4、ハサミで切ったりするから痛いじゃないか
「シーア、ちょっと船底見てきてくれ」
風のない快晴の昼下がり、思い出したようにウォルターは言った。
島影一つ見えない海域に停泊中、軽い調子で言われたシーアは「どっち側?」と言いながら靴を脱ぐ。
「船底に穴、ですか?」
シーアが海に飛び込むのを甲板から見送って、レオンは船長ウォルターの言葉を繰り返した。
船員の中で、最も長時間潜っていられるのはシーアだ。
海姫と呼ばれるだけの事はあり、それは別格だった。
本人は「なんでいつもわたしが」という態度をとるが、頼られ、力になれるのが本当に嬉しそうで微笑ましいとレオンは思う。
ただ潜る際はいつも思わず目をそらせてしまうほど薄着になるのには閉口させられていたが。
乗船する女はドレファン姉妹だけで、他は全員が男だったが赤ん坊の頃から一緒にいるため誰も気に留める事はなかった。
時々船に乗っていたシーアの四歳年下の妹のサシャも以前は「そんな恰好でウロウロしないの!」と事ある毎に言っていたが、一向に改めようとしないので「本人が恥ずかしくないなら好きにしたらいいわよ」と匙を投げてしまった。
その上サシャは配船や荷受け、船ごとの業務記録など事務の仕事に興味を覚え、海に出る事はなくなり島で過ごすようになってしまった。
その結果、レオンはいつも大判のタオルを持ってシーアの戻りを持つ羽目になったのである。
破損個所はウォルターの見立て通りの場所にあったため穴はすぐに見つかった。
先月、多少砲弾を浴びた際のへこみが大きくなっていた。
島に帰るまでは大丈夫だと思ったけど、思ったより傷んでるな……
船内にいる船員に破損個所を伝えるための鉄の棒を持って来るのを忘れた事に気付く。
まぁ、ノックすれば分かるか。
シーアは試しに破損した穴に手首まで入れてみるが内側の壁までは届かなかった。
仕方ない、取りに戻るか。
腕を引き抜こうとした時、一瞬血の気が引いた。
腕が、抜けない。
……嘘だろ。
少し無理に手を突っ込んだ気はする。
それが引き抜く際、手首の関節に肉や皮膚が寄せられて嵌った形になっていた。
落ち着くよう自分を叱咤しながら軽く手首を回してみたが、むき出しの手首に木のささくれだった断面が食い込んで痛みを感じただけだった。
船上でレオンは眉間に皺を寄せて海面を睨んでいた。いつもより時間がかかっている気がする。
「遅いな」
レオンの心中を、横で同様に海面を見守っていたウォルターが代弁するように呟き、レオンは行動を決めて靴を脱いだ。
ウォルターが言うなら間違いない。
普段より時間が掛かり過ぎている。
「見てきます」
言うなりレオンは飛び込んだ。
船体の影になって太陽の光がわずかにしか届かない海中で、シーアはきつく顔をしかめる。
苦しい。
やばい、もう、息がもたない。
確保していた最後の空気をゴボリと吐き出す。
一気に海水がシーアの呼吸器官を襲う、直前。
後頭部を捕まれて首を回され、口元を何かでふさがれる感触。
海水が入らないよう、レオンは彼女の口より少し大きく開けて密着させると自分の口内で呼吸をさせた。
口移しが長くは持たないのは二人とも分かっている。
シーアはレオンの肩を叩いて一度上がるよう顎で示した。
「釘抜きを! 船長、穴を広げます!」
レオンは海面に上がるや否や叫び、大きく息を吸い込んで再度潜る。
二人の先輩であるギルは素早く釘抜きを二本手に取ると続けて飛び込んだ。
その後しばらくしてレオンはもう一度海面に顔を出すと、半袖のシャツを脱ぐ。
「レオン! 遠慮なくやれ」
ウォルターの声に返事をする余裕もなく彼は三度潜った。
その後レオンの肩に担がれるように海面に顔を出したシーアは、途端激しくむせこんだ。
「落ち、着け、っゆっくり息を」
そう言うレオンの息も上がっていた。
甲板から垂らされたロープをギルがレオンに持たせると、レオンは左手でロープを掴み、右腕をシーアの腰に回して、その背を撫で続けた。
レオンのシャツで手首を保護して穴を広げたつもりだったが、本人もすでに無理やり抜こうと足掻いた後だった為、シーアの右手の手首からは血が流れていた。
「もうっ、だい、じょぶ。父、ごめん! ちょっと、大穴あけた!」
シーアは甲板のウォルターに詫びた。
ああ、かなり派手な穴を開けたんだな。彼女がウォルターを父と呼ぶのは機嫌を取る時だけである事を知る船員たちはひっそりとため息をついたのだった。
「だからいつもロープくくって行けと言ってるだろうが。しばらく一人で掃除と食事の当番な」
騒ぎの代償にウォルターは子供に与えるような罰を命じた。
ロープを腰に巻いて行けと言ったのは初めて船体の状態を確認しに潜った時の一度きりであり、食事当番はレオンも手伝う事になるのだ。
「不条理だ……」
レオンは内心げんなりとしながらも、相棒の怪我も罰もこの程度で済んだ事に安堵を覚えたが、周囲の船員は船長の言葉に苦虫を噛み潰したような顔をした。
食事を担当する船員は専属で二人いるが、量が多いため下ごしらえの手伝いは当番制だった。食事担当が休みを取るために、下っ端の船員が調理を担当する事もある。
シーアの料理は焼いて塩こしょうするだけなのである。何かと器用なレオンが手伝うようになり、船の献立の種類ははるかに増えた。
彼女が連日食事を作るとなると船員達の不平不満が噴出する。
船長は「一人で」と言ったが、言った本人でさえもシーア一人が料理当番をするのを良しとはしない。言いつけておきながら文句を言うのが目に見えているのだから、レオンが手伝う羽目になるのは誰の目にも明らかだった。
当然、シーアも。
「悪いな。何かで埋め合わせするよ」
海面でまだレオンに抱えられたままのシーアは、手伝ってもらえると信じて疑わない様子でニッと笑って相棒の肩を叩いた。
「期待しとく」
レオンは期待は全くしていない様子で息をついたのだった。
シーアの右手首は派手な切り傷、擦り傷で済んだ。
傷は残るかもしれないが、掃除や食事当番が出来ないほどではなかった。
船医に手当してもらい、落ち着いてからふと口角の上を親指の腹でさする。
ヒリヒリする。
レオンのひげが押し当てられたからだ。
そういやあいつ、昨日ひげ切ってやがったな。
剃るわけにはいかないので、髪やひげが伸びすぎると彼はハサミで短くするのだ。整えるとはとても言えないような仕上がりがベストな状態らしい。
右手首の傷よりも口元の痛痒感が、気になった。
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その夜、レオンとギルがシーアの腕を抜くために広げた穴の修復のため、「巣」にて修繕する事が決定した。
「巣?」
翌朝、海中の修復の仕方をシーアに尋ねたレオンは聞き返した。
「そ。船体を軽くしないといけないから港とか他の船に荷物を移して、わたし達も船大工と交代。ウォルターがどっちか一人だけ連れてってくれるってさ。行ってきなよ。わたしは小さい時に行ったし」
ジャガイモの皮を剥いていた手を止めてレオンを見上げる。
「感動もんだぞ」
ニヤリと笑む。
こういう時に浮かべる彼女の笑みは、実に艶やかで魅力的なことを本人は知らない。
「いいのか?」
そんな機密事項である場所へ、自分が行っていいものなのか。
レオンは戸惑った。
「どっちか一人って言ったんだからどっちでもいいだろ」
彼の真意は伝わらなかったのか、彼女はさらりと言う。
「滅多にお目にかかれるもんじゃないし。一見の価値ありだぞ。昼間に潮が引く大潮の日じゃないと出来ないんだ。時期が良くてよかった。料理当番のとばっちりのお詫びだ」
本当ならシーアも行きたいところだが、彼女はまだ今後お目にかかれる機会は少なからずある。
しかし彼は今回を逃すともう二度とその機会はないだろう。
だから、譲る事にした。
シーアが海に入る時は極小面積の黒革ビキニ(紐パン)だと思っています。