1、めんどくさい
「海王にお目通り願いた」
「よく間違えられるんですけど、人違いです」
少女は旅装束姿の男が言い終わる前に答えた。
ひそめられた声は緊張を孕んだかたい声ではあったが、低く響くそれは耳に残るようないい声だった。
頭からフードをすっぽりと被ったその男。あまり手入れされず伸びたままの暗い色の髪、口元には無精ひげ。
しかしそんな風貌をしていようとも、その顔立ちは思わず眉を顰めるほど整っている。
乗って来た小舟のもやい綱を桟橋に結ぼうとロープを投げれば、海を見つめるように立っていた旅装束の彼が素早く結びつけてくれた。
たまたま船を待っていた旅人が気まぐれに小娘に手を貸したのか、それとも自分が何者であるか知っての接触なのか。
そう警戒しながら礼を述べてみたところ、答えは後者だったようだ。
船と桟橋の高低差から自然と見上げる体勢になると、フードに隠そうとしている顔が容易に見て取れる。
強い意志を宿した青い瞳が静かに少女を見つめていた。
声からしてそうだとは思ったが、やはりまだまだ若い。
色男はひげ面でも男前ってか。
咄嗟に舌打ちしたい衝動に駆られた少女には、自分の顔が地味だという自覚があった。
きつい印象のある切れ長の目だけが特徴的ではあるが、薄い唇に低めの鼻と黒髪。これといって特徴のない自分に男は確信をもって声を掛けてきた。
地味で覚えられにくい顔はこの職業ではとても都合がよく、実は本人は割と気に入っているほどである。
港には少数とは言え彼女のような若い娘も働いているというのに、「海王」の関係者だと看破して接触してきた男。
それなりの情報源があっての事だと思われた。
厄介な、相手か。
さっさと離れるのが賢明だと判断した少女は、慣れた様子で身軽に桟橋に上がる。
そのまま港町へ足を向けるつもりだった。
少女の視線が反れる直前、相手は右手を己の腰元にやった。少女は危険を察して咄嗟に身構えたが、男は年季の入った短刀の柄ではなく重厚な細工の鞘を握って少女に示す。
緊迫した空気を発するのは少女の方だけで、男は敵意のない事を示すように柄をつかんだままのそれを再度見せつけるように寄せた。
一瞬の隙も与えない気構えで相手の瞳を食い付くように見つめていた少女だったが、男の真摯な瞳に根負けすると警戒を解かないまま一瞬視線をそちらに送る。
「……」
その柄頭には、今は存在しない王家の紋章があった。
5年前、王の崩御とともに議会制になった「オーシアン」。
世界でも屈指の港を持ち、貿易の盛んなそこは「海の国」とも称される。
海王と呼ばれる少女の養父ウォルター・ドレファン率いる半商半賊ドレファン一家も一目置く国の一つだったが、変革後の現在は方針を見定めるためにも距離を置いている。そして海王は現時点では極力関わり合いにはならない方がいいだろうという判断した。
少女は今度こそ思い切り眉を潜めた。
くっそ、なんだってわたし一人の時にこんな面倒に……
まだ自己判断できない未熟さに苛立ちが増す。
大仰に息をつき、少し逡巡し、黒い髪の頭をガシガシと掻いた。右肩に集めて垂らした三つ編みが跳ねた。
「めんどくさいなぁ」
それまで真剣な顔つきだった男は、少しだけ申し訳なさそうな顔をする。そんな表情に少女は諦めたように息をついた。
「明日、同じ時間にもう一回ここに来な」
言い捨てるように乱暴に告げ市場の方へと爪先を向ける少女。その華奢な背に、男は少し慌てたように声をかけた。
「いいのか? これ」
持って行かなくてもいいのかと言わんばかりの相手に、少女は内心呆れながら嫌そうに振り返った。
「それの真贋くらい見抜ける」
まるで「馬鹿にするな」とでも言うように顔をしかめると、少女は今度こそ小さな港町の人の流れに消えて行った。
嵐の海に漂う樽の中で赤ん坊が泣き叫んでいるのが発見されたのは15年前。
拾い上げたのは、何代も続く半商半賊のドレファン一家の若き頭領ウォルター・ドレファンだった。
波が荒く、航海の困難な海域の奥に位置する小さな孤島の頭領でもある。
食物は自給自足で事足りたが、物品確保とその為の外貨獲得のため大海に出るようになったのははるか昔の事。
荒れた時代もあった。
生きるために海賊・運輸業・傭兵業・商人と国や地域によって異なった認識をされるようになり、ドレファン一家の頭領はやがて代々「海王」と呼ばれるようになった。
海王ウォルター・ドレファンに拾われた赤ん坊は、よほど海の神に同情されたか愛されたのだろう。
海に生きる者はそう噂した。
乳飲み子のうちから船に揺られていたせいか、海の変化の察知に尋常ならざる能力を発揮した。
天候をつかみ、風をとらえ、潮を読む。
小舟であれば簡単に波に乗り、そうなれば誰もかなわなかった。
ドレファン一家が嵐で苦労する事はなくなった。
「海王のところの海姫さん」と揶揄されていた少女が、やがてその能力を正当に讃えられ、畏怖も尊敬もはらんで「海神の娘、海姫」と呼ばれるようになるのは、まだ少し先の話。
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