8、あの女は性根が腐り切っている(byグレイ)
厚い雲が空を覆い尽くしたその日は夜が明けても暗く、すっきりとしない朝から始まった。
沖に多くの白波を立てながらそのまま陸に届く春特有の強風はシーアのまとめ上げた黒髪を乱し、嵐の到来を予兆させた。
国境と言っても僻地である。関門も壁もない。
右手方向に切り立った岩の小さな岬があり、それが国境を知るおおよその指標だった。
その岬までが海の国の領土である。
北方の山岳地帯の東端であるそこは海抜は高く、断続的に大きな波が岩の壁に当たって砕ける音が耳に届いた。
岬の元に、北の台地の迎えの一団がすでに並んでいた。
1台の豪奢な馬車と20人足らずの兵士。その向こうに馬が見えた。相手は少ないだろうというシーアの読みは的中した事になる。
国境から十分な距離を取って馬車を止め、御者台を降りたグレイは馬車の扉を開く。
「嵐になるな」
グレイから差し出された手に己の手を乗せ、下車しながら沖を見やったシーアは独白のようにそう断言する。
空や風の様子からそれは一目瞭然で、それはグレイも同感だったが、なぜ彼女があのなんとも小生意気で勝ち誇ったような笑みを浮かべているのか、それは理解できなかった。
そんな彼女は呆れたように小さくこぼす
「まったく。あいつはどこまでツイてんだか」
海の国の王が天候に関してそんな強運を持ってるとか、無敵じゃないか。
「行けるな?」
訝し気な視線を寄越すグレイにシーアは確認する。すっと表情を引き締めたグレイは頷いた。
「好都合だ」
はっきりと断言する男に、シーアは顔にこそ出さなかったが安堵し頼もしく思う。そして続けて指示した。
「よし。ご苦労だった。すぐにここを離れろ」
北の台地の一団との間に立つグレイにそう告げて海の国の正装である濃紺の詰襟のドレスを身に纏った「海の国の黒真珠」は歩き始める。
恐れも緊張も見られない、凛とした眼差しで真っ直ぐに相手を見詰める姿にグレイは自然と体が動いた。
右の上腕を胸に当て、上体を倒す海の国の最敬礼。
敬った事など一度もない相手である。
それでも、グレイはそれをした。
海の国の国民として、国王レオニーク・バルトンの友であり、部下として。
感謝なのか、謝罪なのか、それは本人でさえ把握出来ない複雑に絡んだ心境であったが、彼にとってはそうするのが一番自然な事だった。
そんな彼にシーアはポツリとこぼす。
「すまない」
これからレオンとこの男の間に大きな亀裂が入り、禍根が残る可能性を考えるとシーアはそう言わずにはいられなかった。
お互い表情を確かめる事はないまま、シーアは国境を越える。
それを言われた瞬間、グレイは激しい怒りに襲われた。
何に対しての怒りか得体の知れない、それ。
否、大部分は自分への怒りである。
怒りは不快感となって彼を苛み、それに耐えきれず思わず顔を上げた先━━彼はその状況に目を見張った。
馬車に案内しようとする兵士達を振り切って駆け出したシーアは手を伸ばした男の腕を払い、相手の動きに合わせて体重の中心を強制的にずらす事で簡単に岩場に引き倒す。
それからドレス姿だというのに俊敏に短い岬の先端まで駆け抜けると、そこで踵を返した。
黒曜石の瞳が牽制するように、北の台地の一団を睨む。
兵が一歩前に進めば、シーアは岬の先へと半歩下がる。
彼女が一言も発せずとも、兵士達は理解した。
むやみに動けば、最悪の結末を迎える。
沖からの強い風が、シーアの黒髪を弄ぶように乱れさせた。
細身のスカートとはいえ背後からの海風は相当な圧力となるはずであったが、平然とした様子で立つ彼女は微動だにしない。
濁った雲が多いつくす空と、大きな白波が幾重にも押し寄せる碧緑の海を背景に真っ直ぐに背筋を伸ばして立つその姿に、北の台地の兵は息を飲む。
濃紺のドレスを纏うその姿は色味のない光景に溶け込んでもおかしくないというのに、その存在はあまりにも異彩を放っていた。
海の世界では有名な海姫がいかなるものか、海への門を持たない北の台地は知らない。
「海賊の娘」程度の認識しか持っていないうえ、海の国王妃はたおやかな月光のような美しさを持ち「海の国の黒真珠」とも謳われると、そう聞いていたのに。
そこには鮮やかなまでに猛々しく、絶対的な存在感で君臨する女。
射るように強い、殺気さえ孕むまなざしに圧倒された。
ああ、こいつは海の上ではいつもこんな風に立っていたんだろう。
それをレオンは隣で見てきたのか。
グレイは緊迫する空気に戦慄し、動けなくなった中そんな事を思った。
そして初めて彼女を綺麗だと思った。
普段「海の国の黒真珠」を目にしているグレイがこの有様なのだ。その姿を初めて目にした北の台地の兵が動けるはずがない。
グレイの足が止まっている事に気付き、彼女は小さく顎で指し示す。
早く行け、と言うように。
それが契機となり北の台地の兵士は己に課せられた命令を思い出したのと、グレイのはるか背後の茂みから高く鋭い鳥の鳴き声が響いたのは同時であった。
北の台地の兵士達は国境を超え、ジェイドの発した山鳥の口笛に触発されたグレイもまた剣を抜く。
『わたしは後回しにされるだろうが、お前らはかなりやばいぞ。皆殺しの口封じを狙ってくるだろうから。死体も血の跡も残さないつもりだろうよ』
ここに来る前シーアはそう笑いながら言っていた。
グレイは剣を構え、ジェイドが矢を放つ。
弓の名手であるグレイと、剣の腕が立つジェイド。
本来この役割は得手不得手を考慮すると逆である。
しかし、王妃の護衛を務めるのであれば護衛隊の長であるグレイが付き添うしかなかった。
一気に緊迫した状況の中、思わずシーアの方へ足が向かいかける。
剣を払いつつ視線をそちらに向ければ━━遠いそこには薄い微笑があった。
唇にさした紅がやたら鮮やかに見えた。
そして、「海の国の黒真珠」の姿をした海姫の体は背面に向けてぐらりと傾ぐ。
誰もが息を飲む中、何の抵抗もなくその体は宙に投げ出される。
海の国の王妃の姿は絶壁から姿を消し、絶壁で白い泡となるひときわ大きな波にその身は呑まれたのだった。
海の国王妃シーア・バルトンは国のため自ら北の台地へ渡る中、事故で海へ転落。
その後、消息は不明。
当時、海は干潮の時間帯だった。
岬周辺は切り立った岩場になっており、断崖絶壁と言っても過言では無い地形。
岸壁に打ち寄せる波の合間合間に、岩場が露出していた。
悪いことは重なるもので、その後嵐の到来により海は荒れた。
◆―――――――◆―――――――◆―――――――◆―――――――◆
夕刻、雨と泥にまみれ血のにじんだ凄惨な顔で王城に戻れば、すぐにレオンの執務室へ入るよう指示された。
元よりそのつもりだった。
重厚な扉を開ければ、オズワルドとその腹心達、議会の代表が集まっている。
その中心で、レオンはすでに慌ただしく片っ端から指示を出していた。
グレイとジェイドの姿を見て、口を開く。
「ご苦労だった。報告を」
その声は、いつもと変わりのない物に聞こえた。
そこに、怒りも焦りもない。
護衛隊最高責任者であるオズワルド・クロフォードを残して他は退室が命じられた。
冷静な眼差しで見上げて来る男を見て、グレイはまた心臓を掴まれたような圧迫感に襲われる。
自身の鼓動がやたら大きく感じられたが、あの瞬間に比べれば可愛い物だと思った。
あの瞬間、身体中の血液が沸いたかのようだった。胸が高温を持ち、心臓が抉り出されるような感覚に襲われた。
「ご苦労だった」
レオンはもう一度、繰り返した。
しかしそれは絞り出すようでもあり、低い声である。
硬い表情でレオンは書類を差し出し、グレイはそれを無言で受け取る。
目を落とした瞬間理解した。
それはシーアが言っていた、書き置きであった。
女性らしいとは言えない堂々とした文字がそこには整然と並んでいた。最後まで、可愛げがないほどに書体に乱れのない手紙だった。
第一に、グレイとジェイドを勝手に使い、危険な目に遭わせた事の報告と詫び。
彼女が言っていたように、万が一彼等を断罪すれば戻らないし、離婚すると書かれていた。
次に、北の台地に独断で渡る旨。
『あいつらに負い目を作る。うまくやれ』
国王への指示はそれだけだった。
すでに北の台地は負い目がある。
それでも決定的な負い目を課すのは、今回の件が、自分の失敗の結果だと捉えているからだ。
シーアは、レオンが受身一辺倒の姿勢で済ますはずがない事を見抜いていた。
どうせ色々と陰険な手管を画策してるんだろ。そこには彼に対する期待があった。
決着をつけろと、言っているのが分かった。
崖からの転落が彼女の計画通りだったという確信を得て、どう判断すればいいか混乱しながら文字を追い、そして最後にグレイは眉間に深い皺を刻んだ。
『半年して帰らなければ後妻探しを開始し、遅くとも1年後には王妃の国葬を挙げた後、3年以内に再婚する事』
咄嗟に顔を上げれば、そこには渋面とともにはっきりとした不快感を露わにした国王の姿があった。
思わず喉を鳴らす。
レオンが頷くので手紙は傍らのジェイドにも回した。
半年しか、待つ時間は与えられなかった。
勝手なやり方と、勝手な指示に、レオニーク・バルトンはかつてないほどの怒りを覚えていた。
北の台地の取った手段に対する怒りと、同等の怒りが、そこにはあった。
シーアからすれば反対されるのは分かり切っていたし、最悪は軟禁状態になる可能性を考えての強行である。
「お前達にも迷惑をかけた。無事でよかった━━本当に。報告を頼む」
無事を心から安堵しているレオンの様子に、グレイは良心の呵責にさいなまれる。
妻を相手に渡したのだ。レオンには糾弾する権利がある。
それで少しでも気が済むのなら、と思ったが、気が済むのは己自身なのかもしれない。
グレイは自分のすべき事を考える。
そして、彼の求めに応じる。
今、自分が成すべきことはそれだけであり、出来る事もそれだけだと、グレイはしっかりと理解していた。
半年以内に圧倒的な決定打を決める。
レオンは、気が逸るのを覚えた。
久々の感覚に頭が冴え渡るのを感じる。
「アテはある」
国王は鋭いまなざしで宙を睨む。
3年間の遊学と言う名の失踪の間、世界各国、各地にまいた種。
それが少しずつ発芽し、時に開花し始めた。
彼女はいつも自分の裁量ですべてを終わらせようとする。
いつになったら自分を信頼し、対等な立場だと認めてくれるのか。
認めさせるために、国王は動き出した。
世界有数の港を持つ海の国周辺の海域を知る船乗りは多い。
海の国王妃シーア・バルトンの消息不明が続く状況に、多くの船乗りは言った。
「干潮だったんだろう? いくら海姫でもあの時期にあの海域に落ちりゃさすがに死んだだろ」
海神信仰の強い民の中には「海神のご加護も、陸に上がった人間には与えられなかったか」と眉根を寄せて首を振る者もあれば、「海姫は海に還ったのだ」とその死が非業な物ばかりではないと自分を慰めた者もあった。
世界の航海路の要所にある海の国に起きたそれは瞬く間に世界の沿岸地域を駆け抜け、多くの人間が生存の可能性を絶望視した。
◆―――――――◆―――――――◆―――――――◆―――――――◆
数日後、王城内にて少女の姿を見たグレイは内心ぎくりと動揺した。
もう、少女とも言えないほど成長したカリナ・クロフォード。
彼女はグレイを見ると一瞬、つらそうに視線を落とす。
「シーア様から、お預かりしたものがあります。『どうにもならなくなったら開封するように』と伝言を預かっています」
そう言って渡されたのは国王の所で見たものと同様の手紙。
封蝋のない、市井で使われる糊付けされた簡素な様式である。
うまいやり方だった。
まさかこんな物が王妃からの手紙だとは誰も思わないだろう。
「いつこれを?」
預けられたのかと張り詰めた様子のカリナから受け取りながら尋ねる。
「前日です」
あの女のする事だ。
嫌な予感がした。ひどく胸が騒ぐ。
乱暴に開封した。
伝言が完全に無視されたカリナは目を見張って息を飲む。
カリナに尋ねる事が発生する可能性もある。本来なら持ち帰って開封すべきだが、乱暴にそこで中を確認した。
その内容は、実に禍々しい物だった。
グレイは目を見張り、その刹那、歯軋りの音が聞こえた。
カリナが不安そうに、青ざめた様子で彼を見詰める。
本当に、あの女は━━
怒りがこみ上げた。
「お嬢さん、これの内容は聞いてるか?」
低く、重い声だった。
怯えた様子でカリナは首を振り、グレイは何も知らされていない様子に思わず安堵する。
「あの、馬鹿が」
唸るように低く罵った。
なんてものをこの少女に預けるのか。
グレイがあの場で命を落とす可能性を考慮し、あの場では渡さなかったのだろう。
そこには、これまた勝手な指示があった。
『婚姻関係を解消する必要があれば公表しろ』
レオンの意思を無視し、強制的に婚姻関係を解消する手段が記載されていた。
シーアの養父ウォルター・ドレファンに証明を依頼すれば、手筈は整えてもらえる。
段取りはオズワルド・クロフォードに一任する。
レオンの許可は不要。
シーアの筆跡で最後に走る署名は「セシリア・ドレファン」。
半商半賊のドレファン一家頭領にして、海王とも呼ばれるウォルター・ドレファンが24年前に拾った赤ん坊の産着には名前が刺繍されていた。
セシリアと━━
それが、海姫の真なる名である。
シーア・ドレファンとの婚姻関係が正式なものではない事が判明した瞬間だった。
どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのか。
グレイは怒りに手紙を持つ手が微かに震えた。
レオンがこれを知った時、どれほどの衝撃を受けるだろう。
これはレオンに対する明らかな裏切行為だ。
夫婦関係など、はじめから存在しなかった。
こんなひどい裏切りはない。
シーアが消えた朝、レオンの寝室の家具が窓に叩きつけられ、家具も窓も大破したという報告を受けていた。
あんな手紙を残されれば当然だと思った。
しかし今回は━━
年代物の机の一つや二つでは済まされない。
物で済めばまだいい。
彼自身がどこか壊れてしまう可能性に、グレイは寒気を感じる。
そして、こんなものをカリナに預けて、万が一彼女が内容を知ってしまったらどうするつもりだったのか。
そもそも、預けられたこの手紙を養父が使い、婚姻が解消された時、カリナがどんなに傷つくか。
必要に迫られれば、オズワルド・クロフォードはこれを公表せざるを得ないだろう。
それがとても不本意な事だとしても、彼はそれを行うだろうし、彼しかそれを出来る人間がこの国にはいない。
あの女が考えなかったはずはない。
グレイが人をここまで恨んだのは生まれて初めてだった。
グレイを不安げに見つめるカリナの指先が無意識にぴくりと動く。
殺気の立ち込めるグレイに手を伸ばすために。
手紙の内容は知らない。
けれどこんな状況下で、「どうにもならなくなったら」などという注釈付きの置き手紙だ。きっとひどい内容であったに違いない。
彼一人が、背負いきれるようなものではない可能性が高い。
一人耐える彼に、思わず手を伸ばしかけた。
しかし、カリナは両手を固く握りしめる事でそれを制する。
絡み合わせた自身の指先が冷たかった。
セシリア・ドレファンの名を知る者は、シーア自身と養父ウォルターただ一人であった。
彼は、必要性を感じ本名を小さな民族国家の役所にその出生を届け出ていた。
その時はまさかこんな風に使う日が来るとは思ってもいなかった。
出生が判明した場合の証明に本名を残し、万が一どこぞの落胤だった場合の面倒回避のために「シーア」と呼んでいた。それだけの事のはずだったのだ。
彼がレオンに寄越した「婚姻免状」は何の効力も持たない。
海王は二人の婚姻を心より祝福する反面、初めからこういった事態を憂いていた。
大切な娘と、実力を認めているかつて自分の船に乗っていた男が、最悪の選択を迫られた時これを一つの解決策となるよう手段として残したのである。
とても不本意に思いながらも、必要だと判断したが故に。