16、可愛い女の子に責められると弱いんだ
強い怒気を孕む声。
それが思いがけない人物から発せられた瞬間、ぎょっとしたグレイは声の主の表情を確かめずにはいられなかった。
「グレイ様、これを南門の外の木に結ぶように言われましたね?」
抑揚のない声にあるのは先ほどまでの彼女からは到底考えられないような、怒りという激情。
カリナのその言葉は答えを必要としていない事が明白で、グレイは気圧されるように小さく唸るように同意するしかなかった。
「もし、帰れない状況になれば結んでおくとおっしゃられていたんです」
シーアは、カリナと、手伝わせた侍女二人にだけそれを告げた。
それは━━
シーアが途端に苦虫を噛み潰したような顔になり、やがて罰が悪そうに視線をそらせた。
万が一なんらかの事情で失敗し、例えば命を落とした時、戻らないシーアを思ってカリナ達がいつまでも心を痛める事がないように。
巻き込んだカリナ達が、その責任に苦しまないように。
生きていると思わせる、そのためだけに用意された一計。
事態を察したレオンの瞳がすっと細くなり、冷気の漂う瞳でシーアを見据えた。
何か言いたげな、無言の圧力をひしひしと感じたが、シーアはそれに気付かないふりを押し通す事にする。
あの時、それをシーアは『切り札だ』とグレイに言った。
それを素直に信じた彼は全てが丸く収まる、最終手段の秘策だと考えていた。
それなのに人を謀り、挙句の果てに彼女達をだます片棒を担がせようとしていたのか。
グレイの目元が怒りのあまり派手に痙攣した。
彼の怒りは頂点に達し━━それをなんとかやり過ごすと低い、底冷えするような声で唸る。
「てめぇなんざ、二度とおかしなマネが出来ないよう王妃業に明け暮れたらいいんだ」
「でしたらお世継ぎ作りに専念されたらいいかと思います。次々ご懐妊されれば危ない真似も出来ないでしょうから」
吐き捨てたグレイに、怒りを抑えきれないカリナが頷いて続ける。
シーアはカリナからの思いがけない返礼に、呆けた。
それからひどく戸惑ったような、困惑したような表情を浮かべる。
「そんなに若くないんだが」
「山では年齢が行ってからも出産する者は少なくありません。それこそ毎年のように出産する者もいます」
弱々しく、滑舌悪くシーアが反論すれば、カリナはばっさりと切り捨てるように告げる。
怒りのあまり、普段人一倍重んじてきた礼節などは吹き飛んでいた。
「カリナ嬢」
これまで沈黙を守ってきたレオンが口を開き、カリナ本人と、シーアまでもがその声にびくりと反応する。
「お礼を申し上げる。妻に『逃げる』という選択肢がある事を提示していただいた事、ありがたく思う」
逃げてもいいと、そう言うべきだった。
彼女は生来、面倒くさがりだ。
こんな面倒を今後抱えるのが嫌ならば、その選択もある事を告げるべきだった。
しかし彼女を失う事を恐れ、言えないでいる間に彼女は独断で動きだしてしまったのだ。
彼はそれを悔いていた。
カリナは目を見張って国王を見上げる。
「逃げるという道もある中で、私の元に戻ってきた事を嬉しく思います」
そこにはカリナが見惚れるほど、美貌の国王の晴れ晴れとした笑顔があった。
あのまま逃げおおせるという選択もあった中、彼女が自分の元へと戻る事を選んだ事実に歓喜にうち震えると同時に、そんな彼女をとても愛おしく思った。
国王レオニーク・バルトンの母親は毒を盛られて田舎で静養している。
妻も事故に遭い、記憶障害を起こした。
海の国王家の国母となる女は呪われている。
いずれそう言われるかもしれない。
それは子孫に悪いかな、とはシーアも前々から憂慮していた。
一人や二人でいいかと思ってたが、子沢山の幸せな王家ってのをアピールする必要があるのか━━
レオンの笑顔に薄ら寒いものを感じながら、シーアは少し途方に暮れたのだった。
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「処分が決まったよ」
大説教大会から5日ほど経って、オズワルドは落ち着いた声でグレイに言った。
グレイも強い意志を保った瞳で上司を見る。
シーアの算段に乗った時から、処分は覚悟の上だ。
ただ、それを告げなければならない上司に、申し訳ないと思った。
「私が保持している護衛隊における全権を、君に移管する」
それは、世間一般では褒章であり、名誉である。
事実それは出世であったが、それは裏方という立場をこよなく愛するグレイにとっては確かに「処罰」でしかなかった。
一瞬で顔色を失い、心もちのけぞったほどである。
咄嗟に「嫌だ」と拒否しそうになるのをぐっと堪えた。
「もちろん君だけに責任は負わせない。私も責を負うから許してほしい。半年くらいしたら、正式に宰相の任に就く」
グレイは大きく目を見張った。
「だから━━その前にカリナと祝言を上げるように」
そう、オズワルド・クロフォードははっきりと告げた。
「は━━?」
グレイは頭の回転が早い。しかしそんな彼が話の展開について行けず、彼にしては本当に珍しく間抜けな声を上げた。
何を言われているのか、まったく把握出来なかった。
いや、だからそれは━━その話はこの間終わったはずだ。
「いや、もうその必要はないでしょうが」
昇進で充分だ。
彼女を利用する必要などないではないか。
婚姻がそんな風に利用される事はグレイも知っている。
しかし彼等はそんな事はしないだろうと思っていた。
王族や貴族でありながら、彼らのその感覚は市井のものも持ち合わせており、市井の人間の事を考えられる人物であると認めたからこそグレイは彼の下に就き、この職に従事している。
山の元犯罪者という経歴に蔑みの目を向けられる事も少なくなかったが、理解し、対等に扱ってくれた上司だからこそここまでやってきたというのに。
自分の勝手な期待と信頼だったのか。
根底から揺さぶられた気がした。
「お嬢さんは関係ないでしょうに」
そんなむごい事をお前らよく言えたもんだな。
彼の瞳に浮かんだ微かな苛立ちを見て、それまで黙って様子を眺めていたシーアの表情が引き締まる。
「いい加減、気付いてないふりはやめたらどうだ」
一言、鋭く放った。
カリナはずっとお前しか見てなかっただろうが。
彼女は、いつも彼の姿を見ると安心したように少しだけ表情を緩めるのだ。
貴族の養女として張り詰めた表情から、一人の少女たるその面持ちへと。
グレイはそこまで鈍くはない。
シーアの言う通り薄々、気付いてはいた。
しかしそれは、同じ北方の出身だからで、とグレイは思う。
上司のオズワルドから「北方の友達から預かっているんだ」と紹介を受けたのはカリナがまだ10を少し過ぎた頃だった。
その頃の彼女はまだ徒弟見習いという肩書だった。
カリナは同じ北方の山岳地帯でも、まだ草原に近い地域の出身ではあったが同郷も同然で、面倒見の良いグレイにすぐにカリナも心を許した。
カリナには年の離れた兄がおり、兄のように思われていると思っていたし、グレイにしてみても山の年少のチビ達の面倒を見る延長の感覚だった。
カリナの実家も、養女になった経緯も全て知っているグレイだからこそ、「上司の大切な家族」として扱っていた。
「年齢とか肩書はもう口実にならないぞ」
反論しようとすればシーアに先手を打たれる。
カリナの養父はオズワルド・クロフォードたる人物で、夜会では貴族達を見ている。
見習いとして入った国庫管理室には、カリナにちょうど釣り合う年頃の青年達も多く在籍している。
目の肥えたカリナが、それでもお前がいいって言うんだからしょうがないじゃないか、とシーアは思うのだ。
普段シーアの起こす問題に関しレオンは基本放置の構えであり、オズワルドはグレイに任せる事が多かった。
そのためグレイの問題は自然とシーアにその役が回る。
「うちの妹夫婦なんざ10違いで、ギルなんてサシャが赤ん坊の時から知ってるんだぞ。父なんか20以上違うし」
お前の所は特殊だ。
引き合いに出すんじゃねぇ。
睨み付け━━長く逡巡し、最後に観念したように大きなため息をついた。
「口説く時間も無いのか」
グレイの独白のようなそれに、シーアの顔がそれは嬉しそうに綻ぶ。
グレイは生来「女は口説き落としたい」と考える性質である。
それを知るレオンもまた可笑しそうに優しく笑んだ。
「今から口説けばいいじゃないか。昇進もしたし、婚約もするんだ。堂々と口説ける身分になっただろ。急げよ。お前が口説き落とせないうちはオズワルドも宰相を引き受けてくれないだろうからな」
シーアは晴れ晴れとした表情で言い放つ。
宰相の娘として嫁ぐのと、その前に嫁ぐのとでは、その意味合いは違ってくる。
そしてグレイがクロフォード家に入るのではなく、カリナがグレイに嫁ぐ形となった。
彼女は、金位というこの国で最も位の高い貴族から外れる事になる。
それは養父であるオズワルドの望みでもあった。
本来カリナは一般的な、幸せな家庭を築くはずだった。
そして彼女がそれに憧れながらも、自分の立場を正確にわきまえ養父母には見せないのも知っている。
だからこそそんな彼女に、息子を失った衝撃に無理を強いてしまったとという自覚と悔恨を抱えてきた。
カリナには、好いた男と幸せになってほしい。
そう心から望んでいた。
クロフォード家には後継者がいなくなる事になるが、それもまたオズワルドの希望だった。
宰相を務めあげた後、彼は金位を返上する気でいる事を国王にすでに宣言している。
執政のために肩書が必要である事は重々理解している。
しかし、そのせいで家族に不幸が降りかかった事も事実である。
そんな肩書は疎ましく、恨みさえ覚えた。
老後は夫婦二人、息子を悼みながら静かに暮らしたいと願った故の決断であり、国王はこれまでの献身に感謝し、来たるべきその日にはオズワルドの希望に最大限応じる事を約束したのだった。
この話をレオンにした時、オズワルドには一つだけ不安な点があった。
カリナはともかく、グレイの方にその気持ちはあるのか。
オズワルドはそれだけが気がかりだったが、自身が15の頃にグレイと知り合ったレオンは楽しそうに笑った。
「すぐに自覚するようになるだろうから心配ない」
そう保証した。
自分も似たようなものだったのだから。
この国の中枢たる二人の男は良識人である。
彼らは幾ばくかの時間をグレイに与えるつもりだった。
残り2話となりました!
ここまでワンマンにやりたい放題なシーアは、船に残っていても跡目は継がせてもらえなかっただろうな、と思う今日この頃です。
お気づきかと思いますが、私はグレイが一番好きです!!
それなのにここに来て堅物っぷりに手を焼かされまくりです。
とんだ裏切りだよ、兄さん(泣)




