5
浮世離れした時間が終わったのは、昨日の朝のことだった。アルバイトも、真一に至っては学校も、風邪を三日間ひきこんだことにした二人だったが、最終的には真一の学校の単位を気にした諒子の言葉で雲隠れは終わった。
自分のことがよくわかった。自分が何を望んでいるのか、はっきりと見えた。真一の家を出た諒子は確かにそう思っていた。
だが今、諒子の気分を害しているのは昨夜の出来事だ。
昨夜、押しかけた彼氏を、諒子は追い帰すことに失敗した。それは逃れられない現実、とでも言うのだろうか。それとも真一に独白し続けた、あの三日間はやはり夢幻の時間だったとでも言うのだろうか。喉元で詰まってしまった拒絶の言葉を、今さら悔やむ事もできず、結局は元通りに戻った、いや元通りに戻ってしまった、何も変えることのできなかった世界を呪いながら、仕事に入る。
私の弱さが原因なのは、よくわかっているけどね。本心であるその言葉は、心の奥深くに眠らせたまま、諒子は劇的に変わることができたはずの、昨日までの一ヶ月を振り返り、今朝から幾度目かの落胆を吐き出した。
「なんか、落ちてないっすか、姉さん」
昼近く。同じレジに立ち、お客の流れを気にかけながらも、商品管理の業務を平行してこなしている健介が、こちらを見ずに声をかけたのは、ため息の直後だった。
「えっ?」
「テンション。さがりっぱなしですよ?」
片手に持った帳簿には、在庫の数でも書いてあるのだろうか。レジ脇に置かれた書類と帳簿とを見比べながら、それでも健介は諒子の様子を不思議なほど見透かしていた。
「そんなことないよ?」
「そうっすかねぇ、俺には」
悟られては困るのだ。そういう内容の悩みを抱えた諒子がとっさに表情を笑顔の仮面で覆ったことすら見透かしたのか、健介はそこで言葉を切った。帳簿とボールペンを書類の上に置き、初めて視線を向けて、こう続けた。
「好きな人ができたのに、告白できなくてため息ばかりついている、思春期の少女、みたいに思えましたけどね」
ぞくっ、と背筋を何かが走る感覚が、確かにあった。にもかかわらず、それを言った健介の顔は、例のごとく柔和な笑顔だった。
なに? なにを知ってるって言うの? 諒子が問うよりも健介がその場を離れる方が早かった。帳簿と書類をまとめて、そのまま事務所の方へ引っ込んでしまう。社員並の仕事をこなしている彼らしい動きだったが、その時の諒子には逃げられたような不快感だけが残った。
例えば、自分が不毛な男女関係を続けている、というプライベートを知っていたとしても、例えば、真一からあの浮世離れした三日間の話を聞いていたとしても、私の心情までは読めはしないはずだ。諒子は、全力で健介の言葉の意味を推し量った。ただ単に勘ぐっただけなのか。ならばどこまで知っているのか。気になって仕事など手につかなかった。健介の言葉が、あまりにも的確に、諒子の心模様の中心を射抜いていたからだ。
この感覚がなければ、今このように不快な思いにかられなかったかもしれない。もしかしたら彼氏を追い帰すことに失敗したことさえも、悔やまなかったのではないか。そう思わせるほどの感情を、諒子は確かに抱くようになっていた。彼に言葉を聞いていて欲しい。彼がそばにいてほしい、という感情。
「おつかれーっす」
「あれ? お前学校は?」
「ああ、今日は休みでな」
健介と会話する声が聞こえる。事務所から出て、次第に近づいてくるその声に、諒子の身体は緊張した。
「おはようございますー」
レジの中に入ってきた、整った顔立ちと美しい栗毛の持ち主は、いつもと変わらぬ気だるげな挨拶を諒子に向けた。