3、護衛隊々長の憂鬱と言うには生易しい、怒れる日々<前>
王城の警備を担当する護衛隊の長を務めるグレイという男は、本来朗らかな人間である。
飄々としていながら、声を荒げる事はなく、隊員達とも鷹揚に会話し、軽口にも穏やかに「ははは」と笑って返す。大きな声で、本当に楽しそうに笑う姿は好ましい。
気がよく、誰からも好かれるタイプで、その粗野な風貌からは意外に思うほどの良識人である彼は北方の山岳地帯出身であり、身分は低い。
そもそも北方の地で義賊の頭領をしていた男だ。
国王不在の間に暴利をむさぼった悪徳な貴族や商人の家にしか押し入ってはいないとはいえ、叩けば埃の出る身である。
しかし国王レオニーク・バルトンはその経験を買い、そんな国王の集めた人格者の多い王城においてグレイの出自は出世の妨げにはならなかった。
それが、ここ最近はずいぶんと変わった。
王城に彼の怒声が響くようになったのはここ1年ほどの間である。
イライラとしながら、荒い足取りで王城内を闊歩するようになった。
護衛隊の隊員達は一様に、気の毒そうに愛すべき隊長を見送る日々が続いている。
勤務時間から解放されて、帰宅の途に就いたグレイは通りが混雑しているので普段は避けている市場に寄った。
彼の住居は王城の北側の郊外にある借家である。
昔なじみのレオニーク・バルトンに雇われた後、兵舎暮らしが性に合わず上司であるオズワルド・クロフォードの紹介で借り受けた庭付きの一軒家。
宰相まがいと言われる男の縁者が使っていたその館は、護衛隊の上官が住むには少し小さいが、グレイはその「ほど良さ」をとても気に入っていた。
彼はそこへ夫に先立たれた遠い親戚の老婆二人を田舎から呼び寄せ、田舎で仕事もなく一人で過ごすくらいなら、と家事を任せて同居している。
素性も良く分からない下女を雇うよりもずっと安心できたし、何より気安かった。
たまにこうして食材の買い物を言いつけられるが、本来雇用主であるはずの彼も文句と言った体で一言返しながらも快く応じるのだから、老婆二人にしてみても生意気で可愛い孫くらいにしか思えないのだった。
夕刻にはまだ早い時間帯ではあるが、市場には食欲をそそる香りが充満していた。
前方に見知った顔を見つけて「おや」と思う。
金髪を両脇で三つ編みにして垂らした少女。
使用人のお仕着せ姿をしていたが、その顔が整っている事は一目瞭然だった。
宰相まがいと言われ続けておりながら、決してその座には就こうとしない上司オズワルド・クロフォード。
クロフォード家の養女であるカリナが、同じく侍女姿の年嵩の女と二人肩を並べて市場を歩いてくる。
さっと周りを伺えば、護衛らしき人物を二人見つけた。
城より北側のこの地区は、港のある南側より人も少なくのどかではあるが、それでも呆れた。
最近彼女はその計算能力の高さを見込まれて国庫管理室に出入りしている。
同時に、市井にも出るようになったのだと上司は言っていた。
このお嬢さんも、うちの上司もずいぶんと不用心だ。
そう内心嘆息するグレイにいまだ気付かないカリナは、ふと視線を脇の店に向けた。
次の瞬間そこに花が咲き誇るような笑顔がこぼれる。
おやおや。
意中の徒弟でもいるのだろうか。
そうグレイが口元を優しく緩めたほど、少女のそれは恋する乙女のような笑顔だった。
彼女がその店を見たのはほんのわずかな時間だった。
次の瞬間には周囲に気取られぬようにと言わんばかりの様子で前を向く。
そして養父の一番の部下である見知った男の姿を見たカリナは一瞬、血相を変えたのだった。
「こんにちは、お嬢さん」
恐れなくてもいい、何も気付いていない。
そんな様子を装ってグレイはあいさつした。
「こんにちは、お仕事帰りですか? ご苦労様です」
彼女は同郷でもあるグレイに対し、他の目がない場合は市井の言葉を使う事が多かった。
少女にとって彼は、心を許せる数少ない人間だった。
そんな風に接してくる少女を、もともと面倒見の良い彼が放ってはおけるはずもなく、これまで視界に入れば気にかけてきた。だから気付く。
笑顔が妙にぎこちない。
職業柄、普段と違う様子に気付いてしまったグレイは「職業病だな」とか「お嬢さんには申し訳ないが」と思いながら、先ほど彼女が視線をやった店に目を向けた。
精肉屋である。
店先で肉の塊やソーセージなどが焼かれていて、すぐに食べる事が出来る。
その奥で、これまた彼の見知った顔がこちらの様子をうかがっていた。
まったく悪びれる様子もなく。
カリナは眉間を曇らせ、不安そうな顔をした。
店の奥の暗がりで、焼いた肉を肴に酒を飲んでいるのはシーア・バルトン。
かつては「海姫」と呼ばれ、つい先月この国の王妃という肩書が追加された女だった。
庶民の出で立ちで、化粧をしていない地味顔の彼女は片手を上げて笑顔を浮かべる。
痩身のグレイのまわりに殺気が立ち込めた気がした。
カリナはそんな二人を視界に収めながら、気が遠くなるのを感じる。
気絶出来たらどんなに良いか。
しかし、残念ながら北方の山岳地帯で羊飼いの娘として育まれた彼女の神経は、そこで都合よく倒れられるほどは弱くはなかった。
「わりぃ、邪魔する」
そう精肉屋の店主らしき恰幅のいい中年の男に声を掛け、グレイは店の奥に入った。
本来、飲食をする店ではない。
従業員用の簡素な机で、まるで店主の身内だとでも言うかのように馴染んでいる姿に、苛立ちと憎悪しか抱けなかった。
「よぉ。仕事上がりか? ご苦労さん。お前も飲むか?」
酒の入ったカップを掲げながら、この国の王妃は笑顔でそんなことを言った。
「姐さん、あんたのいい男かい?」
からかうように声を張る店主にシーアは肩をすくめて見せる。
「残念ながら好みじゃないそうでね。振られてるんだ」
店主は大笑いした。
「兄さん、女は顔じゃねぇぜ? この姐さんは見てくれはともかく、気立ては悪くねぇ。嫁さんにするならこんな姐さんの方が絶対いいって。も一回考えてやんな。まぁ、この間あんなお妃様見た後じゃ考えられんか」
さすがは「海の国の黒真珠」と呼ばれるだけはある、そう店主は嬉しそうに唸った。
グレイは盛大に頬を引きつらせ、シーアは全く聞こえていないかのような素振りで通りのカリナに笑顔で手を振った。
「気をつけて帰りなよ。親父さんによろしく」
大丈夫だから、気にせず帰りな。
地味顔であるにもかかわらず、人を惹きつける笑顔がそう語っていた。
仏頂面でグレイはシーアの前に座り、店主が寄越してきた酒を受け取る。
そうしないとカリナが帰れないと思ったからだ。
本当に気のいいやつだ。
そんな彼の様子を見て、シーアはにやにやと笑んだのだった。