17、無抵抗なさなぎに何をするか
港の貴族用の宿に着くなり、グレイはシーアの処置を指示してレオンの元へ戻って行った。
シーアは蛹状態のまま、膝から下は毛布をめくり上げて桶に張った湯に漬けられる。
グレイの適切な処置のおかげで震えは治まり、ずいぶん楽になった。
その彼がふと戻り、蛹をのぞき込む。
「……だいぶマシな顔になったな」
到着した頃の顔色と比べ、もう大丈夫だろうと判断する。
宿に着いた時点の彼女の疲れ切った顔は、誰も国王の婚約者だとは思わないようなひどいものだった。
「お前、もう諦めて嫁に来い」
「何言ってんだ。まずは労えよ」
開口一番わけの分からない事を言う国王に、シーアは不服そうに眉間に皺を寄せる。
部屋に現れたレオンの顔は、回復したシーアよりもずっと憔悴していた。
本当に、ひどい顔だった。
「こっちもまぁ、ひでぇ顔してること」
戻ったグレイもその様子に顔をひそめたほどだ。
それはそうだろう。
惚れた女を海賊船に送り出し、そこへ砲弾を撃ち込む。
それが最良の作戦なのか。
4日前、シーアが海に漁に行くから、付き添えと指示され、彼等の策を聞かされた。
馬鹿じゃないのか。
正直そう思ったし、現にそう言った。
そしてそれを「いい余興だ」というような顔で見守る。
それが国王が自らに課せた仕事だった。
今日の1日をどんな思いで過ごしたのか。
その心情は察するに余る。
「よくそんな策を採用したな。他に手はねぇのかよ」と尋ねればレオンは苦悶の表情を浮かべた。
「手はいくらでもあるがこれが一番、人的被害も設備的損害も出ないんだ。公的な立場で、選ばざるを得なかった」
国王は厳しい状況に置かれた心情を吐露した。
「成功するからな。腕は信用してる。それが分かってるのに俺の我が儘であいつの策を撥ねれば俺は確実に軽蔑される」
最善の策であり、公的な立場では採択すべきだ。
しかし私的な部分では━━
きっつい話だな。口にこそ出そうしはしないがそう顔を翳らせたグレイに、レオンは取り繕うように笑った。
「どうせあいつの案を採用しないと最終的に本気の殴り合いになるんだ。お互い骨の1本や2本は覚悟するような泥仕合だぞ。仕方ないだろう?」
レオンに合わせてグレイも笑ったが、内心苦虫をかみつぶした。
こんな時に、俺にまで気を遣うなよ。
そんなグレイもまた、海姫が拿捕される一部始終を陸に潜んで見届けた。
嫌な仕事だった。
◆―――――――◆―――――――◆―――――――◆―――――――◆
今回新造した軍用船も三角波を受けて港に衝突する事も覚悟したが、山からの強い吹き降ろしで船には沖へと進む強い力が加わった。
補助の帆を張る事で調整し、港への衝突を最小限にとどめた為、少しの修繕で済む損傷にとどまったのは本当に運が良かった。
三角波は海姫が乗船するドレファン一家でも回避するような海である。
海賊船の船隊は船同士で衝突し、入り江から撤退した。
衝突は軽い物でしかない。
そうなるように、シーアが船の配置を指示した。
無傷で撤退したのでは北の台地も納得しない。
港から見れば隊列状になった船隊は大きな損害を被ったように見えたが、実際は一日もあれば修繕出来るような破損でしかない。
北の台地と深い取引をしたであろう船も、その流れに従わざるを得なかった。
シーアもそこまで親切にしてやる義理はなかったが、無益な流血を好まない方針の連中である。
海王の教えに従い、恨みを買うよりは恩を売る事を選んだのである。
「セド爺達は?」
「とっくに帰ったぞ」
「くそ、あいつら……」
文句の一つも言ってやろうと思っていたのに。逃げたな。
物騒な表情になった彼女にその思想をやめさせるようにレオンは口を開いた。
「船長から褒美をもらった」
ギルから「好きに使え」という伝言とともに受け取った物である。
唐突に告げるレオンに、シーアは訝しむような目を向けた。
「ウォルターから? え、お前に? なんでお前がもらうんだよ」
レオンが海王を船長と呼ぶのは乗船していた時の名残であり、そう呼ぶ事を彼自身が気に入っていた。
シーアは不満そうに口を曲げたが「こいつも頑張ってるもんな」と思い直す。
「ま、たまにはお前もご褒美もらってもいいか。で? 何もらったんだよ?」
レオンは「帰ったら見せてやる」と言うだけで詳細は語らなかった。
ちなみにこの会話の最中、彼は床にひざまづいて湯に浸かったシーアの爪先を凍傷予防のため揉んでは広げ、足首を回してやっていた。
「冷めて来たな。変えるか」
桶の湯に手を入れていたレオンが呟くとシーアは首を振った。
「いや、もう大丈夫そうだ」
レオンは彼女の足を取ると、湯を拭いてから丁寧に毛布に包んでやる。細い足首がしっかりと温まっているのを確認して安堵した。
一国の国王ともあろう者がずいぶんと甲斐甲斐しい。
「王様に足を拭かせるなんて重罪だな」
シーアは悪びれもせずに、軽口を叩く。
その距離感は、船で組んで仕事をしていた頃と変わらなかった。
「それだけの働きをしたんだ、誰も文句は言うまい」
彼女を見上げたレオンも喉で笑った。
そんな彼に、シーアはいつものように言う。
「仕事だからな」
戸口にもたれて呆れつつ二人のやり取りを見るともなしに見ていたグレイは、それを聞いた瞬間、体の深いところに泥のような塊がわき出したのを感じた。
ふつふつと沸き起こるのは苛立ちなのか、どす黒い吐き気のような物でもあり、圧力をも感じる。
とにかく無性に腹が立った。
発散すべく握った拳の側面を壁に叩きつける。
「どうした?」
鈍い音に二人が彼を見やった。
「なんでもねぇよ」
この女の茶番に反吐が出そうだ。
グレイはかつてないほど憮然とした表情で吐き捨てるように答え、シーアはそんな彼を静かな目で見つめた。
何を考えているか分からないその視線が、一層彼を苛立たせる。
「俺もお友達迎えに行ってくるわ」
このままここにいたら不愉快な思いしかしない。
ジェイドにくっついて経理の婆ちゃんを迎えに行く方がずっとマシだと思った。
「ああ、だったら伝言を頼みたいんだけど」
身を起こそうとするシーアを制して、レオンは寝台の脇机からペンを取る。
短い伝言だった。
その位は覚えられる、と思ったが苛々としたこの状態ではレオンに書き取らせるのは正解だと思われた。
「リザと一緒に戻りたいところだけど、先に帰らせてもらうわ。レオン、今夜の晩さん会は予定通りやるんだろ? わたしも出る」
レオンは盛大に顔をしかめた。
「何言ってんだお前、寝とけよ」
グレイでさえ、唖然として言ったほどである。
そんな男二人に、シーアは笑む。
それはいつもの、意地の悪い笑みだった。
「いやいや、ご心配をおかけした王弟陛下にはご挨拶しときたいじゃないか」
「本当に怪我はしてないんだな?」
レオンがそれを尋ねるのは二度目の事だった。
夜会に出ると言い出した婚約者の状態を確かめる。
「やめろ」と言った所で簡単に聞きはしない婚約者だ。
怪我でもあれば、説得が容易になる。
レオンは体温を確かめるように頬、首筋へと手を移動させた。
彼女の髪は潮水から上がったままなので、いくつもの小さな束になって固まっていた。
シーアは小さな羽虫が顔のまわりを飛ぶのが不快だとでもいうように顔をしかめて首を振った。
両腕は毛布の中なので動けなかった。
もういい加減この状態から解放されてもいいだろう。
シーアはごそごそと動き出しだしながら、上半身を起こす。
「怪我はしてないって。なぁ?」
出て行こうとしたところへ声を寄越されたグレイは、顔を陰らせる。
嫌な予感しかしなかった。
「そいつに聞いてくれ。着替え手伝ってもらったからさ」
グレイは武骨な手を己の額に当てこめかみをもむ仕草をしながら、眉間にかつてないほど深い皺を寄せて目を固く閉じた。
両手の拳で壁を叩きたい気分だった。
「お前……」
黙っていたいのが本音だったが、後で知れた場合、より問題が大きくなるのは目に見えていた。
疚しい気持ちはないし、なにか見た訳ではない。
それでも慎重に言葉を選び、絶好のタイミングで報告する予定だったというのに。
すべてぶち壊しだ━━━
空気がおかしくなったのでシーアは面倒くさそうに口を開いた。
「こっちは死にかけてるんだぞ、ぐだぐだ言ってる場合じゃないんだからお前ももう気にするなって、なぁレオ」
グレイを気遣うように言って同意を求めて国王を見やったシーアは、最後まで言葉を発する事は出来なかった。
視線の先でレオンがこれまで見た事もないような冷え冷えとした、難しいとも厳しいとも言える表情をしていたからだ。
野性味を感じさせる精悍な顔立ちがそういった表情を浮かべると、シーアでさえも動揺を隠せなかった。
気遣ったつもりなのだろうか。
それともさっさと保護しなかった事への意趣返しなのか。
惚れた女が他の男に着替えの手を借りて、平気でいられる男がいると思うのか。
いや、もしかしたらいるのかもしれない。
彼女の養父である海王はそうなのかもしれない。
だが、断じてこの男はそんな男ではない。
幸いレオンは状況を理解出来る人間であり、グレイを詰るような男ではなかった。
グレイは内心頭を抱えながら説明しようと振り返ろうとした時、室内に「ぎゃあ」とも「わあ」とも言えない、あられもない悲鳴が響いた。
ぎょっとして振り返ったそこで、寝台の上で国王に圧し掛かられた蛹がのたうちまわるように激しく蠢いているのを見た。
「おま、ちょ、待て━━何すんだ」
シーアが咄嗟に毛布から出した右腕でレオンの肩を押し返しながら何か喚いている。
自由に動けない女の唇を奪うとか、さすがにそれはえげつないだろ。
主君であり、昔なじみ男の暴挙に思わずたじろぐ。
本当にこの男は━━
「おっまえ、弱って動けない人間に何するんだ、この馬鹿!」
「頑張った婚約者へのご褒美だ」
シーアは憤然と抗議したが、レオンはどこ吹く風で受け流す。
国王の暴挙は未遂に終わったようだった。
嫌がらせに過ぎなかったらしい。
毛布から解放されようともがくシーアの頭にレオンはなだめるようにぽんぽんと手を乗せ、シーアはそんな彼を嫌なものでも見るような目つきで睨む。
「なぁ、お前ホントもう諦めたら?」
グレイの呆れ果てたような声は、意外なことにシーアに向けられていた。
一瞬ぽかんと口を開けたシーアだったが、次に憤怒に彩られた形相でグレイを睨み付けた。
「こっの裏切りもん! てめぇだって常識で考えろっつったじゃねーか!」
彼女は普段上品とはいえない言葉遣いだが、口調は意外というほど穏やかだ。
あまり驚いたり、慌てたりという事もない。
いつも憎たらしいほど、飄々と、泰然としているのが海姫という女だった。
それがこうも激高しているのは実に珍しく、グレイなどは初めてお目にかかる物だった。
グレイはハッと大げさなほど鼻で笑った。
「あんな常識はずれな事しといて何言ってやがる。てめーが常識語るんじゃねーよ」
あれだけの非常識を見せておいて。
気迫みなぎる瞳を見てグレイは内心「よし」と頷く。無鉄砲な半商半賊の体力も回復したようだ。
「じゃ、行ってくるわ」
付き合いきれない。
シーアはまだ何か言い足りないような、それでいて助けを乞うような顔で何か言いかけたが、気付かないふりをして扉を閉めた。
いい気味だ。
少しだけ気分が晴れた。




