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賢者とバニーガールと  作者: ふぉー
1章 冒険の始まりとバニーガールと
20/25

20話 再度挑む。ヴルックス迷宮

 次の日。

早朝。朝を告げる教会の鐘が鳴る前。

馬屋の前でフルルと合流し、朝靄が立ち込める迷宮地区を軍馬は走る。白い息は後ろに流れ、すぐにダンジョンに到着する。


僕とフルルの他に誰もいない。一番乗りだ。

 ダンジョン前の広場で観測小屋に荷物を預けている際、交代して帰宅するのだろう、初老の番兵に声を掛けられた。


「僧侶の兄ちゃん。おまえさん自分が噂になっとるの、知っとるかい?」

「悪い噂ですか?」


 丁寧口調で、苦笑しながら応える。


「ま。そりゃな。なんぞ面白いパーティーを見かけたと愉快な話になっとる風だども、口さがない連中はいるもんだな」

「普通に駆け出し冒険者の手助けをしているだけなんですけど。あの格好ですからね」


 下種な感潜りには軽く肩を竦めるだけだが、番兵にまで余計な手間を掛けさせていることにはやや申し訳なく思う。

初老の番兵は僕の態度と、離れた場所で軍馬に貫頭衣を齧られ振り回されて半べそをかいているフルルを見て、すまないとばかりに首を傾げた。


「これから家に帰るところですか?」

「おう、まだまだ夜は冷え込むわ」


 笑うと顔に刻まれた皺が一層濃くなり、短いながらも深い歴史を感じさせる表情に、ふと聞いて見たくなった。


「あなたには、世界最後の日に会いたい人っています?」

「ん? そりゃ家族だな。なんだい僧侶の兄ちゃん、人生の道にでも迷ってるのかい?」


 唐突な質問に即答してくれた。苦笑交じりにだが、意外と鋭い目を向けられるのは妙な嫌疑が完全には晴れていないからか。


「いえ、迷ってはいません。行き止まりで行き詰っている少女がいるんです」


 普通になって、家族の前でしっかり胸を張っていたいと命懸けで願う少女の手助けをする。それは変わらない。


「よくわからんが……神の教え通りに生きてりゃそう悪いようにはならんよ」

「そうですねぇ」


 それが出来れば一番なのだろうが。どれだけ祈っても神が応えてくれないのを少女は知っている。


「まぁ、僧侶の兄ちゃんと遊び人の嬢ちゃんに神のご加護を」


 初老の番兵は聖教徒だったようで、茶化し気味にだが聖印を切って、手を組み祈祷を捧げてくれた。僕も同じように還す。

 神がいるなら救ってみろ。賢者ゼィロルもそんな心境なのかも知れない。


「今日は家族と過ごしたほうがいい」


 思わずつぶやいてしまった言葉は、思った以上に固い声色になってしまった。初老の番兵は怪訝な表情を浮かべながらも、深く詮索はしてこなかった。


「? ほいじゃ、久しぶりに孫たちが起きるまで待って一緒に朝飯でも食べるかな。ほんじゃな」


 初老の番兵は自分の馬を呼んで去って行く。小さくなる背中を見送っていると、後ろでフルルがこちらの様子を伺っていた。僕は振り返る。


「出発しようか。繰り返すけど、疲れたらすぐに言うんだぞ」

「は……はい」


 万全に整えて来た背嚢を担ぎ直して歩き出す。


「あ、あの、やっぱり……わたしも、荷物、持ちます……よ?」

「ああ、辛くなったら代わって貰うよ。それまで体力は温存してくれ」


 これは本当だ。ただ先日のフルルと同じくらいまでは耐えるつもりだが。

 フルルはいまいち納得いかない様子で、なにか言いたげなので、立ち止まってじっと待つ。


「あの……」

「うん」

「……持ちます」


 少し拗ねたような、でも照れているような。

真面目で仕事をしていた方が落ち着く性分なのはわかるが。


「大丈夫だから、任せてくれ」


 自分の心配をしてくれる方が助かる。とは言い難く、口には出せないので微笑むしかない。


「さぁ、行こう」

「……はい」


 フルルには、賢者の石について有力な情報をくれると言う人が10階層で待っている、二人だけで来るようにと奇妙な条件をつけられた。

 と、噛み砕いてだが、もうそのまま説明してある。


 二人だけで10階層を目指すには、足手まといにならないで貰うことが最善だ。

 それはフルルにも自覚があるのだろう、寂しそうに頷いたあとは、弱々しくだが気丈に顔を上げ、僕の後について来てくれた。




 はっきりと言っておくべきだったかもな。

 7階層の順路から外れた崖の下。フルルが落ちた。

 少し離れた細道を進み、行き止まりに腰を降ろしている。

 行き止まりで座り込んでいるのがなんとなく皮肉めいていて笑える。


 順路周辺はわりと魔物が寄って来るので避難をしたのだが、ここも安全とは言えない。

 通路が一方にしかなので魔物に囲まれることはないが、逆に言えば逃げ場がない。

 フルルを置いて逃げるという選択肢はないのだからこっちの方がいいだろう。


 疲れた微笑みが浮かんでくるのを止められない。

 洞窟内の崖から滑り落ちるフルルに、一瞬だけ手を貸すのが遅れたのは荷物の重さのせいか、妙に意識してしまったせいか。

 まぁ普通に荷物の重さのせいだろう。もしかしたら単純に、単純過ぎてあまりに予想外の出来事だったせいだろう。


「大丈夫か?」


 フルルの足首に治癒魔法をかけているのだが、捻挫や打ち身には気休め程度しか効かない。やらないよりはマシだが。

 なるべく足首の細さや素足の指の小さ さ、肌色の白さは意識しないように心掛けて。


「ひっ……ひっぅ……」


 毛布に包まり、内側はバニーイヤーだけでずぶ濡れになって泣いている。その姿は初めてダンジョンに挑んだ日のことを思い出させる。

 数日前のことなのに、もうずいぶんと昔のように――とはべつに思わないが、なかなか普通じゃ体験できない出来事の連続だった。


 今回も、なんの前触れもなくあっさり順路から滑り落ち、川に流されて行方不明になるという、冒険者としては初歩的過ぎて考えられない場面に遭遇してしまった。


 僕も慌てて崖を滑り下りたが、丁度弱々しく立ち上がったところを川の流れに足を取られ、滑って転んで流されて行く様子は滑稽だったが、まったく笑い事ではなかったし、実際笑うよりも目の前の現実について行けてなかった部分が多い。

 なにからなにまで想定外過ぎる。確かに優秀な者程、この動きは予測不可能だろう。


「きゃっ!」

「あ、聖光魔法が切れただけだ。すぐ唱えるから」


 回復魔法に集中していたせいで、聖光魔法が途切れて周囲は暗闇に包まれる。

足首に掲げた回復魔法の光だけが、フルルの細い足首を白く浮かび上がらせている。


「だ、だいじょうぶ、です。ま、魔法、節約したほうが、いい、ですよね?」

「……まぁ」


 そうなんだが。

 まだ死霊系の魔物が出る階層ではないし、明かりは無い方が普通の魔物も近寄らない。

 さすがに先日の黒牙熊のようなことは立て続けに起こらないだろうし、起こったら全滅するだけだから考えてもどうしようもないと言う自棄な感覚。

 万が一ゴーストが出てもほんのり光っているので暗い方がわかる。盗賊の技術で気を張っていれば足音は暗闇でも聞き分けられる。


「……」


 驚いた反動で落ち着いたのか、フルルは泣き止んで小さく息を吐いている。

 バニー装束が乾くのにどれくらいかかるだろう。洞窟内で日も当たらなければ、僕は乾燥魔法なんて知らない。


 絞れる物はよく絞り、バニーコートの方は振ってみたり厚手のタオルで水気を吸い取ったりもしたが、それなりにしか効果はない。

 水捌けの良い月蚕の生地はともかく、他はやはり生乾きで耐えてもらうしかないか。

 まぁフルルの足が回復するまでゆっくりしよう。治癒魔法をかけても、魔法で治癒した部分が身体と馴染むまでしばらくは安静にしていた方がいい。


「……」

「……」


 静かだ。治癒魔法の光は音もなくある。


「痛みはもう引いた?」

「はい……でも、その、こそばゆい、です」

「そこは我慢してくれ」


 僕がおどけて言うとフルルは、はい。と呟いて小さく笑う。

 治癒魔法もそろそろいいか。白い素足の艶めかしさに妙な感情を思い出さないうちに、さっさと完全な暗闇にしてしまいたい。

 光が消え、聴覚は研ぎ澄まされ。


「――泣いているのか?」


 笑い声だと思ったが、嗚咽を耐えている声に小さく鼻をすする音が混ざった。


「え、え、いえ、あの、だ、だいじょうぶ、だいじょうぶ、です」


 震える声は明らかに涙声なわけだが。それに声が妙に近い。


「明かり灯すぞ」

「え、あ。ま、まっ――」


 広範囲に光が届かないように、光量を押さえた小さな聖光魔法を発動させると、フルルは毛布の片側を広げていた。

 その下の衣服は現在乾燥中なわけで、無垢で一切の穢れもない、真っ白い裸体が半分見えていて。黒髪が身体に流れ張り付いていて。


「おま、わ――なにやってるんだっ」


 大慌てで後ろを向く。


「あ、あの、その、せ、せめて、寒く、ないですかと……思って……半分」


 フルルはぐずりながら言う。僕の心臓の鼓動が煩いくらいに高鳴っていて、そ

れどころではないし、身体は一気に熱を持つ程になっている。顔が熱い。


「いやいや、いいから、一人で使ってくれ」

「だって……わたし、なにも……」


 できない。苦しそうに吐き出された言葉に、僕は頭を抱えてしまう。


「あのなぁ……そんなことは気にしなくていいから」

「だって!」


 高い声が洞窟に響いた。一瞬で変な気も収まり冷静になる。なにごとだ、あんまり大きな声を立てないで欲しいのだが――フルルは止まらない。


「こんなに、たくさん、の、ことを……今だけじゃ、なくて……あってから、ずっと、こんなに、して貰っても……わたしが返せるもの、なにもない……です……」


 苦しげな声。

 どうしたんだ?


「気にしなくていいって。いつもやってることだ。聖職者の業務だと思ってくれよ。それに仲間だろ?」


 笑いながら言うが、激しく頭を振る音が聞こえる。


「わたしっ、返したいのっ……でも、なにも返せないっ、のっが……いちばん、つらい、ですっ!」


 吐き出すとしか言いようがない、感情の叫び。


「こ、こ、ここまで、こんな、こんなに、苦しくてっ……言っちゃったの、初めて、でっ……耐え、切れなくて……わたし……わたし……」


 フルルの苦しげな声は続く。


「ずっと、耐えて、耐えないと、なにもできないから、じっと、なにかが……変わるまで、待つしかできなかった……わたしの、背中をおしてもらって、嬉しかったのに……やっぱり迷惑をかけて……諦めろって……言われて……でもまた、一緒に、来てっもらえって、まためい、わくを、かけて……」


 嗚咽に言葉はつっかえて、呂律もぐずぐずだ。


「……」

「めいわく、ばっかりで……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 辛抱強いフルルがここまで感情を剥き出しにして、号泣しながら背中にすがりついている。

 僕の世話になりっぱなしなのが心苦しい。要約すればそいうことか。律儀で難儀なやつだな。


 なんて頭のどこかで考えていたりするのだが、やはり思考の大半は半裸の少女が背中にしがみついてい号泣しているこの状況をどうすればいいのかで混乱しきっていた。


「あ……」


 ぴたりと悲痛な泣き声が止まる。背後に視線だけを向ければ――目が合う。

 薄明かりの中、珍しく真正面から視線が合って、形の良い瞳がしっかりと見開かれていて、僕の意識は縫い止められたように動けなくなる。


「……」

「……」


 感情の吐露で上気した頬と、涙で塗れた瞳。


「……」

「……」


 あの。熱い吐息と共に、瑞々しい唇から囁かれた小さな声。


「……わたし……の、あの、あれ、を、もらって――もがっ」

「やめろ。そういうのは冗談でも嫌いだ」


 片手でフルルの小さな顔を覆って黙らせる。


「う」


 元々潤んでいた水色の瞳から、更に光の反射が増える。


「うっ……ううっ……ふぅうううぅうううう」


 光はすぐに大粒の涙となってぽろぽろとこぼれ出す。

 止めどなくこぼれ続ける大粒の涙。僕の手の上にもつたって熱い。


「いや、嫌いって、そうじゃなくてだな……」


 僕は言葉に詰まる。

 フルルの顔が真っ赤になって苦しそうなのは息が詰まっているのかと気づいて慌てて手を離すが、荒い呼吸と嗚咽を交えて咳き込み、泣き声は一層酷くなる。


「ひっ、ひう、わたし、だって……なにか、かえしたいっ……」


 もちろん感謝の気持ちが大きいのだろうが、実際には施しを受けてばかりで、普通になりたいフルルの矜持を傷つけている。

 惨めな思いをさせている分もあるだろう。

 今は完全に僕が苦しめている。頭を抱えるしかない。

 どうしたものか。


「大丈夫、大丈夫だから……とにかく、10階層まで行こう。それまでは自分の身を守る事だけに全力でいてくれ。お礼をしたいというなら、それはまた後で話そう」


 こんなときは得意のふわっと問題の先送りだ。

 一先ず先送りにして、真面目に冷静にきちんと考えさせて欲しい。絶対に無下にはしたくないから。


「な?」


 精一杯の優しさを声に乗せて、自然に問えた自分の自制心に賞賛を贈りたい。


「そうだ、無事賢者の石を手に入れられたら、そのときなにか頼みごとをするよ。賢者の力でお返ししてくれればいい」


 微笑みのまま、冗談めかして言うが。


「――はいっ」


 フルルは涙を拭い、真剣な顔を上げてくれた。


「ぜったい、お返しします!」




 迷宮の行き止まりは静かだ。


「さっきさ、迷惑かけてばかりでどうこう言ってたけどさ」


 先程の場を治めるための折衷案として、背中合わせになり一つの毛布に包まって暖を取っている。

 次回からはもっと大きな毛布か二枚は用意しようと固く決心する。


(……次回からは、か)


 下手をすれば世界が滅ぶことに、まったく現実感を持っていない。

 それよりも今考えるべきことは、フルルは小柄なので難なく覆えたのだが、密着度が酷いこの状況ではないだろうか。

 この方が暖かいだろうとは純粋に思うが、背中に服越しにとはいえ少女の素肌の感触はやわらかく。

 姿が見えない分、あの暴力的な幻視を思い返してしまいそうで不安になる。

 不安なので話をすることにした。薄明かりの下で囁くように喋る。


「……はい」

「うん。いいよ、許す」

「……」

「どうした?」


 意表をつかれた気配というのは背中に伝わる物なのだなと新鮮な驚きを覚えた。


「い、いえ」

「謝らなくてもいいのよ、とか、そこはありがとうだぜ、なんて言うと思ったか?」


 やや間が空いて。


「……は、はい」


 ラティス辺りはいかにも言いそうだ。

 実の所フルルの感情はよくわかる。さっきのはよくわかる。


「気にしなくていいなんて言われるよりも、気分は軽くならないか?」

「え、えと……はい……でも……」


 僕もずっと父さんに感じていた。大きすぎる感謝と、返しきれない恩が申し訳なくて、ずっと胸が苦しかった。それに対してお礼を言っても謝罪をしても、暖かく笑ってくれていたことがまた心苦しくて。


「軽くなっていいのかって?」


 その重みは心地が良く手放したくないものだったり、手放すことに罪悪感を覚えたりするものなのだが、やはり重い物は重いのだ。常に背負うものではない。 節目節目で思い出して重みを確かめるくらいで丁度いい。


「こっちが許してるんだから、軽くなるべきだろう」


 フルルは首を傾げているようだ。きっと複雑そうな顔をしていることだろう。


「許されて……いいんで……しょうか」

「知らない。まぁ、人に寄るだろう。僕は故意でもないことで謝ってるなら、大抵のことは許すよ」

「……」

「……」

「でも、わたし、は、ずっと……こう、ですよ……。いつか、わたしに、我慢できなく……なりません……か?」


 なんとなく如何わしい意味に聞こえる。

 直ぐ背中に半裸の少女が居て、我慢できなくならないか、なんて聞かれれば、無理矢理思い出さないように我慢している凶悪な幻視を意識してしまいそうになり――いや、このまま失敗を繰り返すことに嫌気が差さないかと聞いているのだろう。

 わかっている。他意が無いから余計に質が悪い。疲れる。

 背中に感じるフルルの軽い体重。


「それはそのとき考えればいいんじゃないかね。そうなるかも知れないし、そうはならないかも知れない。暗い展望が前提なのは慎重でいいと思うけど、暗い展開に安堵するなら、それは絶望しているようなものだ。どうせ足掻くなら良い方に向かわないと」

「……わたし、叱られて、います?」

「いいや、聖職者っぽいお説教だよ」


 自分で言いながら、なぜか自分の耳に痛かった。

 そう上手く行かないのはわかっている。

 僕だって明るい展望だけを目指して能天気に進めるなら、こんな状況で必死に理性を総動員してのんきに会話を続けていないだろう。

 目指すべき場所に万全の準備を備えて挑んでも不測の事態は起こり得る。

 慎重なくらいで丁度いい。いいのだ。たぶん。


「焦ることはない。ゆっくりでも進んでるんだ。そうだろう?」


 そして決めるときは躊躇せず迅速に、絶対失敗しないこと。これは盗賊の教えだったか。

 対人関係も似たような物かも知れない。なんて投げやりに気取って見る。


「……えへへ」


 フルルは笑う。


「どうした?」

「えへ……へ……」

「……」


 背中に全ての体重を預けられる感触。人一人分の体重とは思えないくらい軽い。


「すぅ……」


 眠っている。え? 本当に?

 ダンジョンの7階層、順路を外れた行き止まりで、素っ裸で男と一緒に一つの毛布に包まっているこの状況で、眠る?


「……」


 誘っているのか、もしくは男として激しく馬鹿にされているのだろうか。

 真剣にそんなことまで考慮してしまうが、そうではないのだ。


(体力がないからすぐ力尽きて寝るし、俊敏性も低いからなにもない所で滑ってこける)


 首だけで後ろを振り向いてフルルの様子を確認する。

 寝顔は安堵の表情で、艶やかな唇は軽く開いていて、細いまつ毛が長くて、頬の輪郭はなだらかで。


(まぁ安心して眠ったんなら、昨日みたいな限界超えて歩き続けるよりいいか)


 子供のような寝顔だ。


(鎖骨も細いな……)


 毛布の隙間からうっすらと見える、青白い鎖骨。


 ほっとした次の瞬間――衝動的に――この寝顔が――この寝顔に――この寝顔を――この寝顔で――凶暴な幻視を完全に思い出してしまい――その辺に頭を打ちつけて急いで死にたい感情が爆発しそうになるが、背中の軽い感触に身動きは取れず、離れられない。動けない。進めないし、逃げられない。


(……進めない?)


 進めないことはないだろう。僕が進まないだけだ。逃げる必要などない。悪いのはこんな所で眠っているフルルだ。弱くて無防備なのは悪いことだ。

弱者は強者に、綺麗事で武装した偽善者に、頭から足の先まで食い殺されるか、死ぬまで飼い殺されるものだ。月蚕のように飼い殺されて食い尽されるだけだ。


 僕がここで我慢しても、こんなことが続けばいつか必ず他の誰かに食われてしまう。もっと酷い奴に捕まってしまうこともあるだろう。その方がありえるだろう。それならいっそ、今ここで社会勉強としてしっかり教え込んでやるのが彼女のためなのではないか。それについ先程、礼をくれると言っていた。他の誰かに食われる前に僕が――


 ダガーを抜いてだらりと力無く握る。

 次こんなこと考えたら死のう。すっと覚悟を決める。


(……)


 背中で感じる小さな寝息と暖かな体温。

 これを耐えろと。耐えろというのか、神よ。これが神の試練なら悪質どころではなく邪悪過ぎる。極悪といって過言ではない。こんなもの、どうすればいい。


(いや、起きるまで待てばいいだけだろ。寝かせておけ)


 冷静になれ。刃を握ると頭と身体は幾分冷めてくれた。

 大丈夫、冷静だ。しばらく魔物が来ないことを祈るのみ。

 薄暗い行き止まりで、身動きが取れずに状況の変化をじっと待つだけの静かな時間。


(……無力だ)


 ふと思う。フルルは日々こんなことに耐える連続なのだろうか。

 目の前にごちそうがあっても手に入れられず、進むこともできず、逃げることもでない状況。

 なにに対しても、常にそうだろう。そしてそれがずっと続いていて、これからも続く。

 ただじっと状況の変化を待つだけの無力な日々。その展望に明るい物なんて微塵もなかったことだろう。


 それでも耐え続ける、残酷な弱者の日々。

 希望がなくても耐え続けなければいけない。 

 救いも慈悲もない。


(……)


 賢者ゼィロルが神に一言いいたい気持ちも、理解できるかも知れない。



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