6、今夜はえらくやる気満々だな(鍛錬的な意味で)
海賊スミス一家の新頭領であるエミリオ・スミスが王妃の元を訪れたその夜、最も深刻な被害を被ったのは護衛隊隊長と国王の寝室についた衛兵かもしれない。
挙式から十日ほど遅れて強制的に実行した「初夜」以降、シーアはほとんどの夜をこの部屋で眠るようになっていた。
有事の際には一瞬で覚醒し、即時臨戦態勢に入る能力を身に着けた二人である。
守らなければならない相手が傍で眠っている状況は、よりその力が必要とされ、自然と洗練させた。
それでいて信頼して背中を預けられる人間が傍にいる安心感から、これまでにないほど良質な眠り得られた二人は目覚めと同時に目を瞠った。
それはもはや驚愕に近い物があり、シーアはそれは忌々し気に「もっと早くこうしてりゃ良かった」と口惜しんだほどである。
そんな国王夫婦の在室する寝室から一度大きな音が響いた。
室内にある猫足のソファーが背もたれ側に倒れたと推測された。
扉の前に控える衛兵二人が「入ります!」と言い置いて扉を開けようとすれば、「大丈夫だ、問題ない」と中の二人に言われる。
入室を拒まれはしたが、その後も断続的に響く重い衝撃音。
有事か否か━━すぐに衛兵の班長に報告が成され、最終的に護衛隊の長であるグレイが呼ばれた。
今日は疲れた。
ジェイドからの報告も受け、本来であれば帰宅するのであるが自宅に戻るのも億劫だった。
護衛隊隊長の小さな執務室には簡易の寝台もある。このまま泊まり込むか、と服を着替えたところでグレイは緊急の呼び出しを受ける。
さっさと帰宅すればよかった。
次からは絶対に仕事が終わり次第、即時帰宅する。
グレイは固く心に誓いながら、嫌々重い足取りで国王の寝室に足を向けた。
廊下を曲がれば、国王の寝室の前から切迫した表情の衛兵達が困惑したような、すがるような目が寄越される。
室内で何が起きているかおおよその見当のついていたグレイはそこに来て確信する。
そして壮絶なまでに厳しい表情を浮かべ━━
「新婚が盛り上がってるだけだ! ほっとけ!」
そう、怒りもあらわに大音量で吠えたのだった。
隊長の思いがけない咆哮に衛兵二人は絶句した。
何とも言えない、困惑の空気が満たされる中、室内から再度ドンッと重い衝撃が響く。
国王たる者の寝室である。そこにあるのは重厚な扉であり、多少の声や音は聞こえない造りになっている。尋常ではない。
グレイの言葉を鵜呑みにする事も出来ず「もしもの事があれば」と衛兵達は食い下がり、その様子にグレイは不本意ではあったが自分の職務を全うする事にした。
両手を高く上げると、その掌を力いっぱい扉に一度叩きつける。
「二人とも無事だな!?」
「おぅ!」
扉のすぐ前にいたのか、シーアの勇ましい声が返ってきた。
「━━な? 前戯だ。気にするな」
ゆっくりと振り返り、重々しい口調で言い捨てた彼の表情は悪鬼のようで、衛兵達は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
事態の収拾がついたと判断したグレイは、なんとも荒々しい足取りでその場を後にしたのだった。
その背を見て、壮年の衛兵達は思う。
やはり若くして隊長になるだけある。
なんと男気溢れる男なのか━━そう称賛の眼差しを向けたのだった。
グレイは日頃そういった下世話な事は口にしない。
こんな事に呼ばれ、よほど腹に据えかねていたものと思われる。
そして、夜の当番に当たると悲壮な顔をする衛兵が増えてきたのもこの頃であった。
寝室からはその後もしばらく派手な重低音が響き続けた。
そもそものきっかけはシーアを抱き寄せたレオンが彼女の腕を、やんわりと背中側にねじ上げるという━━今夜の「妻の浮気」への無言の非難だった。
無論レオンも本気ではないし、シーアもそれは分かっている。
穏やかで、微笑さえ浮かべた余裕ある表情の夫からついばむような口づけを受けながら、シーアは空いた方の手をレオンの首筋に沿わせる。
シーアが腕を拘束されている事を除けば、実に仲の良い夫婦に見える光景であった。
レオンのしっかりとした首筋を撫で、官能的な動きで肩まで手を滑らせた後シーアは親指を鎖骨の上のくぼみにねじ込もうとした。
痺れを伴う、突き刺すような激痛。
それを予感し、手を放して咄嗟に身を引いたが完全に防御は出来なかった。
「ッ!」
痛む筋を押さえて妻を見やれば、片方の口角を挙げて笑む姿があった。
「こっちはかなり加減してるんだがな」
抗議すれば、当然だとばかりにシーアは鼻で笑う。
「そりゃ妻に対して本気出すのはまずいだろ」
あからさまに手加減すれば「手を抜いている。本気を出せ」と文句を言うくせに。
━━本当にえげつない。
嘆息し、ここは艶っぽく組み伏せんと足を薙ぎ払いに掛かるがシーアは後転で避ける。
以前と同じ逃げ方だった。レオンは素早く前に出て一気に距離を詰め、動きを先読みされたシーアは小さく舌打ちした。
「お前は誰にでも褒美を与えるのか」
そうレオンが腕を伸ばせば、シーアはそれを力の向かう先へと上腕で払って流す。
「なんだ。やきもちか」
鼻で笑うように言いながら流した腕の関節を固めようとするが、レオンは背を合わせるように体を回転させて逃げる。
背が合わさった一瞬、レオンは囁いた。
「尻軽」
そうは言いながらもそこにあったのは愉快そうな微笑であり、対峙したシーアも物騒な笑みを浮かべてはいるが暴言を気にしたりはしない。
こうして戯言を言い合える時間は、とても貴重で幸せだと感じている。
お互い政務に追われ、運動不足を感じていた二人のそれは徐々に白熱し、その結果その夜の夫婦の交わりは実に気合いの入った取っ組み合いから始まったのだった。
あれはあの馬鹿夫婦の意思疎通であり、物騒な愛情表現でしかない。
それを知るグレイが苛立ちが沸点に達するのを感じながら執務室に戻ろうとすれば、角に潜んでずっと様子を窺っていた上司オズワルドに出くわした。
「いつもご苦労だね。今夜も泊りかい?」
護衛隊長の雄姿と英断を目にしたオズワルドは苦笑を隠さず彼を労った。
部下を褒める事を惜しまない彼を、グレイもまた信頼している。
カリナとともに今夜は帰宅したものかと思っていたが、宰相同然の仕事をしている彼にはまだ仕事が残っていたのだろう。
「グレイ、このところあまり家に帰っていないだろう?」
ふと上司は自分の事は棚に上げてそんな事を言い出した。
「君に任せっぱなしで恋人を作る暇もないのは悪いと思っているんだ。気になる令嬢がいるなら力になるし、手っ取り早い方を希望するなら紹介するよ?」
最近、心休まる時間が以前に比べずいぶんと減っている様子の護衛隊長が気になり、悪趣味で余計なお世話だろうと思いながらも、オズワルドは尋ねた。
何を突然言い出すのだろう。
グレイは訝し気な顔を素直に上司に向ける。
同時に欲求不満を心配されているのかとグレイは暗鬱たる思いに苛まれた。
現段階でそれらは考えられないほどに疲弊している。ましてや金位の貴族たるオズワルド・クロフォードの紹介で行くような娼館などごめんだった。
それもこれも、あの馬鹿夫婦のせいだ。
先ほどの苛々がぶり返す。
「これまで忙しくて行く暇がなかっただけです! 三日休みをもらえば三日まるまる籠ってやりますよ」
グレイは自棄気味に唸った。
「それは頼もしい限りだ。若いんだからそれくらいの気概があって何の問題もないよ。でも三日はちょっとねぇ」
オズワルドは困った顔で笑った。
三日も留守にされたら、誰があの国王夫妻を諫めるのか。
グレイの尊敬する上司はずいぶんとひどい事を考えていた。
休みがない事を直訴する形になったが、それ自体に関してはグレイ自身、実はそれほど不満はない。
昔なじみのレオンが連日政務に終われている姿を見れば、そんな気が起きるはずもなかった。
ただし、あの常識外れの嫁とのいざこざに巻き込まれるのは不本意極まりない。
職務の範疇を越えていると訴えたいくらいだ。
この国はもうだめかもしれない。
グレイは疲弊し切った頭でそんな事を考えた。
彼が良識人だと信じて疑っていなかった上司も、国王夫婦にすっかり毒されてしまったらしい。
正確には「海の国の黒真珠」などと呼ばれるペテン師のせいだ。
一晩で精神的疲労が積み重なったグレイは最終的に本音を吐露した。
「そんな暇があったら家で寝ます」
本当に、何も考えず、今日の事も忘れ、ただただ泥のように眠りたい。
それだけを思った。
北方の人間は厳しい冬のせいもあってか謹直な堅物が多く、娼館に馴染まない人間が多い。そしてグレイも例外ではない。
この男は案外家庭的である。きっと愛妻家になるだろう。オズワルドはそう微笑ましく思うとともに暗澹たる思いがよぎる。
この男に、国は泥をかぶせた。
進水式のおり、国王の婚約者が海賊団の人質になった時の事である。
なぜ、彼女が囚われたのか。
海賊団の動きにいち早く気付いた海姫が自ら乗り込み国を救ったとも、城内から連れ出されたとも言われた。
国は、明言しなかった。
そのため護衛隊隊長を務めるグレイに一部から批難の目が向けられたのである。
海姫が自ら乗り込んだのであれば、それをさせた国王が国内外から批判される可能性があった。
曖昧にしたことで、北の台地に間接的な揺さぶりをかける目的もある。
「お前達がした事を知っている」
それは海の国を有利に導く。
「もともと大した経歴じゃない」
自分がいわれなき批判を受ける事を知った時、彼はそれがどうしたとばかりに笑った。
この男はどうしてそれが出来るのだろう。
オズワルドは思う。
忠義と言うには荘厳すぎる。友情というには軽すぎる。
きっとそれは、彼の器の広さが成すものなのだろう。
彼は、絶対に国王を裏切る事はない。
レオニーク・バルトンが彼と出会ったのは僥倖だったとさえ思う。
そして国王は、人材を集める天才であり、優秀な人間を魅了してやまない人物である。
海姫然り、グレイ然り。
それがレオニーク・バルトンという強運の持ち主が兼ね備える、類まれなる才である事を痛感せざるを得ない。
そして自身の事はすっかり失念しているが、オズワルド・クロフォードもそんな人材の一員である事は明白である。
翌日シーアは「昨日は遅くに悪かったな」とグレイに声を掛けた。
その辺りは気を遣うし、詫びる事が出来る人間である。グレイも不本意ながら日頃それは感じている。
けれどそうやって少しは己の言動を顧みたかと思えば「久々でちょっと盛り上がっちまった」などと誤解されそうな言葉を飄々と発言するのだから、どうしても素直に認める気にはなれないのだった。




