15話 挑む。ヴルックス迷宮5
大地底湖の拠点へと戻る途中。
救難信号を伝えるための笛の音が聴こえた。
その直後、悲鳴染みた助けを求める声。
真っ先に駆け出したのは神殿騎士のラティスだ。僕とミーティも続く。
マアシャンテに視線でフルルに合わせて来てくれと訴えかければ、無愛想なままこくりと頷いてくれた。
(ほんと凄いな)
マアシャンテの読心術に賞賛しか浮かばない。
悲鳴の聴こえた方向へ向かうと、結局大地底湖へと辿り着いた。
散らばる冒険用の装備品に採取品。おびただしい量の血痕。
池の縁で蹲っている魔導士風の若い女と、戦士風の中年男性、親子だろうか――男性の腕には大きな裂傷。大量の血が流れている。
「大丈夫か!」
ラティスは駆け込んだ勢いのまま男の傍へとしゃがみ込み、治癒魔法の呪文を唱えて魔法を発動させようとしている。
「ラティス! キミは向こうだ!」
僕の声でラティスは顔を上げる。視線の先にいるのは。
黒牙熊。
その名の通り黒い体毛に黒い牙、そして真っ赤な瞳。
人間の倍はある、巨大な体躯。短く、太い前後の脚。
頭部は小さく、太い角が三本、額から生えている。
黒牙熊は口から血を垂らし、負傷した戦士へとゆっくり近づいて行く。
間に駆け込み、裁きの剣を抜いて黒牙熊と対峙するラティス。
入れ替わるようにして、僕が男の腕に治癒魔法をかける。
魔導士風の若い女は突然の展開についてこれないようで、涙を止めようとしているが身体の震えが止まる気配はない。正真正銘、駆け出しの冒険者か。
魔導士としてラティスを援護しろと言いたいが、無理そうだ。
ミーティはラティスと距離を置き、黒牙熊を囲むように斧を構えている。
「気をつけろよ」
ミーティに声をかける。
「……うん」
ミーティは真剣な面持ちで小さく頷く。
ダンジョン探索に絶対はない。
(と言ってもな……)
黒牙熊は本来なら15階層以上から目にするような魔物だ。10階層での目撃例なんてたぶんこれが初めてだろう。
その恐ろしさは単純に、その巨躯と動物的な俊敏性、そして凶暴性にある。
賢さ以外は人間の10倍のステータスを誇る。ダンジョンでの死因の一番に上げられるのがこの黒牙熊だ。
(酒場で報告しないとな)
生きて帰れればの話だが。冷や汗が額に浮かぶ。
こういう事は稀に良くある。
こんなとき、冒険者は慌てず柔軟に動けるよう実地で学ぶのだ。
(だから……大丈夫)
黒牙熊の突進。
黒牙熊は一気にラティスとの距離を一気に詰める。勢いのまま黒牙熊は飛び上がり、振り下ろされる両の前足。大剣の腹で受け止めるラティス。
横から、ミーティは黒牙熊の背中へ叩きつけるように斧を振り下ろす。が、硬い体毛に弾かれてしまい切れ味は発揮しない。
それでもミーティの方へと注意がそれて、ラティスは前脚から逃れて腹に大剣を突き刺す――寸前のところで躱される。
単純な脅威故に、前衛で足止めをして後衛の魔導士か弓の使えるジョブで仕留める、基本的な連携が必要となるのだが、今この場では決め手に欠ける。
(普通の戦士なら3人か4人がかりで押し止めるような物なんだけど)
ラティスが正面から一人で抑え、ミーティが撹乱の為に動く形でなんとか持ち応えている現状だけでも凄いことなのだが。
マアシャンテはまだか。
僕達が通って来た通路へと目を向ければ、丁度マアシャンテとフルルが大地底湖へと到着して――フルルとマアシャンテ、姉妹は似たような驚き顔で、目を見開いていた。
(よし、これで勝て――なにに驚いている?)
マアシャンテまで驚いている。
ラティスが何か叫んだが、言葉として理解出来なかったのは黒牙熊の怒号にかき消されたからではなく、自分の心臓が嫌な予感で大きく鳴ったせいだ。
こんな予感はわりと当たる。
壁際まで転がって行くミーティ。
僕は中年男性の腕を確認する。傷は粗方塞がった。まだ血は滲むようだがこれで命は助かるだろう。
魔導士風の女はまだ震えているが、男性を押し付けてミーティの元へと駆け出す。
すぐ背後で剣と爪がぶつかり合う音。ラティスが黒牙熊を止めてくれたのだろう。
そう信じて振り返りもせずミーティの傍らへ滑り込み――マアシャンテの方が早かった。
マアシャンテは倒れ込むようにしてミーティの元へと駆け込んで、治癒魔法をかけ始める。
「クッ……」
意識はあるのか、治癒魔法の光を受けてミーティは小さく苦悶の声をあげる。
流れ広がって行く血液。脇腹を大きく切り裂かれ、いや抉られている。
「ここはよい。10分、いや、7分持たせるのじゃ」
二人で同じ魔法をかけても効力の強い方にかき消され、効果が乱されるだけだ。治癒魔法の場合邪魔にしかならない。
「おぬしの腕で間に合う傷ではない。おぬしはラティスの加勢へ――」
「……いや、それは無理だ」
僕は本気口調のマアシャンテを遮って、絶望が混じった声色で呟く。
襲われていた冒険者の仲間だったのだろう、傭兵風の男女二人組のゾンビが肉厚の鉈と長剣を手にして、死んだ目でこちらに向かって来ている。
黒牙熊一体ならラティスが崩れなければなんとかなった。
僕は立ち上がり、フルルへ向き合って静かに意識を集中させる。魔石が鳴り輝く。
「――身体強化魔法――」
今日の為に新しく覚えた来た魔法だ。
絶対なにかの役に立つと思っていたが、ここまでの状況は想定外だった。
歩き疲れて完全に音を上げたところで使えば、訓練をしていなくても、単純作業の補助くらいにはなると見込んでいた。
胸元に光が染み込み、フルルは自分の身体に違和感を覚えているようだ。
「体が……軽い?」
「体力と筋力を一時的に上げる魔法だ。最大威力でかけたから、30分は持つと思う。効果中にできるだけ急いで上層まで行って他の冒険者と合流しろ。そして一度ダンジョンから出て、黒牙熊への対策を組んだ応援を呼んで欲しい」
マアシャンテが治療で動けない以上、護衛は必要だ。
傭兵ゾンビを僕が倒しきるまでラティス一人で持ち堪えられるかどうかの賭けになる。
この場にいても全滅の危険がある。
フルルが一人で上層まで無事に行けるかどうかは、この際考えない。
このまま皆仲良く全滅を待つよりは、冒険者としてうあるべきことがある。
「そ、それ、は……皆さんは?」
「僕達が全滅する危険を考慮しての指示だ」
事実だけを淡々と言う。
「だ、だめ、ち、違います、それは、違います!」
「誰かが生き延びないと駄目だ。次来るパーティーが犠牲になる。指示に従え、逃げろ」
淡々と言って、採取用の鞄を奪ってひっくり返す。散らばる採取品。碧色の魔石だけを拾いあげて握らせる。
「身軽になって逃げろ」
「ちが、い、ますっ!」
「なにも違わない。ダンジョンはそういう場だ」
黒牙熊に傭兵ゾンビが二体。
こちらの動ける戦力は神殿騎士。盗賊の技能を持つ僧侶の僕だけ。
治癒中の宮廷魔導士と大きく負傷した斧戦士。
半端な治癒で放り出された戦士の中年男性に恐慌状態の若い女魔導士は戦力には数えられない。
「これなら、わたし、でも……少しは、だから、皆さんが、逃げる、べきです!」
考慮にすら入れていなかった遊び人がなにか言っている。
(……なにを言ってるんだ?)
手を閉じたり開いたりと具合を確かめてから、ひの木棒を装備した段階で言っている言葉を考慮出来た。
考慮したことで混乱しそうになる。
(――それが、一番犠牲が少なくなる――のか?)
無理だ。そんな選択は選べない。
誰かが囮になると言うのなら、いっそ僕が――いやそれでは意味がない。逃げるなら身体強化魔法を使って、僕とラティスで負傷者を運ばなければ――つまり、囮になるなら自分だと言っているのか――無理だ、そんなの駄目だろ――いや、いっそそこの親子を見捨てれば――私が、一番無価値だから――混乱中になにか言われて頭に一気に血が登り――冷静な部分がそれが正しいと理解していて――それにまた激しい怒りと混乱を覚えて――
「犠牲者が出るとすれば、フルーレルではない」
僕の混乱を覚ますように――マアシャンテの凍えるように冷たい声が差し込まれる。
冷たいと感じたのは錯覚だったかも知れない。
立ち上がった瞳に熱い物を宿している。激しい怒りの感情が瞳に映っている。
マアシャンテはなにに怒っているのだろう。
この世界の摂理とかそんなものにかな。
「――魔人武装――」
マアシャンテは唱え、肩から伸びた魔人の腕で地面を殴りつけ、文字通り前線へと飛んで行ってしまった。
空中でそのまま腕を引き絞り、殴りつける動作。魔人の腕は一体の傭兵ゾンビを地面に叩きつけて、死体は跳ねる。
残された、ぐったりと横たわるミーティの身体。
「え?」
フルルの声が漏れる。理解できていないのか。なにも言いたくない。理解してくれ。
全ては一瞬の判断だった。まだ2分にも満たないだろう。
僕が男性の治療を粗方で切り上げてミーティの元へと向かったのと同じ、優先順位の問題だ。怒る必要も嘆く必要も無い。マアシャンテの中で正しい判断をしたんだ。
そこに怒りも悲しみもない。あるのはただの事実と現実だ。
僕はミーティの傍らへと、血だまりに膝をついて、頭を優しく差さえながら――せめて傷を隠そうとの気遣いなのだろうか――真っ赤に染まる手拭いに覆われた腹部へと、無駄だと思いつつも治癒魔法をかけようとして、そっと手で遮られる。
「ルシェくん……」
ミーティの虚ろな瞳。顔色が真っ白だ。
「ああ」
「ドジっちゃった」
溜め息のような声。
「……ああ」
頷いて続く言葉を待つ。
遠くで魔物の咆哮が聴こえる。
見れば、マアシャンテの魔人武装は威力こそあるが予備動作が大きいため、魔人の腕を警戒している黒牙熊には距離を置かれ、傭兵ゾンビも腕の立つ傭兵だったようで、射線上に入らないよう死角へと周り込もうとしている。
叩きつけたもう一体も、身体中はボロボロだがまだ動いている。マアシャンテの戦いが雑に見えるのは――怒っているからだろうか。
それでも終始優勢だ。神殿騎士と宮廷魔導士が組んでいるのだ、なんの問題もないだろう。
「ね、お願いがあるんだけど……聞いてくれる?」
「ああ」
ミーティの弱々しい声が聴こえた。僕は頷く。
「……」
「……」
視線が交差し、ミーティは残念そうな表情で笑った。
「私と……」
苦痛に顔を歪めて、言いかけた言葉を区切った。
「孤児院のさ、私が育ててる花壇にお水あげるの、お願いしていいかな?」
なにをそんなに苦痛に感じたのか。
「それだけか?」
優しく問う。ミーティへ、優しく問う。
「うん。それだけ」
「それだけか」
僕は口だけを動かして繰り返す。
「……うん、それだけ」
残念そうに、力無く微笑む。
「……ね、加勢に行ってあげて……私はもういいから」
「……」
ミーティの微笑みに、僕は頷く。
修道士の優しさと、戦士の誇りを兼ね備えたミーティの言葉に胸を打たれて立ち上がる。
「フルル、ミーティについていてあげてくれ」
「は……はい……」
フルルは人を看取ったことはあるだろうか。
冒険者を続ければ、いつか命の危険を実地で学ぶことになるだろうと考えていたが、こんな現実を目の当たりにするとは考えていなかった。
震えながらミーティの傍らに座り込むフルル。
僕もこのまま打ちひしがれていたい。
(それでも)
冒険者としてここに居る限り、動かなければならない。
僕はフルルと入れ替わり、背を向けて歩みを進めて行く。
後ろを振り返ることなく戦いの場へと進んで行った。




