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自分は他人より優れてなんていない。そんなことは、遠い昔から知っている。短い手足、そうそう整っているわけでもない、ありきたりの顔。高くもない背。それをそれなりに見せる技術は覚えたとしても、元が敵わないなら勝負のしようもないではないか。五体満足に生んでもらったこと、そのこと自体に喜びを表すことすら禁じられたかのような、誰かと比較することでしか価値観を見出せない世界。要するにこの世は、
「……生きづらいのよね、いちいち」
電車から降りるなり、伊東諒子はシガーケースを取り出した。仕事前に一服しておかなければ、働く気にもならない。
まあ、仕事といってもバイトだけどね、しょせん。そんな言葉を口の中で嘯いてみて、音となって溢れる前に、タバコで蓋をする。
朝、といっても世間的にはすでに昼近い時間。休日の今日ともなれば、駅構内にも、その近隣の小売店にも、自分より明らかに若い女たちが溢れている。中には男を連れたものも珍しくはない。皆、どんなにくだらない話でも、転がるように笑っている。幸せな風景だ。
ふっ、と小さく紫煙を吐き出して、諒子は少し歩を早めた。男も女も、しょせんは繁殖本能を優先する動物だろう。そんな風にしか思えないのは、自分の現状があまりにも現実的過ぎるからだということぐらいは、彼女自身、一番わかっている。
私だって、笑っていたいけどね。そうもいかないのよ、もう。まだ半ばほどのタバコを、腰から下げた筒状の携帯灰皿に気持ちごと押し込むと、眼前にある建物に入った。
二十代半ばまで、いくつかの仕事を渡り歩いた彼女の今の職場は、駅前の書店だ。駅前ビルの一、二階をまるまる占有するかなり巨大な規模のもので、客の入りもいい。
レジ打ちと雑用ぐらいだし。店も改装したばかりできれいだし。彼女がここを職場に選んだ理由はそんなところだ。事実、働きやすく、不満も特にない、理想的な職場だ。いや、理想的な職場だった、というべきなのかもしれない。今の彼女の重苦しい気分を考えるなら。
想像もしない弊害が生まれたのは一ヶ月ほど前のことだ。
「飲み会?」
「そうっす。歓迎会も兼ねて」
スタッフルームで帰りの支度をしている諒子にそんな話がかけられたのは四月に入ってすぐのことだった。ほぼ同時期に雇われたゆえに、この一年とりわけ親しくしている上杉健介が、例のごとく満面の笑顔を向けてくる。
「新しい社員も来た事だし、どうっすかね、姉さん?」
健介はまだ二十歳の学生だ。それゆえに年上である諒子のことを『姉さん』と呼んで慕っている。通っている大学は、名の通ったところらしいが、それをあまり感じさせないのは、こうやってことあるごとに企画を立案する、お祭りバカな印象が諒子の中であまりにも強いからだ。確かに仕事中の様子は『デキる男』と言えなくもないのだが。
「いいんじゃない? やるなら私も賛成よ?」
「まじっすか、じゃあばっちり企画しないといけないっすね」
基本的に顔のつくり自体が笑っているような健介が、再び満面の笑みを浮かべる。なんとも人懐っこい笑顔がなんとも憎めないが、まあ弟ぐらいかな、などと、諒子は頭の片隅でわずかに打算の電卓を叩いてみる。
そんなことを話していると、「おつかれさまでーす」という声が次々と聞こえるようになる。時刻は夕方を示していた。
「ああ、もうこんな時間か」
現代の小売業のほとんどがそうなのだろうが、昼間は諒子のようなフリーターたちが支え、夕方以降は暇な学生が支える、というのが現実だ。事実この店舗にも『社員』と呼ばれる存在は2、3人しか居らず、アルバイトはその倍近い人数がいる。そろそろ、その学生たちが出勤してくる時間なのだ。
「そういえば、あんた今日は何で昼間なの?」
「俺は、暇っすからね」
柔和な笑顔の奥、本当の所はどうなのかわからないが、まあ大学生などは自身が『暇』と認識すればいくらでも暇にできるものだ、ということは、短期大学に通っていた経験のある諒子にもなんとなくわかる。まあ、そんなところなのだろう。
「おつかれ……」
ちょうどそこに一人、男が姿を現した。ひどくけだるそうにタイムカードに手を伸ばすその顔は、あきらかに寝起きだ。だが、それでもなんとなく人を惹きつけるものがあるのは、非常に整った顔立ちをしているからだ。ジーンズに薄手のコート、という単純な格好だが、着こなしもいい。ただ惜しむらくはあまりにも生気を感じられないことだ。
「おいおい、死にかけか、真一?」
気怠い男に真一、と声をかけたのは健介だ。その表情はついさっきまで諒子に向けていた人懐っこいものとはまた違った、非常に楽しげなものに変わっている。
「ああ……」
発声さえままならない声で返事をする赤城真一は、非常にゆっくりした動きで自分のロッカーの前まで行き、コートを脱いだ。そして唯一制服と言えるエプロンをロッカーから引き出して、身に着けている。それだけで店頭に出る準備は終わったようだ。ロッカーには鏡もついているのだが、特に身なりを整えるわけでもなく、ぼーっとした表情のまま、スタッフルームを出て行こうとする。それについて、特に誰も何も言わないのは、彼のその様子がいつものことであり、そんな状態でも人並み以上に働く人間であることが知られているからだ。
「そんなことより、まあ聞けって」
健介もそれについて出て行ってしまう。おそらく今話した飲み会の企画を話すつもりなのだろう。性格的な印象は、完全に真逆な二人なのだが、あれで気が合うらしく、アルバイト間での行事は、あの二人が取り仕切っている。
「なんだろうね、あの二人は」
苦笑、というより微笑ましく二人を見つめた諒子のイメージこそ、他のすべての同僚が二人に抱くイメージそのものだった。