせっせと努力しているのに、上手く行かずに行き詰って絶望しているからといって、蚕の為に賢者がなにかしてやるか?
世界中の蚕を幸せにしてやるために、世界をなんとかしようと動くか?
神から見れば、賢者なんて精々珍しい蚕程度の存在でしかないんだって、なんでわからない。
賢者がここまで言い切るのだ、この世界を作った神はきっとどこかにいるのだろう。
それでも、世界中の蚕を幸せにするためになにかすると思うか?
賢い蚕の一匹が人間の存在に気がついた、だからどうしたっていうんだよ?
賢い蚕が人間の存在に気づいているかどうかすら、人間にはわからない。
それと同じだ。
神がなにも応えてくれないってことは、人間なんて下等な虫けら、眼中にないんだろ。
おまえにはこの世界の理がわかってるから、わかるはずがないんだろう。
おまえにはこの世界が全ての基準で、この世界の中では万能だ。
だから自分の上にあるのは神だけだと思い込んでしまった。
おまえが他の星を作って異世界を見ていたように、神だってこの世界だけ見てるわけじゃないんじゃないか?
むしろ賢者よりも、もっとたくさんの世界を見ているはずだ。
そして、神はきっとこう思っているさ。
自分よりも上位の存在に向かって「私に救いはないのか!」ってな!
「神の、上位……?」
ふっ、と身体が自由になる。
竜人フルルの一刀により、魔王ゼィロルは完全に粉砕され――また離れた場所で形になる。
やっぱり身体停止魔法と、赤い液体は手品魔法だったようだ。本物のダガーは刺さっていない。
言ってやる。僕は体を起こして声を張り上げる。
「おまえは自分が人よりも高く飛べるからって、自分は太陽に手が届く、太陽が自分には応えてくれるなんて、とんでもない勘違いをしている、ただの大馬鹿者だ!」
声が響く。静寂。全てが止まる。
竜人フルルの動きは、刀を振り下ろす寸前、空中で停止している。
僕と、小さくしぼんで行く魔王ゼィロル以外の全ての動きが止まる。
「神が……神の、え……?」
一瞬だけフルルの声かと思った。それ程にまで情けない声色だった。
この世界で万能故に、自分より上は神しかいないと思っていた賢者には想像もつかないだろう。
最初から空を飛んでいるやつに、空を飛ぼうと足掻く人の気持ちがわかるわけがない。
一番上で空を見ている風景と、一番下から空を見上げる風景は全然違う。
人にとってダンジョンはまだまだ奥深く未知数であり、冒険者達は更に深くもっと先へと挑んでいる。
ダンジョンの全てを知っている賢者に彼らの気持ちはわからないだろう。
全てを理解し絶望を見降ろしているのと、絶望の中から希望を見るのはまったく違う。
誰かに憧れ背中を追ったことなんてこともないのだろう。
下から見上げたことがある者なら誰でもわかることだ。
「神の……うえ……?」
どこの世界にだって、上には上がいくらでもいるものだ。どこの世界でも、だ。
表情を無くすほど思考は巡っているのだろう。呆気に取られたままの賢者。
「……じゃ、じゃあ……わしは、どうすれば、いいんじゃ? こ、こんな、ここ、こんな世界、わ、わしは……嫌じゃ……いやじゃよ……」
フルルよりも情けないことを言うな。どうしたいかくらい言え。
ああ、人になにか尋ねるなんてこともこれが初めてなのか。
最初から一人でこの世界の理、その全てがわかっていたから。
だから神に縋るしかなかった。
神しか頼れる相手がいなかった。
だから神が絶対だった。
「好きにすりゃいいだろ。ただし世界に迷惑かけない範囲でやれ。今、この世界を壊そうっていうのなら、おまえはただの敵だ」
わかりやすい構図に、ゼィロルは怒りの表情を見せる。
元のゴースト体に戻った賢者ゼィロルは、僕を睨んで見下ろしているが、子供が不貞腐れているようにしか見えない。
「全面戦争をしてもわしが勝つわい! わしが作った世界をわしが壊してなにが悪い!」
怒鳴り、ゼィロルは僕へと一直線に飛んでくる。ゴースト体に貫かれてしまえばただでは済まない。咄嗟に向けた聖光魔法を物ともしていない。
(それなら――)
冷静に聖光壁魔法――光の帯を生み出し――を手にして、一閃。
賢者ゼィロルのゴースト体は光帯に切り裂かれ、分離して行き違う。
フルルと一緒にいることで編み出した魔法だ。
綺麗事を言うつもりはないが、必要が技術を高めるのに不可欠なのも事実。
切り離されたゼィロルの半身は霧散し、頭部を含んだ上半身だけが残る。賢者はなにが起こったのか理解できずに目を白黒させていた。
「世界世界と言ってるが、世界を作ったのは神で、おまえが作ったのは精々今の人間社会だろ」
思い違いをするな。
腕を振り魔法を消し、荒く鼻息を吐いて胸を張る。
「僕は今の合理的な部分はとことん合理的にして、不条理な部分を踏み潰して蹴り飛ばして行くような世の中に合わせてそれなりになんとかやってるよ」
不満もある。適応できない人もいるだろう。
それでも、良い面だって多いのだ。
「確かに、この国の秩序は多くの人を幸せにしている代わりに泣いてる人もいるよ。僕は泣きたくないから今を頑張っているし、泣き言いう暇があるなら、泣きながらでも今を努力してる娘を知っている」
なに者にもなれない者には厳しい世の中だ。それでも救済処置くらいある。
救済が気に入らなくて、抗い続けてもいいし、唾を吐いて出て行く自由だってある。秩序を嫌い、国を守る王国騎士団と戦いたいのなら秩序に挑んだって構いはしない。
「完璧を求めて賢者如きがあれこれやっても人間は救えない。完璧なんて人間には無理だ。完璧じゃなくても、僕は今でそれなりになんとかやってる。それをおまえの都合で壊すなんてさせない。いや、やるならやれ、せめて抵抗はするぞ」
万人の望みが叶うわけじゃない。努力をしたって報われないこともあるだろう。そっちの方が多いだろう。それでも。そっちの方が多いんだ、それが当たり前なんだ。
だから皆今を頑張っているんだろう。
「遊び人になりきれないような娘ですら、この世の中でなんとか生きようとしてるんだ。神様が見てくれないのが嫌だから壊したい? みんなが幸せになれないから壊したい?」
誰もが幸せになれる世界を作りたい。
その願い自体は尊くて美しい物なのかもしれない。でも。
「我儘も大概にしろ!」
そんなものは自分の中にある綺麗な理想しか見えていない子供の我儘でしかないのだ。
思い通り皆を幸せにできないから壊す?
今を大事にして、今を幸せにできないやつが、なにを幸せにできると言うのだ。馬鹿だとしか言いようがない。
「あんまり賢過ぎても社会不適合者になるって本当らしいな。哲学者を自称する連中を知ってるぞ。思索の日々なんていいながら、貧民街の路地裏で毎日頭の中で考え過ぎて、心配し過ぎて、悩み過ぎて、身動き取れなくなって、諦観気取ってなにもしない連中。それならまだマシだ、おまえはその目の前の現実が見えて無いやつに、無駄に力を持たせたようなもんだ。絶望したけりゃ一人でしてろ、勝手に今の世の中にてめぇの絶望撒き散らして、今をがんばってる子に迷惑かけるな!」
「……神は」
「神は虫けらの一匹を特別扱いしない。フルルが虫けらで、僕もそう変わらないなら、神から見れば賢者だって虫けらだ。そしてその神ですら、上位の存在から言わせればただの虫けらでしかないだろ。虫けらの神になにを期待してるんだ。最初から完璧を作り出せなかった不完全な神に、今更なにを願うんだ。そもそもなんで――」
「……すこし」
「こんな世界しか作れなかった神が――ああ?」
喋りながら勢いがついてきて、僕はまだまだ続けようとしていたが、弱々しい声に言葉を遮られる。
「すこし、考えさせて……欲しいんじゃよ……」
手加減無しでこれだけ人を罵倒したのはいつ以来だろう。
僕は胸の内に溜まった嫌な気分を吐き出すように息をつく。嫌味な溜め息になってしまったかも知れないが、構うものか。まだ言い足りないくらいだ。息を吸って――
――唐突に、尋常ではない規模の轟音と震動。
響く地鳴りに洞窟の崩壊を危惧する程。
震源を見上げれば、竜人フルルが空中から長刀を真っ直ぐゼィロルに向けていた。
切っ先に純白の光が激しい音を立てて集束して行く。
遠目にも見える、無表情ながらも唇から青白い火炎が吹き出している様子は、怒りに震えているようだ。
集まる光は益々輝き、収束し、研ぎ澄まされ、呼応するように洞窟の震度は激しくなって行き、空気は震え、湖面は細かく波打つ。
「……」
ゼィロルはその様子をぼんやりと見上げている。
「フルル……」
なにか言うべきだ。名前を呼ぶが、続く言葉なんて思い浮かばない。
ゼィロルは自分の目的の為、人を魔奴贄として生み出すなんて、フルルから殺されてもおかしくない、報いを受けるべきことをやった。
賢者の力を手に入れたのだからもういいだろう、なんてとても言えない。
殺意を向けるには十分な動機だ。許し難いと思うし、僕はフルルの苦しげな叫びを知っている。
フルルがゼィロルを殺すと判断するのなら、止めることはできない。
大気の震度は激しさを増す。
「……やめるんだ」
それでも、なんとか絞り出せたのはそんな言葉だった。
ゴースト体のゼィロルを消し去ることが殺人にあたるのかどうか知らないが、とにかくやめて欲しかった。
ただ、僕の感情を訴える。
刀身自体が輝き、光は渦巻き集束して行く。
「……フルル」
ゼィロルを裁く権利は、フルルにはある。人一人の人生を狂わせ捻じ曲げた。殺されてもおかしくない、それ程のことをやらかした。
それでも、フルルが誰かを手にかけるような場面は見たくないし、この憐れな賢者に僅かばかりの慈悲をと願わずにはいられなかった。
「僕は無事だ。とにかく、こっちに戻って来てくれ」
なにか、もっと気の効いた言葉をかけられればいいのかも知れないが、上手い言葉なんて思い浮かばない。
フルルを相手に偉そうに先人冒険者を気取っても、僕だってこんな程度だ。
賢く、気の効いた言葉なんて思い浮かばない、ただの普通の人間だ。
「フルル」
このままフルルがどこか遠くへ行ってしまう。そんな気がして呼びかける。
竜人フルルはゆっくりと視線をこちらに向ける。
感情を微塵も感じさせない瞳で僕を見降ろして。
次の瞬間。
刀から光が――消える。
そのまま辺りは静寂に包まれた。
「わし、は……」
ゼィロルはしばらくぼうっとしていたが、呟き、ふらふらと自我喪失としながら空中を漂い地底湖から去って行った。
「……」
その様子を見送ってから、大きく息を吐いてフルルを見上げる。と――
「きゃぁ――!」
「……え?」
短い悲鳴が上がり、フルルが湖に落下して行くのが目に入った。続く、意外なほど小さな水音。
……。
僕は全力で湖に向かって駆け出したのだった。
一度だけもがき、後はそのまま、あっさりと沈んで行ったフルル。
僕は迷わずに飛び込んだ。
雪解け水は身を切るように冷たい、傷に響くがすぐに感覚は麻痺してしまう。
透明度の高い水中を泳ぐ。
身体は疲弊していて泳ぎ辛いし、窒息寸前で意識が飛びそうになるが潜り続ける。
諦めるという選択肢がないのだから、このままでは死ぬ。それでも進むしかない。諦められないのだから。
それなりに長い冒険者生活の中、初めて本物の死を覚悟した。
必死で腕を伸ばす。手を伸ばす。指を伸ばす。
湖底で漂う黒髪になんとか指が届く。引き寄せて脇から抱え、岸まで引き上げる。朦朧とする意識。水面の光を目指す。
次が最後の最後の一掻きになるだろう。震える身体は弱々しくも全力で水を掻く。全てが真っ白になった。
一瞬だけ意識を失いかけ――。
水面に顔が届く。目の前に聖光魔法の輝きが広がっていた。
新鮮な空気を求めて大きく息を吸い、咳き込む。咳き込みながらも岸辺へと泳いで行く。
水から上がり、抱えたフルルを岸辺に横たえる。
洞窟の岩肌に水溜まりが広がり、色を濃くして流れて行く。
「はぁ、はぁ、フルル、おい、フルル!」
整わない呼吸もそこそこに、僕は意識を失っているフルルの頬を叩く。叩き続ける。
水も飲んでいるようだ。魔素を含むダンジョンの水は身体に良くない。
すぐにでも吐き出させたい。
「はぁ……はぁー……――」
逡巡は必要だったが、覚悟を決めれば迷いはなく。
大きく息を吸い込み、フルルの小さな鼻を摘まんで唇を唇で塞ぐ。
荒い呼吸のままの勢いで人命救助だと言うにはいささか情熱的過ぎる形になってしまったが言い訳だけはしておきたい。人命救助だ。
フルルの唇が自分とあまりに違い、唇や小ささやと瑞々しい感触、繊細な歯の形、口内のぬるりとした、なまなましい味と感触を自分の舌先で鋭敏に感じ。
一口で食べてしまえそうな小さな舌に驚きと熱いものを覚えた辺りで、冷静さを取り戻せた。
聖職者としての自制心を褒めるべきだろうか。
頭の中を完全に切り替える。というか切り替わった。命が失われつつある恐怖は、頭をどこまでも冷静にさせてくれた。
「はぁっ……はぁー――」
一度口を離し、再度息を吸い込んで――吹き込む。
冷たい身体に熱を吹き込むように、献身的な人工呼吸を続ける。
なにも考えられない。ひたすら同じ動作を繰り返す。
「っ――けほっ、っけほっ、ごほっけほっ」
フルルの身体が震えて――急いで唇を放せば、咳き込みなら息を吹き返すと共に、水が吐き出される。
身体を横にして、背中をさすってさらに水を吐かせる。
最後に、大きくむせた後、起き上がれないのか、虚ろな瞳で頭を支えている僕の顔を不思議そうに見上げてきた。
「はぁ……はぁー……はは……はぁ」
その目に直視されるのも恥ずかしい程感極まっているので、天井を仰いで大きく肩で息をする。よかった……。よかったぁ。
「ほんとに、なんでさっきまで魔王と戦ってたやつが溺れて死にかけるんだよ」
呆れながら言うが、ふと気づく。髪の色が黒い。
恰好も普通の、白いバニーガール姿だ。
普通のフルルに戻っている。賢者の力もなくなっている?
「……え?」
なにもわかっていない、ぽかんとした表情。
「覚えて、ないのか……?」
フルルは虚ろな表情のまま身体を起こそうとして、失敗する。仕方ないので膝の上に頭を置いてやった。やや乱暴になったのは感極まっている勢いだ。
しばらくなにが起こったのかわからなかったようで、きょとんと僕を見上げていた。
「あ……えへへ」
濡れて顔に張り付いている黒髪を払わせてもらう。
フルルは恥ずかしそうに俯こうとしているが、力が入らないようでされるがままだ。
「湖に……落ちた、んです、よね。わたし、足……滑らせた……ん……ですか?」
記憶が混乱しているようで、この状況だけを見ればそう思うもの無理はないだろう。どう説明すればいいものか。
「……また、あなたに、助けて……もらい、ました……」
にへっと弱々しく微笑み、涙で潤む瞳を向けられる。
僕はもう一度、大きく息をついて、慎重に言葉を切り出した。
「賢者の石は、どうした?」
「……あ」
言われて思い出したようだ。
それまでずっと握っていた右手をゆっくりと開いた。
「……これ」
手の中に指で摘まめる程の小さな赤石が握られていた。
意識を失っていても手を離さなかった。もちろん、手甲の金具同士が上手く噛み合っていただけかも知れないが、その手を握り締めたのはフルルの意思だ。
髪を払う指で、思わずそのまま頭を撫でてしまった。
「えへへ……えへへ」
フルルは心地よさそうに目を細める。
このままゆっくりフルルの頭を撫でていたいが、やることはまだたくさんある。ここからまた帰るまでが一苦労だ。
果たして、この状態から無事に帰れるだろうか。難しそうだ。
このままここで他の冒険者の救助を待つか、少しでも上の階層に進むか、考えなければならない。
考えて、更にその後のことを考えなければならないし、これから先のことも考えなければならない。
色々考えなければならないのだが。
今この瞬間だけはなにも面倒なことは考えられず。
幸せそうに微笑むフルルへ、ただ無邪気に微笑みを返すことしかできないのだった。




