落下する少女
2172年。
軌道都市。
地球上空三万六千キロ。
巨大なリング型都市は、静かに青い星を見下ろしていた。
⸻
「……また詰まってる」
リオは工具を咥えながら、配管パネルを睨んだ。
狭い。
暑い。
油臭い。
軌道都市の“裏側”は、夢も未来もない。
表通りでは清潔な白い服を着た市民たちが穏やかに笑っているが、その裏では大量の配線と冷却管が都市を支えていた。
リオの仕事は、その修理。
十九歳。
下層整備員。
将来性なし。
彼はレンチを回しながらため息をつく。
「俺も上層生まれならなぁ……」
すると耳元の端末が震えた。
《エンパシア感情流量:安定》
《都市幸福指数:92》
またこれだ。
ユニオン政府自慢の感情同期ネットワーク《エンパシア》。
都市中の人間の感情を薄く共有するシステム。
誰かが強く悲しめば、周囲も少し悲しくなる。
誰かが怒れば、空気が悪くなる。
だから暴力は減った。
犯罪も減った。
戦争も減った。
少なくとも政府はそう言っている。
リオにはよく分からなかった。
みんなが「今日は空気重い」と言っても、彼にはそこまで感じられない。
鈍いのかもしれない。
昔からそうだった。
⸻
ガンッ!!
突然、上層通路の方から爆発音。
天井が揺れる。
「は?」
次の瞬間。
何かが落ちてきた。
人。
しかも。
「うおおおおっ!?」
ドゴォン!!
リオの上へ直撃。
二人まとめて床を転がる。
肺から空気が全部抜けた。
「っ……!?」
目の前。
銀色の髪。
黒いジャケット。
赤い目。
少女だった。
だが普通じゃない。
首筋には見たことのない神経コネクタ。
腕にはセパラ系義体特有の発光ライン。
少女は即座に起き上がる。
動きが異様に速い。
そして。
カチッ。
ナイフがリオの喉元へ突きつけられた。
「通報した?」
声は冷たい。
リオは硬直する。
「し、してねえよ!」
数秒。
沈黙。
少女の赤い目が、じっとリオを観察する。
まるで機械みたいだった。
⸻
その時。
警報が鳴る。
《警告》
《未登録改造体を検知》
《保安局が出動しました》
《市民は直ちに――》
少女が舌打ちした。
「最悪」
彼女は立ち上がろうとして、ふらつく。
右足から血。
怪我していた。
リオは思わず言う。
「……逃げるならそっちじゃねえぞ」
少女が睨む。
「なんで教えるの?」
「いや……」
自分でも分からない。
普通なら通報する。
未登録改造体なんて、ユニオンじゃ重犯罪者扱いだ。
でも。
なぜか放っておけなかった。
⸻
遠くから足音。
保安局だ。
少女が構える。
リオは反射的に叫ぶ。
「こっち!」
配管整備用ダクトへ飛び込む。
少女も続いた。
狭い。
暗い。
熱気がこもる。
背後で保安局員の声。
「この区画だ!」
ライトが走る。
リオは息を殺す。
少女は無言。
だが近くで見ると、かなり若い。
自分と同じくらいだ。
⸻
数分後。
足音が遠ざかる。
リオが安堵した瞬間。
少女が崩れる。
「お、おい!?」
足の傷が深かった。
血が配管に落ちる。
少女は小さく呟く。
「……失敗した」
「何が」
返事はない。
意識が飛びかけている。
リオは頭を掻いた。
「マジかよ……」
保安局へ渡せば終わる。
でも。
たぶん、この少女は死ぬ。
⸻
結局。
リオは彼女を自室へ連れて帰った。
六畳。
配管だらけ。
工具だらけ。
少女はベッドへ倒れ込む。
リオは応急処置キットを取り出す。
「動くなよ」
「……」
少女は黙っている。
傷口は鋭利な弾痕だった。
軍用。
ただの犯罪者じゃない。
⸻
処置を終えた頃。
少女が小さく言った。
「なんで助けたの」
「知らねえ」
本当に分からない。
少女は少しだけ目を細める。
その顔は、初めて年相応に見えた。
⸻
突然。
端末に政府ニュース。
《本日、セパラ系工作員侵入事件を確認》
《市民は不審人物を発見次第――》
リオは端末を切る。
部屋が静かになる。
外では人工雨が降り始めていた。
軌道都市特有の環境制御雨。
金属の壁を淡く叩く音。
⸻
その時。
床に小さな物が落ちているのに気づく。
データチップ。
さっき少女の服から落ちたらしい。
リオは拾う。
表面には文字。
《N.O.AH》
「……なんだこれ」
少女の表情が変わる。
初めて。
本当に焦った顔だった。
「それ、見たの?」
「いや、名前だけ」
少女は数秒黙る。
そして静かに言った。
「なら、まだ戻れる」
「は?」
彼女は窓の外の地球を見た。
青くて綺麗な星。
でもその目は、何かを恐れていた。
「……それを知ったら」
「世界が壊れるから」




