5、おっ前、相変わらずチャラッチャラだな
その衝撃の発言に、グレイは激しく動揺した。
それについて、これまで一切考えていなかった事に気付き愕然とする。
海姫と呼ばれたシーアに、離婚歴のある可能性。
どうしてそれを誰も考慮しなかったののか。
生唾を飲み、国王夫妻を見やれば━━二人はなんとも面倒くさそうな顔をしていた。
「それってここが入国制限されてた頃、お前と組んで入国した時のことだろ? そんな女々しい事言って恥ずかしくないか? お前、何しに来たんだ?」
シーアは一歩間違えば嫌悪にも近い、小馬鹿にしたような顔で実にばっさりと切り捨てた。
エミリオは内心天を仰ぐ。
なんて面白みのない。少しくらい動揺すれば可愛げもあるのに。
どうしてこんな女のために俺はここに来たのだろう。
激しい後悔の波が彼を一気に襲った。
さっさと用事を済ませて帰る。一瞬で決断した。
「借りを返しに来ただけだよ。さっきのは冗談」
そういう男だとは分かっていた。
相変わらず軽いな、と彼の軽薄さを少しだけ疎ましく思う。
対して男は、破顔して告げた。
「シーア、きみ、近いうちに嵌められるよ」
ほう、とシーアは面白そうに唸った。
エミリオは人差し指をクイクイと動かして寄るように促す。掌に短剣を忍ばせ、シーアはゆっくりと前に出た。
グレイは空気が動いたこの機会を逃す気はなく、レオンのそばに移動する。その様は実にさりげなく、エミリオはグレイの動きに感心したほどだった。
さすがこの警備網を張っただけはある。
ここに来るまでずいぶんと苦労させられた。
冷たくあしらわれたにもかかわらず、それでもまだ夫に見せつけるようにシーアの耳元に唇を寄せたのは、ささやかな意趣返しのつもりであり、女好きの最後の矜持でもあった。
しかしこれまでに何人もの女を口説き落としてきた魅惑的な唇が動く前に、シーアは口を開く。
「北だろ?」
エミリオは思わず舌打ちしていた。
「本当に可愛げのない女だな」
彼はついに荒く吐き捨てた。
「他に心当たりがないだけだ。で?」
他に何を知ってる? 涼しい顔でシーアは促す。
「北っていうよりは王弟だよ。半年前のあれで、よっぽど恨みを買ったらしいじゃないか。なにをやらかしたんだ? きみの過去を片っ端から探ってるよ」
北の台地の目論見に加担しなかった彼は、早々に距離を取っていたので、事の顛末は話に聞いただけであった。
シーアは右手を顎に当て、考え込むそぶりを見せる。
唇を隠すように人差し指が左の口角の上をなぞっていた。
いつの間にあんな癖がついたのだろう━━
共に船にあった頃、あんな癖はなかった。あれば確実に指摘していた。
レオンはその様子を目にするたびに思うのだが、その後に必ず見せる魅力的な、性根が悪いとしか言いようのない笑みに魅了されていつも聞きそびれていた。
聞こえたのはそこまでだった。
声を潜めて寄り添う二人はまるで恋人同士のようで、グレイは肝を冷やす。
レオンが現れた時から、彼だけは緊張と動揺が続いていた。
そんなグレイの心配をよそに、シーアは美貌の侵入者に二、三確認すると満足したように頷いた。
何を話したのか。どうせろくでもない事に違いない。
グレイは険しい顔でその様子を見守った。
レオンは落ち着いた様子で構えている。それは旧友と妻が話し終わるのを待つ夫の姿で、グレイはこちらにも眉間に皺を寄せる。
こいつらの頭はどうなっているのだろう。
そう思った矢先、ふとレオンの視線が一瞬グレイに向けられる。晴天の下では美しい空色の瞳だが、今はその色も見えない。しかし長い時間ともにあった彼はそこから明確な意思を読み取りると、陰に潜むジェイドに一つ指示を出した。
用件が片付いたシーアは身を引きながら、「ああ」と思い出したかのように小さく呟く。
「ご褒美だ」
そう言うと、エミリオの顔に指を伸ばすと手袋に包まれた細長い指を彼の頬に添えた。その手はたおやかに見えて実は硬い。
そして、顎を捕えるようにして軽くこちらを向けると、優男の口元に己の唇を押しあてたのだった。
さすがに、レオンは両目をすっと細めた。
唇から少し離れた、口角の外側。
エミリオのそこにはっきりと紅がつく。
「口元に紅がついた男を捜索される前に城を出た方がいいぞ」
謀ったお返しだと言わんばかりの顔でシーアは笑った。
ほんっとうに、可愛げが無い!
これまで機会がある度に戯れのように口説いて来た女である。
お互い一家の跡取り候補たる身分だ。
強引に出る事はしなかった。
それなのに船を降りて陸に上がり、海の国の王妃におさまった海姫。
婚約したと聞いた時は「また派手な仕事を請け負って」と思ったが、挙式では大衆の面前で堂々と手を振っていたという。
にわかには信じられず、訝しんでいたが、やはり本気なのか。
こうなったら少しくらいの腹いせは許されるだろうと新婚夫婦を引っ掻き回してみたが━━最終的にエミリオ・スミスは海の国の王に内心深く同情しながら帰って行く結果となった。
しかも「お前、わたしに用ならわざわざここまで来なくても街中で張ってりゃ会えるぞ」などという実に最悪な手土産付きだった。
「お前、えげつな過ぎるだろ」
グレイは呆然と呟いた。本当はアバズレとか、悪女とか罵ってやりたいところであったが、国王たる夫が傍にいる。さすがに自重した。
「何言ってんだ。過去の男との関係を清算してやったんじゃないか」
シーアは鼻で笑った。実に愉快そうに。
「あいつはなびかないわたしに絡むのが趣味なんだ。ああしとけばもう興味も無くすだろ」
グレイもまたエミリオ同様、心底レオンに同情する。
なんでこんな女がいいのか。
ろくでもないことこの上ない。
だが、そんな彼女を選んだのは他ならぬこの男なのだから自業自得としか言えなかった。
「お前ら、よくここが分かったな」
ふとシーアが言えばグレイははっと思い出す。
「カリナ嬢が、目印に靴を残しておいてくれてね」
まだ若いというのに本当に聡明な女性だ、答えたレオンはそう感心していた。
国庫管理室でもそれは見事な働きを見せていると聞いている。
シーアはまた見事な人材を見つけてきたものだと彼を喜ばせた。
満足しているレオンをよそに、グレイは「どうやって返しに行こうか」と頭を悩ませるのだった。
◆―――――――◆―――――――◆―――――――◆―――――――◆
山鳥の声を真似た指笛の招集は北方の山岳地帯出身の護衛隊員だけが使うものであった。
聞きなれた音から、発した相手はジェイドであると判断したグレイは火急の事態の発生を悟りその方角へと走る中、靴音のしない不思議な足音に気付いた。
切羽詰まった表情の少女が速足で駆けてくる。
本来、貴族の令嬢が走るなどしたら━━特にこの少女がそんな真似をすれば周囲から過剰なまでに眉を顰められるのは想像に難くない。
それは本人が誰よりも理解しているはずだ。
その姿にグレイは余程の事かと危惧する。
案の定、少女はグレイの姿を見ると少しだけ安堵したように表情を緩めたが、すぐにまた険しい緊張した面持ちに戻った。
「王妃の過去の恋人だったら」という可能性もカリナはもちろん考えた。
しかしあの表情。あの笑顔。漆黒を纏う彼女は何かを警戒していたし、ジェイドがいつになく多弁であった。
「グレイ様っ、シーア様の所へ行ってください」
少女は護衛隊隊長の元にたどり着くなり制服の胸元に縋りついたのだった。
「南の回廊から庭に出られました。ジェイド様が追いかけています。目印にこの辺りに靴を置いて来ました」
声を潜めてそう言って、手近な植込みの根元を指さす。丁寧に整えられた庭園はほぼ同じ植込みが回廊に沿って並んでいる。
石畳の通路も何本か庭園の奥へ続いている為、カリナは靴を残してきた。
護衛隊隊長である彼に事態は伝わった。カリナは安心して今度こそ養父を探しに行こうと大広間に戻ろうとしたそこで、今最も会いたくはなかった麗しい人物と対面してしまう。
それはそうだ、護衛隊隊長はこういった夜会ではこの人物に就くのが通例だった。
ジェイドからの緊急事態の招集があったとはいえ、隊長のそばにこの人物がいても何らおかしくはない。
「こんばんは、カリナ嬢。妻を探しているのですが、ご存じありませんか?」
これまで彼と直接話した経験はほとんどない。けれどいつも丁寧な口調に恐縮してしまう。この国で最も尊い身分に緊張すると言うのに、今はそれに上乗せて自分は懸念案件を抱いている。
さすがに「王妃は綺麗な男について出て行った」とは言えない。
従者の目を気にしながら口を開けば、敏い国王は傍にいた従者を遠ざけた。
その様子にカリナは覚悟を決めざるを得なかった。
言葉を選びに選んで、事態を再度説明した今夜の彼女の言動は褒章に値する物であった。
庭園から大広間に戻った国王夫妻は、そのまま連れ立ってオズワルドのもとを訪れると親子の日頃の働きを讃える。周囲の目には穏やかな表情で会話をしているように映った。
オズワルドの隣で不安を隠そうと表情を取り繕っている様子のカリナに、シーアは微笑みかける。
「足、冷たかっただろ? 心配かけたけどもう大丈夫だから。外でグレイが靴持って待ってるから、オズワルドと行っといで」
耳元で囁いた。
春先とはいえ夜はまだ冷える。
少女の裸足の足が気になった。
抱き上げて連れて行ってやりたい衝動を、シーアは持ち前の精神力で抑えつけるのだった。
悪女でアバズレでえげつない王妃のあごクイ。
※※ エミリオが出たのでここで久々に年齢紹介です ※※
シーア・バルトン 24歳
海姫 海の国の王妃
気は優しくて力持ち&最近めっきり女性に弱くなってるまさかのヒロイン
いまだに「ビジネス国王夫妻」感が拭えない
レオニーク・バルトン 29歳
海の国国王 通称レオン
好青年だったのに虎視眈々タイプに熟成中
グレイ 28歳
シーアに振り回される苦労性の海の国王城護衛隊隊長
弓の名手 姉3人を持つ末っ子長男
ジェイド 23歳
言葉数の少ない王城護衛隊の美形な副隊長
痩せの大食い
カリナ 18歳
元羊飼いの美少女 宰相まがいのオズワルド・クロフォードの養女
計算能力が高く、国庫管理室にて社会勉強を兼ねてアルバイト中
リザ 26歳
シーアの数少ない女友達
商社での事務歴を活かして海の国の国庫管理室に就職し一番の出世頭
バツイチ美人
ウォルター・ドレファン 49歳
海王の二つ名を持つシーアの養父。半商半賊ドレファン一家頭領
サシャ 20歳
シーアの義妹 基本的に島にてデスクワーク
物心ついたころからギル狙いで昨今ついに陥落に成功
ギル 30歳
みんなの兄貴分 ドレファン一家ドレイク号の操舵士
サシャとは夫婦
エミリオ・スミス 29歳(仮)
世界の港で恋人が待つと名高い海賊スミス一家の新頭領
踊り子姿で襲来した式典から1年経過した状態の年齢になります。
義父は海王ウォルター、義姉は海姫シーア、義兄は海の国国王という壮絶な状態に最近気付いてしまったギル。なんとも一番気の毒な気がします。