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春から小学校に通う子を持つ親向け短編小説『はじめての春 ―いってらっしゃい―』

作者: 明石竜
掲載日:2026/04/06

 三月の終わりは、いつもクレヨンの匂いがする。 少なくとも、六歳の陽向ひなたにとっては、そうだった。

幼稚園の部屋の隅にある引き出し、給食の後の静かな時間、お昼寝から覚めた窓の光。

どこもかしこもあの蝋の甘い匂いに染まっていて、陽向はその匂いを嗅ぐたびに、ここが好きだと思っていた。

卒園式の前の日、陽向は最後の自由画の時間に、スケッチブックを一冊丸ごと使った。

先生に「何を描くの?」と聞かれて、「ぜんぶ」と答えた。 砂場で作ったケーキ。

お化けのお面を泣きながら作ったハロウィン。仲良しの結衣ちゃんと揃えたピンクのスニーカー。

転んで血が出た膝小僧の絵も描いた。泣いてお母さんに電話したくなったけど我慢した、あの日のことも。

線はがたがたで、顔は丸すぎて、色は輪郭からはみ出した。 でも陽向には、ぜんぶわかった。

クレヨンの赤で描いた夕焼けの中に、先生の顔があった。黒で描いた夜の絵の中に、運動会が終わった後の静けさがあった。

スケッチブックの最後のページまで描き終えて、陽向はそれを膝の上に乗せてしばらく眺めた。

「持って帰っていい?」

「もちろんよ」と先生は言って、陽向の頭をそっと撫でた。

「それは陽向ちゃんの宝物だから」

その夜、母親の美咲は、陽向が眠った後にランドセルを押し入れから出した。

四月から使う、赤いランドセル。

百貨店で三十分悩んで、陽向が「これがいい」と言って譲らなかったやつ。

艶のある赤で、金具が少しだけ光っていて、背負ってみた陽向の背中がそれだけで三センチくらい大きく見えた。

美咲は台所のテーブルにランドセルを置いて、椅子に座って、ただそれを見た。

おかしな話だと自分でも思う。たかがランドセルだ。ただの鞄だ。でもその赤い革の表面を眺めていると、なぜか涙がじわりと滲んできた。

六年間、使うんだな、と思った。 陽向が一年生になって、二年生になって、三年生になって。このランドセルを背負って走る。

転ぶ。友達ができる。喧嘩もする。泣いて帰ってくる日もあるだろう。 今はまだランドセルの中には何も入っていない。

でもこれから先、この鞄の中には陽向の六年分が詰まっていくのだ。給食のパンのにおいとか、

泥がついた体育着とか、大切な手紙とか、内緒にしたい日記とか。 美咲は、陽向を産んだ病院の廊下を思い出した。

初めてあの子を抱いた、あの重さ。 あんなに小さかったのに、と思う。 それからずっと、美咲はそのことばかり考えてきた。

ちゃんと育てられているだろうか。笑っているだろうか。悲しいとき、そばにいてやれているだろうか。 答えなんて出なかった。

でも、陽向はちゃんと、ここまで来た。 泣き虫で、でも意地っ張りで、クレヨンで手を真っ赤に染めながら絵を描くのが好きな、この子は。

美咲はランドセルの蓋をそっと持ち上げて、また閉じた。 ありがとう、と、誰にともなく思った。   卒園式は、晴れた。

 体育館の入り口に桜が三輪だけ咲いていて、陽向はそれを見て「早いね」と言った。

 美咲は「そうだね」と言いながら、スマホを取り出してその桜を撮った。陽向の横顔も一緒に。

 式の中で、先生が一人ずつ名前を呼んだ。

「佐藤陽向さん」

 陽向はまっすぐ前を向いて、歩いた。

がたがたしていた去年の発表会とは違う、ちゃんとした足取りで。卒園証書を両手で受け取って、一礼して、戻ってきた。

その背中が、小さいのに、やけに遠かった。 美咲は泣かないようにしようと思っていた。泣いたら陽向に笑われるから。

でも隣に座っていたお父さんが先に鼻をすすって、それを見た瞬間に美咲の目から涙が一粒落ちた。

子どもたちの歌が始まった。 幼稚園で練習した歌。何度もお風呂で歌っていた歌。陽向の声が混ざった、

子どもたちの合唱が体育館に響いて、美咲はもうこらえるのをやめた。 帰り道、陽向は美咲の手を繋いで歩いた。

「ねえ、お母さん」

「なに?」

「小学校って、こわい?」

 美咲は少し考えた。

「怖いところもあるかもしれない」

「やっぱり」

「でも、楽しいところのほうがたくさんあるよ」

陽向はしばらく黙っていた。

 桜並木の下、風が吹いて、花びらが二枚、ひらひらと落ちてきた。

「お母さんも小学校、行ったの?」

「行ったよ」

「怖かった?」

 美咲は笑った。

「怖かった。すごく」

「でも楽しかった?」

「うん。すごく」

陽向はそれを聞いて、少し安心したような顔をして、また前を向いた。

繋いだ手の中に、陽向の小さい指があった。

 美咲はその指をそっと握り返した。 家に帰ると、陽向は玄関でランドセルを見つけた。

 昨日、美咲がそこに置いておいたのだ。 陽向はしばらく、ただランドセルを見つめていた。

 それから静かに横に座って、留め具をぱちん、と開けた。空っぽの中を覗いて、においを嗅いで、また閉じた。

「ねえ、お母さん」

「うん」

「これの中に、スケッチブック、入る?」

 美咲は試しに入れてみた。昨日陽向が幼稚園から持ち帰った、あのぱんぱんに膨らんだスケッチブックが、ちょうど収まった。

  陽向はそれを見て、ちょっとだけ笑った。

「じゃあ持っていく」

「どこに?」

「小学校」

 陽向は当然のように言った。

「友達に見せる。結衣ちゃんも同じ小学校だから」

 美咲はまたスケッチブックを取り出して、ランドセルに入れ直した。

 赤と赤が重なった。幼稚園の赤と、小学校の赤。どちらも陽向の色だった。

「いってらっしゃいの練習?」

「ちがう」

 と陽向は笑って首を振った。「もうすぐ本物だもん」

 その夜、布団の中で陽向はクレヨンのことを考えた。

 幼稚園で使い込んだクレヨン。赤と黄色と肌色だけ短くなった、あのクレヨン。

 先生が「持って帰っていいよ」と言ったから、鞄の中に入っている。

 小学校でもクレヨン、使うかな。 もっと難しい絵が描けるようになるかな。

 恐竜の絵が上手く描けるようになったら、男の子とも友達になれるかな。

 陽向はいろんなことを考えながら、目を閉じた。 暗い瞼の裏に、

 今日描いた絵が浮かんだ。先生の顔。砂場のケーキ。ピンクのスニーカー。そして、まだ白いページ。

 スケッチブックの、後ろのほうには、まだ何も描いていないページが残っていた。

 陽向はそこに何を描こうか、まだ決めていなかった。 でも今は、それでいいと思っていた。 真っ白なページは、怖くない。 だって、クレヨンがある。 春の朝、陽向は赤いランドセルを背負って玄関に立った。 制服のシャツの襟が少しだけ曲がっていて、美咲はそれを直してやった。

 靴紐をもう一度結んで、髪の毛を撫でて、一歩下がった。 陽向は振り返らずに歩き出した。

 肩にかかった赤いランドセル。その中に、幼稚園のぜんぶが入っていた。 美咲は門のところで見送った。手を振った。陽向も一度だけ振り返って、小さく手を振って、また前を向いた。 角を曲がって、その背中が見えなくなった。 美咲はしばらくそこに立っていた。

 目の前の道が、春の光でやわらかく滲んでいた。 桜が、満開だった。

 放課後、陽向は走って帰ってきた。

「ただいまっ」

「おかえり。どうだった?」

 陽向はランドセルをどさりと下ろして、一秒も間を置かずに言った。

「たのしかった」

 それだけだった。それだけで、美咲には十分だった。

  陽向はすぐにランドセルのふたを開けて、スケッチブックを取り出した。

 白いページを開いて、引き出しからクレヨンを出して、何かを描き始めた。

「何描いてるの?」

「今日のこと」

 窓から夕日が差し込んで、クレヨンを握る陽向の手を橙色に染めた。 その横顔を見ながら、美咲は思った。

この子はきっと、これからもずっと描き続ける。転んでも、泣いても、怖くても。

 白いページを前にして、クレヨンを握って、今日のことを描き続ける。

 それでいい。 それが、いい。 春の夕暮れに、クレヨンの音だけが、静かに響いていた。

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