絶対に負けられない闘いがそこにはある
徹也は負けるわけにはいかなかった。
今日のメニューは白いご飯、ビーフシチュー、 牛乳、牛乳プリン。
白米に牛乳を合わせるという、普通に考えればおかしい組合せにも、小学4年生である徹也は不満をおぼえたりはしない。問題はそこではない。
牛乳があるのに、さらに牛乳プリンを重ねてくる給食業者はどんだけ牛乳推しなんだよ、そんなに小学生女子を巨乳に育てたいのか、などというツッコミも徹也の頭には浮かばない。4年生にもなると、小学生たちは長年食べてきた給食に飼いならされており、メニューに疑問をおぼえることなど皆無なのだ。
重要なのはそこではない。
牛乳プリンである。
牛乳プリンだけである。
牛乳プリン以外はどうでもいいのであった。
徹也の所属する4年3組は、ほぼ毎日、全員出席という健全なクラスだった。しかし、この日だけは偶然、出席番号1番の安藤がおたふく風邪で欠席していた。
加えて、牛乳プリンの「個別容器に入った既製食品であり、複数の生徒で分けることはできない」という性質。
そこから導かれる後の展開は1つしかない。
そう――給食ジャンケンである。
配膳台に1つだけ余った牛乳プリン。これをジャンケンにより奪い合う容赦なきサバイバルゲームである。
欠席した安藤のものなのだから家まで届けに行こう、などと言い出す輩はいない。そんなことを言えば、給食ジャンケンを希望する者たちからの、強烈な恨みを買うからだ。
4年3組の担任教師・谷川はメガネをかけた非力なひょろ男であり、それゆえに職員室の誰よりも平和を愛していた。しかし、彼でさえも、この『給食ジャンケン』という戦争についてだけは黙認していた。
生徒たちの不満が出ないように、余った給食の処遇を決定する方法は、給食ジャンケンの他にはないからである。
牛乳プリンが普通のプリンよりも優れている点は、栄養面でもプラスの効果がありそう、というところにある。
牛乳を原材料として用いているのだから、食べることで体が強く大きくなりそう、というイメージだ。
つまり、それを1個余計に食べられるということは、成長期の少年たちにとって、将来的な肉体強度が保証されるということになる。
そしてご存知のように、肉体の強さとは小学生にとって絶対である。
強き者はジャイアンになり、弱き者はのび太になる。
表面上はあからさまな上下の支配構造が見て取れない場合であっても、肉体の強い小学生が弱い小学生に対し、あらゆる面で優位に立てるのは事実だ。
体の強さで自分の属する階層が決まる。支配するのか、あるいは支配されるのか。つまり、小学4年生にとって牛乳プリンの奪い合いとは、屈強な肉体の奪い合いであり、階級闘争でもあるのだ。
徹也は息を飲む。この給食ジャンケンの意味はあまりにも大きい。絶対に、負けるわけにはいかない!
徹也が負けられない理由はもう1つある。雪子がこの闘いを見ていることだ。
吉永雪子は幼稚園からの幼なじみだ。
小学3年生のときまでは、徹也にとって雪子はただの幼なじみでしかなかった。しかし、4年生にあがった頃から、徹也にとって雪子の存在が少しずつ変化していった。
ただの幼なじみ。それまで本当になんとも思ってなかったはずなのに、今はアイツの視線が気になる。どこか意識してしまっている。
徹也にはこの感情が分からなかった。もしかして恋なのかと疑ったこともある。でも、結論は出なかった。
何も分からないまま、2学期の席替えでは、徹也は雪子の隣の席になった。思わぬ事態に喜んでいいのか困惑していいのか、気持ちの整理もつかないままに、これまでと変わらないフリをして雪子に接し続けている。
徹也は思う。
この気持ちの正体なんて、分からないままでいい。
ただ、自分は雪子にカッコ悪いところを見せたくない、だから頑張る。
それでいいんだと。
配膳台の周囲に、徹也をはじめとした給食ジャンケン参加者が集結した。
集まった猛者たちは、既に自分の分の牛乳プリンは完食している。デザートであるはずの牛乳プリンを、メインディッシュであるビーフシチューよりも早く食べ終えたのだ。
奪い合う対象を完食し、それでも足りないと感じる者のみが給食ジャンケンに参加できる。それが4年3組における暗黙のルールであった。
恐れることなく戦場に足を踏み入れたのは、徹也の他には5人の猛者たちだ。牛乳プリンに飢えた5人の獣たち。徹也は、その体が武者震いするのを感じた。
退くわけにはいかない。雪子が見ている。
獣たちと軽く視線を交わすと、徹也はこっそり雪子の席を振り返った。
雪子はビーフシチューにがっついていた。
皿を左手で持ち上げて、右手の先割れスプーンはフル回転。ものすごい勢いでビーフシチューを食べて……いや、“飲んで”いた。
雪子の目は大きく見開かれ、飲みこむ表情は真剣そのものだった。もう1匹の獣がここにいた。
徹也は見なかったことにした。先ほどの映像を脳から消去。振り返るのをやめて、目前の給食ジャンケンに集中する。
勝つべき相手は5人。
しかし、5人みな平等に驚異というわけではない。
下校途中のランドセル運びジャンケン、ドッジボールの先攻決めなど、ありとあらゆるジャンケンにおいて高い勝率を誇ってきた徹也にとって、ただのザコ生徒は眼中になかった。
問題なのは、ただ1人。
――因縁のライバル、斎藤夜騎士(読みは「サイトウ・ナイト」)である。
斎藤夜騎士は現代の小学生には珍しくないキラキラネーム(これまでの時代では考えがたい奇抜な名前のこと。それでいて苗字は普通だったりするので、苗字と名前のギャップがなんともいえない妙味を生み出すことがある。また、名前が奇抜なのは育ちが悪いせいであるとして、受験や就職において差別が生じるなど、社会問題の一端にもなっている。)の持ち主であった。
キラキラネームの持ち主は、将来的にはともかく、小学4年生にとってカッコイイ……と内心憧れを抱かれる存在である。徹也も自分のライバルが「ナイト」という立派な名前を有していることに、少なからず誇りを感じていた。
徹也と夜騎士、ここまでの戦績は徹也の17勝46敗。
徹也は大きく負け越していた。
そのせいか、夜騎士不在のジャンケン勝負では勝率90%を誇る徹也でも、夜騎士との勝負には苦手意識があった。
過去の敗戦が頭をよぎる。
徹也は首を振った。
余計なことは考えるな、今の自分に自信を持て。
雪子が見ている。
とにかく今日は、勝つしかないんだ!
「さぁ、始めようか」
夜騎士が口を開いた。場の空気が清澄さを増す。
徹也以外の獣たちも、夜騎士の強さは充分に認めている。夜騎士が言葉を発したというだけで、全員が警戒レベルを高めた。
まずいな……と徹也は感じた。給食ジャンケンの場は、既に夜騎士のペースになりつつある。
このままいけば、「最初はグー」の発声をするのも夜騎士ということになるだろう。全てが夜騎士の主導で進めば、結果も夜騎士の思うがままになる可能性が高い。
徹也はここで自分が一言を挟み、夜騎士のリズムを崩そうと動く。
――その、瞬前である。
「最初はあああああああああああ!!?」
不意をつく夜騎士の大音声である。
その場にいる誰もが思った。馬鹿な、もう開始か、いくらなんでも早過ぎると。
しかしジャンケンとは、開始の発声がなされてしまえば、他はそれに従うしかない競技。
仕方なく、全員が手を考える。ここまで全て、夜騎士の思うままだった。
――そして、ここで全員の脳裏に浮かび上がる「最初は」という夜騎士の発声。
そう、夜騎士主導の流れを止めることは可能なのだ。
その方法とはパーを出すことである。
「最初はグー」の段階であえてパーを出す――無論、「最初はパー」を出すことでグーを出した他の獣たちに勝利する、というわけにはいかない。
「最初はグー」とはジャンケン参加者全員の手を出すタイミングを一度合わせるための行為、つまり練習である。通常ここでパーを出したとしても「はぁ?最初はグーだろ。何を古いネタやってんだよオイオイ空気読めよ~」と、場を白けさせるだけだ。
しかし、ここでは場を白けさせることが大きな意味を持つ。
リセット。
パーを出し、場を白けさせ、全員で最初から仕切りなおしに入る。
その過程で夜騎士優位の雰囲気は崩れ、主導権争いはふりだしに戻る。
つまり、ここでパーを出すことは、夜騎士以外のジャンケン参加者にとって、最適な戦略だといえた。
「最初は」の発声を夜騎士がしてから、わずか0.02秒。
ジャンケン参加者全員が、その結論に到達していた。
夜騎士、徹也に比べれば格が落ちる他のジャンケン参加者たちも、歴戦の勇士たちには違いない。彼らの卓越した状況判断能力が、全員を横並びの結論へと至らせた。
そして、思い至ってから決断するまで、無意味な逡巡をおぼえるほど彼らは未熟ではない。
「「「「パー!!!!」」」」
大きく響く「パー」の発声。
掟破りの「最初はパー」が、これ以上なく堂々と宣言された。
しかも、パーを出したのは1人ではない。4人だ。暗黙のルールである「最初はグー」に、6人中4人がパーを出すという異常事態である。
通常のジャンケンでは絶対に起こり得ないはずの、最初はパーが4つ並ぶ光景。
しかし、給食ジャンケンを見つめる他のクラスメイト達が驚いたのは、そのことについてではなかった。
その場で真に注目すべきは――残りの2人がチョキを出しているという事実だった。
差し出された2つのチョキ、そして4つのパー。
チョキの手は他の4人に対し、確かに勝利していた。
チョキを出したのは、徹也と夜騎士だった。
4つの手のひらが凍りついていた。
パーを出したのは、牧田邦弘、国見翔、早川玩駄無、原口斗真斗の4人。そのうち2人はキラキラネームだった。
それぞれ豪腕の邦弘、神速の翔、機動戦士の玩駄無、赤い彗星のような斗真斗という二つ名を有していた。
二つ名は誰もが持てるわけではなく、給食ジャンケンやドッジボールなどで名をあげた者しか名乗ることが許されない。武功を立てた者のみが名乗ることを許される、そんな空気が小学4年生の間にはあるのだ。
彼ら4人は、全員が二つ名を名乗る資格を有していた。4人とも、それほどの実力者たちだったのだ。
その4人が、凍りついたまま動かない……!
パーを出したまま固まっている。
「ナ、夜騎士……」
静止状態から最初に口を開いたのは、神速の翔だった。
夜騎士はニヤリと笑うとたった一言、冷たく言い放った。
「敗者は速やかに去りな」
「ふ……ふざけるなっ!」食ってかかるのは、豪腕の邦弘。「こんなものは無効だ!認められるわけがない!無効!やり直し!そう、最初からやり直しだっ!」
物言い――である。
どよめく教室。給食ジャンケンは、参加者たちの紳士的取り決めによって秩序が保たれていた。そのため、このように無効だやり直しだとケチがつくことは少なかった。
「無効だって?いくら豪腕と呼ばれたお前でも、ジャンケンの結果を覆すことは許されねえだろ?チョキはパーに勝つ。子どもでも知ってる事実だ」
そう言い返したのは、徹也だった。
しかし、ここですんなり引き下がるようでは、邦弘も豪腕と呼ばれていない。
「馬鹿な!こんなことは許されない……だっておかしいだろ!最初はって、最初はって言っただろ夜騎士!ええ?言っただろ!?最初はグーに決まってる!そこでチョキだのパーだの出したって、それで勝敗が決まっていいはずがない!」
まくし立てる邦弘に対し、夜騎士は不敵な笑顔で言った。
「最初はグーに決まってる、だって?それならなぜ、お前ら4人はパーを出したんだ?」
「ぐっ……」
言葉に詰まる豪腕の邦弘。夜騎士はさらに続ける。
「ルールを壊さず素直にグーを出した者には、ルール違反を問う権利があるだろうよ。しかし、お前らにはねぇよ!お前たち4人は、自らルールを壊したのさ。お前たちがパーを出した時点で、『最初はグーは、全員がグーを出して呼吸をそろえるための予行練習であり本番ではない』というルールを自ら否定した。最初はグーという掟を破壊したのよ。そのお前らに、最初はグーだろという権利がないことは明白だろが」
「し、しかし……。こんな幕切れは、あまりにも……」
なおも納得いかない様子の邦弘。翔や玩駄無、斗真斗とて同じようだった。
「どうしてもっていうんなら、谷川先生に裁定を求めるか」
徹也が担任教師のジャッジを提案した。
教室全員の視線が、担任の机へと集まる。
「えっ……私ですか?」と戸惑う谷川。
急に指名された谷川は、緊張のあまり、しきりにメガネの位置を直し始めた。
「やっぱり、その……話し合いでね、決めるべきじゃないかな、うん」
場を収めようとする谷川に対し、徹也は叱りつけるように言った。
「先生!話し合いじゃあどうにもならない時だってあるんですよ!」
「そうか……そう、だよね?うん、ははは……はは……えっと、その……じゃあうん、ジャンケンでね。やっぱりジャンケンで勝ってる方っていうか、チョキの勝ち……なのかな?」
自信なさげに、ではあるが、谷川からチョキの勝利が宣言された。
舌打ちをしてその場を去る邦弘。教師の決定を無視できる小学生などいない。不満に思いながらも、ここは負けを認めるしかなかった。
同じく敗北した神速の翔は悔しさに打ち震え、目には涙を浮かべていた。機動戦士の玩駄無は呆然とし、完全に活動を停止。斗真斗は真っ赤になっていた。
悔しがる生徒たちを見て、谷川はそれまで以上にうろたえ始めた。「そこまで余ったデザートに本気にならないでも……。牛乳プリンだったら、僕のをあげてもいいんだけど……」と小声でつぶやくが、誰も聞いていなかった。
こうして、給食ジャンケンの場に残ったのは、宿命の二人のみとなった。
徹也と夜騎士。
4年3組における、二大ジャンケン戦士の正面衝突である。
場面はまさしく頂上決戦……!
互いの目を見据える夜騎士と徹也。両雄の間で火花が散った。
徹也は拳を強く握った。
俺は――必ず勝利する!見ているか……雪子……。
徹也が背後を振り向くと――雪子は徹也のビーフシチューを凝視していた。
目を血走らせて、徹也の机の上……そこにあるビーフシチュー皿を凝視していた。
なぜだ、雪子。
なぜ俺のビーフシチューを見ている。
自分のビーフシチューは……あ、そうか。空っぽだな、もう食べ終わったよな。さっき、ものすごい勢いでがっついてたもんな。
でも……だからってなぜ、俺のビーフシチューをじっと見てるんだ!
徹也の脳裏に、嫌な考えが浮かんだ。
頭を振って、その考えを打ち消した。今は、目の前の敵に……宿命のライバルに集中すべきだ!
「戦いの場で敵から目を逸らすとは、随分と余裕だなぁ、徹也」
脳の外側を舐め回すような、ネットリとした夜騎士の声が徹也に向けられる。
夜騎士のまとう不気味な雰囲気が、徹也を支配しようとしていた。
しかし徹也とて負けてはいない。
「夜騎士!!お前を!!倒すッ!!!」
吠えた。
徹也の声が、教室の窓ガラスを震わせる。
学校中に響きわたったかと思わせるほどの大音量だった。
夜騎士は、その咆哮を真正面から受けることになる。ビリビリと音の振動が、夜騎士の体を襲った。
恐ろしいほどの闘争心……夜騎士は震えを感じると同時に、熱く昂揚する自分に気づいていた。
そうだ、それでこそ我が宿命のライバル……!
夜騎士は熱くなる自分をなだめ、体と心を冷やし始める。
熱くなっては、勝機が遠のくからだ。
46勝17敗。ここまで夜騎士が徹也に打ち勝ってきたのは、徹也の「熱さ」に付き合わず、あくまで「冷えて」いたからだった。
徹也の熱き魂に、夜騎士はあくまでクールに、そして徹也を罠と駆け引きの領域に引きずり込むことで勝利してきた。
罠と駆け引き――それこそが夜騎士の得意分野であり、徹也の苦手分野でもあった。徹也の感じている相性の悪さも、ここに起因するものである。
先ほどの「最初はグーとみせかけてチョキ」のトラップこそが、夜騎士による「罠と駆け引き」のいい例だ。夜騎士の目から何かを感じ取り、ギリギリのところで罠を見抜いた徹也だったが、彼とて玩駄無らと同様に、パーを出し敗退していてもおかしくはなかった。
そう、徹也は敗北しかけていた。
首の皮一枚、つながったに過ぎない。
この時点で徹也は精神的劣位に立たされていた。それを何とか打ち消そうと、徹也は吠えたのだ。
精神的優位に立つ夜騎士のプレッシャーから、何とか逃れようとする徹也。
そこに夜騎士は、更なる駆け引きを仕掛ける。
「徹也、俺はグーを出すよ……」
それは悪魔の囁きだった。
ジャンケンにおいてたびたび行われる『宣言戦略』
だがそれは、あくまでお遊びのジャンケンにおける戦略である。
給食ジャンケンのように、互いの全てを懸けた戦いで使われるような戦略ではない!
その宣言戦略を、あえてここで用いる夜騎士――徹也をゆさぶるためなら、手段は一切選ばない――彼の異端的発想は、明らかに小学生離れしていた。
徹也の目が瞳孔まで見開かれた。信じられない戦い方……だがこれこそが、夜騎士と対峙するということなのだ。
徹也は息を深く吸い、吐いた。
深呼吸で普段の自分を取り戻す、ニュートラルに持って行く。
「好きにしろッ!」
再び息を吸い込み、音を立てて吐く。
自分自身に気合いを入れる。
駆け引きには乗らない。徹也は、自分がどの手を出すのかを宣言しない。
宣言戦略には、対抗して「じゃあ俺はパーを出す」などと『宣言返し』がなされることも多い。しかし、徹也はそれをしなかった。
相手のペースに乗らないためだ。
駆け引きの領域に踏み込めば、自分は夜騎士に敵わない。徹也はそう結論づけた。
だから、駆け引きは……気合いで潰す!
余計なことは考えない!強引に夜騎士をひねり潰すんだ……!
勝つ、勝つんだ……勝たなきゃダメなんだ……!
勝利する意味を再確認するために、徹也はすがるような気持ちで雪子の方を振り返った。
雪子の目の前にはビーフシチューが。
さっき雪子が完食したはずのビーフシチューが復活していた!
ありえない事態に徹也は動揺する。馬鹿な……一体なぜ……あ!ああっ!
雪子のビーフシチューが復活している代わりに、徹也の席には空のビーフシチュー皿が……!
雪子の奴……まさか……!
まさか皿をすり替えて……!?
何をやっているんだ、雪子!自分の皿と俺の皿をすり替えて……皿をすり替えてどうするつもりだ!なぜ俺のビーフシチュー皿を、自分の目の前に持ってきた!?
もしかして……その……俺のビーフシチューを……!
馬鹿な!ありえない!
俺が命を懸けて戦っている最中に、俺のビーフシチューを……ぐっ……違う!絶対にありえない!
動揺する徹也。追い打ちをかけるように、夜騎士が言った。
「どうしたぁ?後ろばかり見て。闘いに集中できないかぁ?お前が見ているのは……ふふん、どうしても愛しのあの子が気になるってことなのかなぁ?」
違う!そうじゃない!本当にそうじゃない!
今となっては雪子自身はどうでもいい。愛しのあの子がどうとか、全く思っていない!
ビーフシチューが……愛しのビーフシチューが……。俺のビーフシチューが危ないんだ!
だがしかし、夜騎士は背中を向けたままで闘えるような相手ではない。
…………ここは雪子を信じよう。
見ていてくれ雪子。俺を見ていてくれ!
俺のビーフシチューじゃなくて、俺を見ていてくれ!
「始めるぞ」
「ああ」
応じた夜騎士は、グーの形に握った右手をひらひらと見せつけた。
グーを出す、その宣言戦略が徹也の脳を支配していく。
いや、惑わされるな……ッ!
徹也が叫ぶ。
「ジャン!!」
夜騎士が応える。
「ケン!!」
「「ポン!!!」」
出された手は、互いにパー。つまりはアイコ。
ここまでは両者の想定通りである。
グーを出すと宣言されたなら、相手としては、グーに敗れるチョキだけは絶対に出せない。グーを出すという宣言はフェイクかもしれない……そう思ったとしても、チョキは出せない。もし宣言通りの手が出されたなら、その時の後悔は計り知れないからである。
となると、宣言した側……つまり、今回で言えば夜騎士は、チョキが出されない=負けることはないパーを出すのが最適戦略といえる。
そして自動的に、グーを出せば負ける徹也もパーを出さざるを得なくなる。
そう、最悪の事態を避け、過剰な駆け引きの世界に踏み込まなければ、この場はパーのアイコで妥協される――双方ともに負けるわけにはいかない、必勝の思いで勝負に臨むのなら、ここはアイコで決着するのだ。
問題は、ここから先である。
徹也にとっては、アイコは負けに限りなく近い引き分けなのだ。
アイコで長引いたジャンケン……そこは罠と駆け引きの支配する世界。
徹也の熱量と押しの強さだけでは、どうにもできない世界だ。これまでの戦歴からみても、長引くと徹也に圧倒的不利……!
たった一度のアイコでも、徹也の勝率はかなり下がったと考えていい。
徹也には、焦りがあった。
……これ以上のアイコを続けるわけにはいかない!
徹也は勝負に出る!
「「アイコで……!!」」
アイコの発声がなされ、両者が手を振り上げる。
刹那の読み合い。グーか、チョキか、パーか、究極の三択のうちから相手に打ち勝つ手を、極限まで探っていく。
そして、勝負手が選択されるその瞬間――
徹也の変顔が炸裂した。
変顔、つまりは変な顔である。
もちろん、ただの変顔ではない。「殴りたくなる顔」だった。
口は突き出され、見下す角度で目が見開かれ、鼻の穴は広がっていた。
この腹立つ顔に対し、小学生の未発達な理性で耐えることは不可能である。それは夜騎士であっても同じ。この顔を見て、殴りたいという衝動を抑えることはできない!
すなわちそれは、拳を握りしめるということ。
グーを出すことを、強いられるということ!
まさしく力技である。
その顔を繰り出した時点で、既に徹也の勝負手は決まっていた。パーである。
相手がグーを出したなら、その時点で勝利できるパー。しかし、リスクもある。「殴りたくなる顔」を使った時点で、狙いはグーを出させることだと明らかになってしまう。もしも夜騎士が殴りたい衝動を乗り越えたなら、チョキを出すことによってパーを両断することができる。
しかし、徹也の顔力は圧倒的だった。
親の仇よりも憎たらしく映る、徹也の「殴りたくなる顔」
何度も何度も、お風呂場の鏡で練習し、いつか来るであろう夜騎士との対戦に備えてマスターした技だった。
これを回避することは絶対に不可能だと、徹也は自信を持っていた。
ゆえに、勝負のパー!
徹也の顔を見た瞬間の夜騎士は、完全に殴りたい衝動に支配されていた。
うわ……。
なんだこの顔……!
殴りたい。
殴りたい。
殴りたい……。
同時に、徹也の狙いにも気づく。
強制的にグーを出させる技――その顔芸の本質にも気づく。
駄目だ。拳を握りしめては駄目だ!
グーを出せば負ける……!
自分の理性を取り戻そうと、必死で足掻く夜騎士。
しかし、アイコでショの「ショ」が発声されるタイミングは、決して夜騎士を待ってくれない。時間がない……!
感情を排し、グー以外の手を作るには余りにも短い時間の中で、果たして夜騎士は――
「「ショ!!!」」
徹也の手は、当然のようにパー。
夜騎士の手は……中指以外の四指が熊手のように、第一関節から曲げられてはいるが……確かにパー。
パーである。
最終決戦は、再びアイコとなった……!
夜騎士は、徹也の「顔」から逃れきったのだ。
殴りたくなる顔の影響で、中指以外の四指は曲げられかけている。しかし、そこで留まっている。
グーにまで至ってはいない……!
しかも中指だけはピンと伸ばされており、可能ならばチョキに移行しようとしているパーであった。
呼び戻された冷静さが、ギリギリのところでグーになる手を止めさせた。夜騎士は間に合ったのである。
殴りたいという気持ちより、勝ちたいという彼の気持ちが上回った結果ともいえよう。
恐るべき夜騎士の執念。
加えて言うなら、当初出す予定であり、徹也の顔を見るよりも先に作られていた手の形が、グーから最も遠いパーであった点が夜騎士を救った。
夜騎士としては、ただ必死に、指が折りたたまれていくのを耐えれば良かったのだ。
もし仮に、夜騎士が最初からグーを出す予定であったなら、既に握られた手を開き、グー以外の手を出すことは不可能だったであろう。
執念が幸運をも呼び寄せたのである。
「「アイコで……!!」」
一転、窮地に立たされる徹也。
既に二回のアイコ。徹也の不利な領域に突入している。
だが彼の心は折れていない。
徹也は夜騎士の目をにらみつける。気迫で、意志の力で、相手を負かしてみせると強く念じていた。
しかし、そんな徹也の目に飛び込んできたのは……
夜騎士の変顔であった。
夜騎士の殴りたくなる顔であった。
異端の戦略、殴りたくなる顔返し……!
徹也自身が夜騎士を追い詰めた技を、そっくりそのまま返されたのだ。
瞬時に、徹也の手が握り締められる。手が、グーの形になる。
殴りたい……!
強制グー効果が徹也を支配する……!
しかし、同時に徹也は勝利への糸口を掴みつつあった。
これに耐え、チョキを出せば勝てる。
勝てるんだ!
夜騎士の「顔」は、口は突き出され、見下す角度で目が見開かれ、鼻の穴は広がっていた。
確かに、殴りたい。
だが、毎日のようにお風呂場の鏡で練習していた徹也のそれには数段劣る……!
耐えることは不可能ではない。
既に握られてしまったこの手を、強引に開けばいいだけだ。
徹也は右手に全神経を集中する。
開け、右手……ッ!中指と……薬指よッ!
こんな顔に……この程度の殴りたくなる顔に……負けるかあああああああああ!!
血流が加速する。神経内の電気信号が増幅され、電撃となって全身を駆け巡る。
開け、開け指……ッ!
動け右手ええええええええ!!
「「ショ!!!」」
徹也の右手は……
チョキ!!
徹也の熱意は、彼の右手を開かせた。
完全なる右手の支配に成功していた。
徹也は自分に打ち勝ったのだ。
しかし……。
打ち勝ったのはあくまで、「自分に」である。
対する夜騎士の右手は固く握られ……確かにグーの形を作っていた。
グー。
まさかのグー。
言うまでもなく、徹也のチョキに、夜騎士のグーは勝利する――夜騎士の勝ちである。
信じられないといった表情の徹也。
「馬鹿な……なぜ……」
全身全霊をかけてチョキを出し、徹也はその瞬間に勝利を確信していた 。
なのに、なぜ……
なぜ夜騎士はグーを出している?
「ありがとう。いい勝負だった」
夜騎士はそう告げ、手を差し出した。握られたグーは既に開かれている。彼は握手を求めていた。
夜騎士は勝ち誇ることなく、徹也の健闘を讃えようとしていた。彼の声は満足感に充ちていた。
徹也はここに到って初めて気づく。
自分は、駆け引きで敗北したのだと。
「読んで……いたのか……俺がチョキを出すと」
「ああ。」
殴りたくなる顔の強制グー効果から、当然、夜騎士はパーを出してくるものと思っていた。しかし、それ自体が罠だった。完全に裏をかいた形のグーが、徹也のチョキを打ち破った。
給食ジャンケンの勝者は――斎藤夜騎士である。
「なぜだ夜騎士……」徹也が小さくつぶやく。「なぜグーを出せた?なぜ……俺が変顔にやられてグーを出す可能性だってあったはずだ……」
「そうさ、確信はなかった。だがな、確信なんてなくても良かったんだよ。ただ勝利の確率を上げられればな」
「確率……だと……」
「どっちでも良かったんだよ。お前が俺の変顔を打ち破るなら、俺はグーで勝てる。そうでなくとも、俺のグーとお前のグーでアイコだ。どっちに転んでも悪くない。ただ純粋に、勝利の確率を高めることができる」
徹夜は呆然とする。勝負の最中に、どこまでも冷静でいられる夜騎士の精神力に、自分では敵わないと感じていた。
熱く燃え上がり、グーではなくチョキを出そうと必死でもがいていた自分が滑稽だった。
給食ジャンケンは自分との闘いではない。
相手との、敵との、ライバルたちとの闘いである。
徹也には、正しい敵の姿すら見えていなかった。
夜騎士が付け加えるように言った。
「グーで確かに勝てると慢心じみた思いは全くなかったさ。でもな……心のどこかで信じてはいたぜ。きっとお前はチョキを出すと。徹也なら俺ごときの変顔など、軽く克服してみせるだろうと。お前は俺のライバルだからな」
徹也は夜騎士の握手に応じた。
軽く握った手は暖かく、大きかった。
握手を終えると、夜騎士は配膳台の上から牛乳プリンを取っていく。それこそが勝者の権利である。そして夜騎士は勝利の美プリンを堪能するため、自分の席へと帰って行った。
徹也は下を向いたまま動かない。
完敗だ、俺の完全敗北だとうなだれる徹也。世界と空間が涙を流し、崩れ落ちてゆくように感じていた。
見かねた担任教師・谷川が、うなだれる徹也に近づいた。そして優しく肩を叩く。
「あの、先生の牛乳プリン、あげるからさ。だからそんなに落ち込まなくても……」
谷川の手には牛乳プリン。
しかし徹也は、それを受け取ろうとはしない。
牛乳プリンに目をやりもしなかった。
徹也たちが奪い合っていたのは牛乳プリンではなかったのだ。
彼らの誇り、矜持、そういった目には見えないもののために、徹也たちは必死で競いあっていたのだ。
徹也の誇りは、徹也の矜持は、同情の思いから渡される牛乳プリンでは取り戻せないものだった。
敗北の悔しさで、いまだに下を向いたままの徹也。
こんなにも情けない自分を、雪子は蔑むだろうか。涙に濡れた目で、徹也は雪子の方を見る。
雪子は既に、2つのビーフシチュー皿を空にしていた。
雪子は徹也の視線に気づくと、電気が走ったように体をビクッとさせた。雪子はしどろもどろになりながら言う。
「徹也くんのビーフシチュー、あれ?あの、違うんだけどな……た、食べた?徹也くん、さっきビーフシチュー食べてたよね?食べてからジャンケンしに行ってたよね?うん。あれ?違ったかな?あれ?なんでだろうね、おかしいよね、えっと、あれ……?」
残された徹也の給食は、牛乳と白いご飯のみ。
流石にこの組合せはないだろ……と、徹也は生まれて初めて学校給食のメニューを恨んだ。