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「明日来ても、私いないからね」
「は?」
いつもと同じ夜、いつものように孤独がやってこようとしているそのときに、諒子はそう口にしてみた。ためしに言ってみようと思ったのだった。自分の彼氏と名乗る男はどんな反応をするのか。少し見てみたかった。
「なんで?」
「明日、バイト先の飲み会に出て来るから」
素肌の背中越しに、身支度を整えた男が大きなため息を吐き出すのがわかった。それは突然拒絶されたわけではないことがわかった、という安堵のため息ではなく、明らかに、何をくだらないことを、という呆れの嘆息だった。
「ああ、そう」
それだけだった。男はそれだけ言い残すと、いつものように部屋を出て行った。
こんなものだ。私達はこんなもの。あの男は男性経験の多い私のことを、ただの遊び人としか思っておらず、自分もその評価に否定はない。事実経験は多いだろうし、恋愛そのものに『エイエンノシアワセ』などという幻想を抱いたりすることなど、もはやない。その結果がこの関係だ。彼は今ごろ、明日はどの女と遊ぶか、という算段に頭が忙しいはずだ。それをわかっていて、咎めることができないのは、自分が彼の中でどういう位置付けになっているのか、あまりにもよくわかっているから。わかりきっていることを試してみた自分の頭の悪さがほとほと嫌になる。
「それでもね、ちゃんと傷つくのよ」
タバコを灰皿に力任せに押し付けた諒子がその日、今までも連綿と続いてきた不毛な関係に、めずらしくいらだっていたのは、本人にもよく理解できていなかった。ただ非常に楽しみな気分を害された、それだけは確かだった。
「えー、とりあえず、新しく来た社員さんの歓迎会、ってことで、乾杯!」
赤城真一という男の奇妙さは、彼の持つ根拠のない自信とそれから生まれるカリスマ性にあるのだ、と諒子は思う。健介と同じ歳の彼は普段、基本的に酸素を吸うことすら気だるい、といったような雰囲気を醸し出しているのだが、いざと言うときの行動力は、常人をはるかに超えるほどのものだ。今回の飲み会のセッティングにしても、大学の方で、教授から依頼されたとかいう急な課題提出に負われた健介が何もできない中、たった一人で人数集めから店の手配まで行ったのだ。その間、わずか二日。ぎりぎりまでだらけていたとは思えない手際のよさだった。
「あいつに任せとけば、安心なんですよ」
課題をやっている途中で抜けてきた、という理由で、今日は珍しく眼鏡姿の健介など、そのカリスマ性に当てられているいい例だ。乾杯の音頭を取っている真一を指して、信頼しきっている、というような屈託のない笑みを諒子の見せる。私の弟にしては人が良過ぎる弟だわ、などと一瞬思ったものの、ああ、やっぱり『弟』止まりなんだな、などと気付いてみたりもする。
「あいつはすごい男ですよ。自分のやりたいこと以外にあまり興味を示さない『省エネタイプ』であることがタマニキズ、ですが」
面と向かっては褒めたりはしないくせに、健介はよく真一を褒める。幾度となく聞いた言葉に、はいはい、と相づちを打って、諒子は強めに割ったカクテルに手を伸ばす。
「あれ? 姉さんにしては珍しいですね?」
この年齢にして、健介は無類の酒好きだ。たいていのアルコールの強さは知っている、という表現は決して大げさではない。それゆえに諒子が普段は飲まない強めのリキュールを割っていることにすぐ気がついたらしい。目ざとい反応に諒子はくすり、と笑う。一瞬、彼女の頭を掠めたのは彼氏の顔だ。飲みたいときもある。ほとんど無意識に強い酒を選んでいた彼女が、ああ、そういうことなのか、と自分自身でも納得したのは、この瞬間だった。
「まあ、いろいろあるじゃない、ねえ?」
作った笑顔でも、どうにか内面を悟られないようにした諒子は、グラスを一気に煽った。それほどアルコールに強いわけではないので、一瞬広がる不快な感覚に顔をしかめたが、すぐに飲み込んでしまう。
一緒に飲み込んでしまえばいい。気にしなければいい。今までもそうだった。この先もそうなんだろう。その程度のことだ。
「今日は飲むよ!」
諒子は自分のグラスをたたきつけるように置くと、健介の掌中のビールジョッキを引っ手繰った。
自分がそれほどアルコールに強いわけではないことは、重々承知の上生きてきた。だから今日が『酒の上での失敗』の第一夜目、ということになる。
「まじで大丈夫っすか、姉さん?」
健介の肩にもたれかかっているのは理解できるのだが、それが右なのか左なのか、まったくわからない。とりあえず店から出てきていることは確かだが、どうやって出てきたのかも曖昧だ。
「ああ…… 大丈夫、大丈夫……」
言ってはみるものの、傍目にはただの酔っぱらいにしか見えないだろう。
ああ、最悪。彼氏と名乗る男にはぞんざいな扱いを受ける。だがそれを咎める勇気もない。自分の男性経験を振り返れば、そんな勇気も萎れて枯れる。だからといって、そのはけ口を酒に求め、酔いつぶれるとは。最悪、最低以外の、なにものでもない。
「とりあえず、駅まで送りますから。その先は一人で帰れますよね?」
耳元で響く健介の言葉が妙に優しい。ああ、私、弱ってるわ、本気で。諒子が初めて感じた瞬間だった。
それからしばらく、歩かされたようだった。周囲に人の気配が多くなったことから、おそらく最寄り駅まで来たのだろう。それはわかった。でも、自分で確認できるほど、意識がはっきりとしていない。
「おい、真一! 頼むよ!」
健介が叫んでいる。真一? 頼むよ? 何を頼む気なのか?
直後、寄りかかっている肩が、少し低くなった気がした。
「おお、じゃあまたな」
隣りで聞こえる声も変わった気がした。だが、それを判別するには、諒子の意識は重すぎた。次第に身体から力が抜けていくのを感じた。