8、そうだ、チーズ買いに行こう その2
後は地元の騎馬隊の仕事だと判断したグレイは剣を収め、シーアも短剣をいずこかへと仕舞うとカリナの横に腰を下ろした。
「もう大丈夫。止めるよ」
そう言いながら左腕を後ろから回し、抱きしめるような体勢で少女の手の上から手綱を握ると馬を止めた。
それから、安心させるように左手でぽんぽんと金色の頭に手を乗せた。
「よくやった。ああ━━手袋しとけばよかったね」
シーアは恐怖と緊張で強張り、固く握られたままの手をそっと外してやりながら掌の皮が剥げているのに気付いて済まなさそうに言った。
緊張が少しずつ解けると同時に手が震えた。
それと同時に傷ついた自分の手を見て「昔は平気だったのに、ずいぶんとか弱くなってしまったものだ」とぼんやりと考えて、カリナは無性に情けなくなった。
「相変わらずお頭の矢はよく鳴る」
「だったらもっと早く来い!」
怒鳴るグレイを、山賊を全員縛り上げた騎馬隊の面々はにやにやと嬉しそうに眺める。
鏑矢の合図で場所と進行方向を示された彼等は、もともと山賊からの護衛をしていただけあって仕事は早かった。
「お前らが使えねぇから俺が来る羽目になったじゃねぇか」
「いやぁ、俺らの前にはなかなか現れてくれなかったんすよ」
グレイは騎馬隊の制服に身を包んだかつての仕事仲間に当たったが、彼等も慣れたものでどこ吹く風で応じた。
言っても効果がないのを把握しているグレイはそちらへの文句を早々に切り上げ、本命を振り返る。
「この馬鹿ども!お前ら始めからお嬢さん使う気だったな!?」
シーアとジェイドに矛先を変えて怒鳴った。
「だってわたし馬車あんまり上手くないし、ごつい山賊相手に殴り合いも自信無いからさー。後ろから乗り込まれたらカリナを守り切る自信無かったんだよ」
「わたし、馬車なら慣れてますっ」
「俺はどこでも……まぁ後ろを守るのが順当かと……」
悪びれないシーアと、頑張って主張するカリナと、小さく続くジェイドに、グレイは怒りのあまり口を噤んだ。
三人は始めからそのつもりだったのだ。
そして認めるのは本当に癪ではあったが、それは理にかなった役割分担である。
このように思い切った事を画策するのは、海姫と呼ばれるこの女の経験と、自信があってこそなのだろうが。
「仲間外れにしたのは悪いと思うけど、言ったら絶対反対しただろ?」
珍しく困ったような顔で言うシーア。その様子がグレイを一層苛立たせた。
男だったら確実に殴ってる。
グレイは恐ろしい形相でシーアを睨みながら、場を取りなそうと懸命に気を遣っておろおろしているカリナの手に布を巻いてやったのだった。
「久し振りなんだろ? みんなと飲んできたらいいのに」
憮然とした表情を崩さないグレイに、シーアはその表情をまるで気にしていない様子で軽く言った。
あんな事の後でなければ、「気の利いた、いい女じゃないか」と彼女の評価を上げてもいいところだが、いかんせん今態度を崩すのは彼の矜持が許さなかった。
「仕事で来てるんだよ」
苛ただしげに言って今夜の宿泊先までしっかり同行したグレイだったが、古城の玄関ホールまで出迎えに出た女主人と侍女に、そこで少しだけ表情を和らげた。
「お久し振り、グレイ。よく来てくれたわね」
そう言って笑顔で出迎えたのは、すらりとした体躯を質素なワンピースに身を包んだ薄化粧の女性。
この古城の主人であり、国王レオニーク・バルトンの実母であった。
「こちらが黒真珠さん?」
彼女が続けて発したそれは「一行の中に他に該当者はいないが、一応念のため」━━そんな、少し遠慮を感じられる口振りだった。
「あ、はい。黒真珠でっす」
そんな国母からの問いかけに、シーアは恐ろしく軽くそう答えたのだった。
「おばさんも元気そうで安心したよ」
小柄で少しふくよかな侍女と並んで歩きながら、グレイは親し気な口調で言った。
仕事中の護衛隊員二名は遠慮したがったが、夕食は全員で取ることになり、グレイは食堂に通されながら中年の侍女と気安い様子で会話していた。
国母たるレオンの母親とこの侍女の二人が暮らすこの古城を、グレイの昔の仕事仲間と王城から派遣された者が警備を担当している。
夕食はそんな二人の女性の手作りで、食事のみならず、他の家事も全て二人で行っていた。
国王の実母ということでカリナは相当緊張していたが、そんな話を聞いて少しだけ安心したようだった。
通された食堂は広く、家具は高級な物が並んでいたが、食事はナイフとフォークを交換する事もなく最後まで終わらせるという一般家庭と同じ様式で、それは貴族出身者がいない一行に気を遣ったという事もなく、普段から二人はそうした質素な暮らしを送っていた。
「あ」
侍女に運ばれた料理を見てシーアが声を上げる。
「お嫌いなものでもありましたか?」
気遣わし気に尋ねる侍女にシーアは慌てた様子で首を振り、彼女を見上げると晴れやかに笑う。
その笑顔はまるで子供のようだった。
「昔レオンに作ってもらった料理だ」
驚くほど無邪気な彼女の笑顔に、空色の瞳を細めた侍女もまた嬉しそうにほほ笑んだ。
レオンの母親と同年代に見えるこの侍女も、レオンがここで過ごした頃から国母に仕えているのだとグレイから聞かされており、彼女達の料理は北方出身のグレイやカリナ、ジェイドのみならず、シーアにとっても懐かしい味であった。
翌日、カリナの生家までは少し離れているため朝から古城を出発する。
酪農家の家を訪ねるため、今日も荷馬車での移動となった。
事前にカリナに外で火をおこしていいかと確認していたシーアは、上機嫌で道すがらチーズとソーセージを購入した。
カリナの生家は小さな石造りの、この地方ではごく一般的な家だった。
馬車を降り、三年振りになる景色を見渡して少女は自然と表情をほころばせる。
どこまでも続く斜面のはるか向こうの羊の群れらしき点の集合に向かって大きく手を振った。
「姉と弟です」
彼女はそう言ったが、海育ちで目がいいはずのシーアにも、人らしき点は見えても性別までは分からなかった。
感動の再会の邪魔をするつもりはなかった。
シーアは木々を焼いた跡を見つけるとカリナに許可を取り、そこで火の準備を始める。
火をおこすにはコツがあるが、彼女のあまりの手際の良さにグレイは呆れた。
「実に庶民的な婚約者様だな。こんな野生児が国王の婚約者とは、笑わせる」
「お前達には無理を言ったからな。お詫びにレオンからせしめて来てやったぞ」
そう言って取り出したのは、酒瓶。
「……黙って持って来たのか」
「まっさかぁ、ちゃんと聞いてここのチーズに合うのを持たせてもらったぞ」
シーアは弾むような口調で言って笑った。
滅多にない、けれどここぞとばかりの婚約者のおねだりに、国王は頷くしかなかったのだった。
「浮気はしないように」そう軽い口調で本心を述べつつ棚から酒を選んでやった。
「今そんな事したら契約違反だろうが。わたしがそんな真似すると思うか?」
見くびるなと言わんばかりに返され、安心と落胆の入り混じった複雑な感情を抱く。
彼女がグレイを気に入っている事に国王は気付いていた。
もちろん人として、であるが、だからこそ「身の安全を確保するため」に彼の寝室を狙わないとも限らない。
奔放な婚約者を国王は時折持てあましていた。
カリナの姉弟が戻り、三人は家へと向かう。
さっすが、姉ちゃんも可愛いなぁ。
シーアはこちらに向かって会釈したカリナの姉を見て口元を緩めた。
それとはなしにその背を見送り━━━手を止める。
作業の手を止め、体を起こしたシーアの様子に気付いたグレイがその視線の先を追い、そこでカリナが老父に締め出される光景を見た。
「おじいちゃん!」
木の簡素な扉を叩き、カリナは声を張る。
「おい」
黙ってそちらへ足を向けるシーアをグレイが低い声で呼び止めたが、彼女は止まらなかった。
「おい」
再度呼び止められ、やや強い力で肩をつかまれる。
「蹴破ったりしないって」
シーアはカリナに視線を向けたまま、グレイの手をすり抜けて行った。
ドアに両手の拳を当てたカリナの背後に近寄れば、困ったように振り返る彼女。
何か言いかけるが、代わりに涙が零れた。
ドアが開いて姉が同じように困った顔で出てくる。
カリナの祖父は、会いたくないという。帰れと、言うのだと。
国王レオニーク・バルトンにつき従うオズワルド・クロフォードがカリナの父親と知り合ったのは、先代の国王が崩御する以前の事だ。
北方貴族に招かれ、狩りの行事に訪れた。
不慣れな北の大地にて斜面を滑落したオズワルドを救助したのが、羊飼いであるカリナの父親であった。
怪我を負ったオズワルドを自宅へ連れ帰ったのが始まりだった。
羊飼いは彼の両親と、カリナ達四人の七人で暮らしていた。カリナの母はすでに亡かった。
「カリナは本当に賢いな」
親交を深めるうちにオズワルドはカリナの知能の高さに気付き、訪れるたびに本を贈り、言葉や数字を教えるようになった。
息子しかいない彼は、自分になついた2人の娘達を可愛がった。
その後、国王が崩御。
国が乱れる中、親交は途絶えた。
レオンが帰国後、彼の母の元を使いで訪れた際、羊飼いの家にも寄ったオズワルドはそこで友とその母親が事故で亡くなったことを知った。
残された老翁と孫4人の生活は第一子である長男が働けるようになったとはいえ苦しく、12歳だったカリナはオズワルドに王都にて徒弟として働くことを希望した。
彼女の才知を知る彼は後見人となる事を了承したのだった。
シーアは声を殺して涙するカリナの肩をそっと抱くと、優しく胸に引き寄せた。
そんなシーアの様子に心を許したカリナの姉は、妹にも聞かせるようにシーアに向かって口を開く。
「お爺ちゃんはカリナにそんな苦労はさせたくなかったけど、カリナは強引に出稼ぎに出て、養女になったから、今顔を合わせたらつらくなるんじゃないかって気にしてるんです。養女として上手くいってるならそれでいいって」
シーアは木の扉を見詰めたまま黙って聞いていた。
「話をさせてもらってもいいかな」
返事を待たず、カリナを姉に託す。
右手でそっと木の扉に触れると、シーアは静かに声をかけた。
「ずっと戻ってないって聞いて無理に連れてきたのはわたしなんだ。すまない。あの子を責めないでやってくれ」
シーアはゆっくりと話し始めた。
それからシーアは独白のように言いたいことを言いたいだけ述べ、話の終了を伝えるつもりで沈黙する。
内部で人が動く気配を悟って扉から離れれば、ややあって扉は開かれた。
おずおずと姿を現した老翁は、新たに涙を溢れさせたカリナを抱きしめたのだった。
「お前、何言ったんだよ」
抱き合い、家に入る彼等を背に焚火に戻ったシーアに、グレイは怪訝そうに尋ねた。
「大したことじゃないよ。先は長くないんだから今のうちに会っとけ、みたいな?」
ひでぇ。身も蓋もねぇ━━
普段あまり表情の変わらないジェイドでさえ少しだけ目を眇め、グレイは聞くんじゃなかったと思った。
こんな女とこれから酒盛りとか、出来る気がしない。
そうは思ったが、癖のあるチーズと、シーアが持参していた炭で焼いたソーセージ、そして何より王室御用達の酒。
シーアの持参した酒は三本。
「グレイは大酒飲みだから」と国王が気を利かせた。
シーアとグレイの好みを考慮しつつ、チーズに合うものを選んだ国王の功績は大きい。おかげで二人の酒宴は食を楽しむ事で思いのほか滞りなく執り行われたのだから。
若いジェイドは酒に強い方ではなく、任務に差し支えるからと酒量はかなり控えめだった。その代わり、よく食べた。
「お前、細いのによく食うなー。もっと買っときゃ良かったな」
それはシーアが感心するほどで、カリナの姉が差し入れにパンを届けてくれたのが本当にありがたかった。
「あいつはもうずっとこんな事してないんだろうな」
炎を見詰めたままシーアは不意に呟き、その思いがけない発言に完全に不意を突かれたグレイは思わずむせ込む羽目に陥った。
あの時カリナは姉に抱かれながらシーアの言葉を聞いた。
「なぁ、爺さん、部外者のわたしが言うことじゃないんだけどさ、今のうちに会ってやってくれないかな。爺さんもあの子の為を思ってのことなんだろうけどさ」
扉の向こうに人の動く気配が無いことが、話を聞いているもの受け止めてシーアは続ける。
「最近わたしは父を亡くしてね。ほんとに突然のことでさ、もっと話しとけば良かったとか、もっと色々してやりたかったとか、すごい考えたよ。誰でもいつどうなるかなんて分かんないだろ。あんたに何かあったら、あの子は苦しむことになると思わないか? あの子は王都ですごい頑張ってるよ。そんなあの子に、わたしみたいな思いはさせないでやってほしいんだ」
彼女のそれは、とても穏やかな声だった。
グレイは機を見てカリナに尋ねた。
「あいつ、なんかとんでもない事言ったんだって?」
聞かれたカリナは首をかしげた。
「とんでもない、と言えばそうなのでしょうか……」
戸惑い気味に内容を説明してから、最後に心底困惑した顔になる。
「シーア様の御父君は……」
グレイは額に手を当てて唸った。
確かに一度は死んだとされていたが。
「若い嫁さんもらって元気にやってるはずだな」
祖父や姉にシーアの身分を尋ねられたカリナは説明に大変苦慮した。
国王の婚約者であり、その父君は海王でご健在、などと口が裂けても言えなかったのである。