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作者: 苗奈えな

 タカシが母と二人で暮らすようになってから、もう三年が経っていた。

 母は、三年前の秋、夜道で起きた交通事故をきっかけに視力を失った。それ以来、日常生活のほとんどをタカシの支えに頼っている。大学生になった彼にとっては、家事も生活も気遣いも、すべてが“当たり前”になっていた。

 家の中は、母が少しでも安全に過ごせるよう工夫されていた。家具の角にはクッション材、電源コードは壁に沿って固定され、床には物を置かないことが鉄則だった。ほんの少しでも段差ができれば、母の足元に危険が及ぶ。

 ただ一つ、例外があった。

 家の奥、廊下の突き当たりにある六畳の部屋。そこは、どうしても床に物を置かなければならない時にだけ使う物置部屋だった。

 夏が終われば扇風機が、通販で届いた荷物が開封されれば空き箱が、壊れた家電や使わなくなった工具が、少しずつそこに集まっていった。足元には新聞紙や雑誌の束が山のように積まれている。

 視覚を失った母にとって、その部屋はまるで罠のような空間だった。足元に何があるかもわからない中で一歩でも踏み込めば、積まれた雑誌や段ボール箱につまずき、転倒しかねない。角張った棚や散らばった工具がそのまま凶器になりかねないのだ。だからこそ、タカシは母に立ち入り禁止と繰り返し言い聞かせていた。

 母もそれをよく分かっているはずだった。少なくとも、タカシはそう信じていた。

 その夜までは。

 初めに気づいたのは、小さな音だった。

 ――カサ…カサ…

 消灯した自室で、スマートフォンの画面をぼんやり眺めていた耳に、その音は確かに届いた。どこか乾いた紙がこすれるような、けれど生き物の動きにも聞こえる、曖昧な音。

 風かゴキブリか、最初はそう思った。だが、家の中で風が通るような隙間はないし、ゴキブリの気配も今まで一度もなかった。耳を澄ませば澄ますほど、音の出どころがはっきりしてきた。

 あれは、廊下の奥の物置部屋の方角だ。

 カサ…カサ…と、何かが床を這うような音が続いている。それも、断続的ではなく、一定のリズムで。まるで、誰かが床に手をついて、ゆっくりと何かを探しているような――そんな気配だった。

 ぞわりと背筋に寒気が走り、タカシは無意識にスマホの画面を消した。その瞬間、部屋は静寂に包まれた。

 

 次の朝、タカシはさりげなく母に尋ねた。

「昨夜、何か音とかしなかった?」

 母は首を横に振っただけだった。

「母さんさ。物置部屋に入ったりとかしてないよね?」

「ええ。入ってないわよ」

 母の声はいつもと変わらなかった。声の調子も、話し方も、表情すらも普段どおりだった。けれど、なぜかタカシの耳にはどこか不自然に聞こえた。

 それから数日、タカシは夜になると、寝室のベッドに横たわりながら耳を澄ますようになった。音がするのは決まって深夜だった。

 最初は、新聞紙が軽くこすれるような微かな音。だが、日が経つごとにそれは変わっていった。

 ズル……ズル……という、何かを引きずるような鈍い音。そしてある晩には、「ん……うう……」と、喉の奥から漏れるような湿ったうめき声が混じっていた。

 タカシは息を殺し、布団の中で凍りついたように身を固めるしかなかった。

 翌朝、母に何気なく聞いてみても、返ってくるのは相変わらずの「入ってないわよ」の一言。

 お昼ご飯を食べた後、タカシは不安を打ち消すように物置部屋のドアを開けて中を覗いてみた。

 ……何も、変わっていない。

 乱雑に置かれた新聞紙の束、折りたたまれたダンボール箱、ホコリの積もった棚。

 誰かが何かを動かしたような形跡はなかった。だが確かに、音はしていたのだ。

 

 そう思い始めたタカシに、決定的な出来事が起きたのは、それから一週間ほど過ぎた夜のことだった。

 夕食を終え、タカシが片付けをしてリビングに戻ると、母はソファに座ってテレビをぼんやり聴いていた。画面にはバラエティ番組の派手なテロップと笑い声が流れていたが、母の顔はまるで別のものを見ているように無表情だった。

 不意に、母がぽつりとつぶやいた。

「……あなた、誰?」

 タカシは一瞬、心臓を掴まれたような衝撃に襲われた。テレビの笑い声が遠くに消えていくように感じられるなか、絞り出すように母に問い返す。

「え……? 母さん、どうしたの? なに言ってるの?」

 母は、ゆっくりとタカシの方に顔を向けてにっこりと微笑んだ。

 だが、その笑顔には温度がない。血の通っていない仮面のように、表情筋だけが動いている。

「ん? 私、なにか言ったかしら?」

 そう言って、母はゆっくりと座卓の上に置かれた湯呑みに手を伸ばした。指先で位置を確かめるように陶器を一度なぞったあと、そっと持ち上げる。そして、ごく自然な動きで湯呑みを唇に運ぶ。

 湯呑みと顔のわずかな隙間から、母の目が覗いた。

 その目は、湯気の向こうからまっすぐタカシを見つめていた。

 焦点の合わないはずのその瞳が、明らかに“誰か”を認識していた。

 目が見えないはずなのに。

 たしかに、あの目は睨むようにタカシを“見ていた”。

 一気に背中に冷たいものが走る。汗が噴き出すのに、体は動かない。

 ――見えてる、のか?

 そう思っても、言葉にはできなかった。

 何かを壊してしまう気がした。いや、壊される気がした。

 その夜、タカシは母が寝静まったあとも、部屋に明かりを灯したまま眠った。

 暗闇に見つめられているような、あの目を思い出したくなかったのだ。

 

 次の日、タカシは大学の授業を早退し、静かな図書館の一角に身を置いていた。

 調べていたのは、三年前に母が視力を失うきっかけとなった事故の記録だ。ネット上ではほとんど情報が見つからず、当時聞かされたのは夜道山を走っていたらトンネルで事故に遭った――それだけ。肝心の詳細は、母の口から語られることはなかった。

 資料室の奥、埃の匂いのする棚から縮刷版の新聞を取り出し、手でページを繰る。紙の質感が指にざらつく中、タカシは「視力を失うほどの事故」という出来事を、自分の目で確かめたかった。

 事故があったのは、三年前の十月。

 頼りになるのは、母がぽつりと漏らした「山の旧道」「トンネル付近」という曖昧な記憶だけ。

 タカシは当時の新聞を、ひとつひとつ丁寧にめくっていった。

 ──あった。

 見つけたのは、地域面の片隅に載っていた小さな記事だった。

 

『南高鉄町の旧道にあるトンネルで、女性が運転する軽自動車が単独事故』

 運転していた女性は、「トンネルの中で、何かを轢いた気がした」と証言している。しかし、現場の調査では、人や動物の痕跡は一切見つかっていない。車両はガードレールに軽く接触しており、外装に小さな傷が見られたが、自走可能な状態だった。女性は軽傷を負い、念のため病院に搬送された。

 このトンネルでは、過去にも死亡事故が複数発生しており、地元住民の間では“いわくつきの場所”として知られている。県は安全対策としてトンネルの改装を検討していたが、老朽化した構造と山中という立地条件から改修には莫大な費用がかかり、結局は中止となっていた。

 

 ――これだ。

 記事に名前の記載はなかったが、事故の時期や場所、状況を照らし合わせれば、その女性が母であることは間違いないだろう。

 だが、何かが引っかかった。

 記事には「軽傷」と記されていた。

 軽傷。

 打撲や擦り傷ならわかる。だが母はその日を境に、視力を失ったのだ。

 視力を完全に失うことが、“軽傷”で済まされるようなことなのか?

 記事の簡素な文面と、母が抱えている現実との落差に、タカシは胸の奥に冷たい違和感を覚えた。

 図書館を出たタカシは、帰り道の公園のベンチに腰を下ろすと、スマートフォンを取り出して母の入院していた市立病院に電話をかけた。息を整えながら病院の受付に事情を話すと、最初は「個人情報のためお答えできません」の一点張りだった。だが、母のフルネームや入院日、当時の病棟名、家族である証拠として自分の身元を粘り強く説明し続けると、ようやく相手の声色がやわらいだ。

「お母さまの視神経には、器質的な異常は確認されていませんでした。失明は、ご本人の訴えによるものです。検査上は視力低下を示す明確な根拠は……」

 電話の向こうの声が遠くなる。

 視神経に異常はない?

 見えないと言っていたのは、母だけ?

 タカシは受話器を握る手に、じっとりと汗がにじんでいることに気づいた。

 頭の中で、何かが音を立てて崩れていく。

 

 その夜は、いつもと変わらない夕食の準備だった。

 煮物の味見をしようと鍋の蓋を開けたとき、ふと、視線を感じて顔を上げる。目の前の戸棚のガラスに、何かがぼんやりと映っていた。

 タカシの動きが止まる。鍋から立ち上る湯気が、ゆらゆらと鏡面を歪める中、その輪郭は徐々にくっきりとしていった。

 自分の背後。リビングにいたはずの母が、すぐそこに立っていた。

 いつもの定位置、テレビの前のソファではなく、廊下と台所の境目にある影の中。

 タカシのすぐ背後。手を伸ばせば触れられる距離に、音もなく立ち尽くしていた。

「……美味しそうな匂いね。煮物かしら」

 母の声は穏やかだった。でも、目は――ちゃんとタカシを見ていた。

 いつものように、焦点の定まらない空っぽな視線ではない。

 まるで、心の奥を覗き込むような、鋭く深い視線。

「……母さん、もしかしてさ」

 喉が震える。

 聞いちゃいけない。けれど、聞かなければならない。

「……本当は、見えてるんじゃないの?」

 一瞬、部屋の空気が止まったような静寂が訪れた。 タカシの声が消えたあと、母は少しだけ俯いたまま黙り込んだ。

 タカシの耳には、自分の心臓の音だけが大きく鳴り響いていた。ドクン、ドクンと鼓膜を内側から叩くような脈動が、部屋の静けさに不気味なリズムを刻む。

 数秒か、あるいは数十秒か、感覚が曖昧になるほど長く感じられた時間のあと、母はふいに顔を上げて笑った。

「何言ってるのよ。見えてるわけないでしょ?」

 笑顔だった。いつもの、優しい顔のままだった。

「ははは。そうだよね」

 だが、今その目は絶対に見えているように見えた。

 

 夜、タカシはまどろむことすらできなかった。

 ベッドの上に横たわって目を閉じても、瞼の裏に浮かぶのはあの“視線”の残像。

 あのとき、母は確かに見ていた。目が合ったという単なる感覚ではない。目を逸らすことなく、タカシの顔をまっすぐに、そして、その内側までも見透かすように凝視していた。

 違う。あれは、母じゃない。

 そんな考えが脳裏をよぎるたび、タカシは自分の精神がおかしくなり始めているのではと疑った。

 けれど、その不安はただの妄想ではなかった。得体の知れない確信のようなものが、心の奥にじっとりとへばりついて、眠りを拒み続けていた。

 午前二時。

 喉の渇きに耐えかねて、水を飲もうと廊下に出たタカシは、ふと足を止めた。

 洗面所のドアが半開きになっており、その奥の鏡が、月明かりをぼんやりと反射している。

 照明をつける気にはなれなかった。静まり返った家の中で、カチリというスイッチ音すら響き渡ってしまいそうだった。

 タカシはそっと洗面所に足を踏み入れ、鏡の前に立った。

 鏡には、薄暗い中に浮かび上がる自分の顔。だが、そこにはもう一つ――自分のすぐ後ろに、立つ人影が映っていた。

 母だった。

 背後に気配はなかった。なのに、鏡の中でだけ、母はそこに立っていた。

 鏡の中の母が、まっすぐにタカシの目を見つめている。

 ――違う。

 息が止まる。

 ――これ、母さんじゃない。

 肌の色も、髪も、立ち姿も“母そのもの”なのに。

 なのに、目だけが異質だった。

 輪郭は間違いなく母のそれだったのに、目だけは別だった。黒く濁ったその視線には、わずかに笑っているような光が浮かんでいた。

 ぞわりと背筋をなぞるような悪寒が走り、タカシは息を呑んだまま一瞬動けなくなった。そして次の瞬間、恐怖が反射的に体を突き動かす。

 タカシは鏡から視線を逸らすと、そのまま何も言わず洗面所を飛び出した。

 寝室のドアを閉め、鍵をかける。心臓が耳の奥で打ち鳴らされる中、布団に潜り込んで息を潜めた。

 ……コツ、コツ……。

 静かな廊下に、小さな足音がひとつ、またひとつと遠ざかっていくのが、はっきりと聞こえた。

 

 朝になった。

 窓の外から差し込む光は眩しいほどに明るく、昨日までの不気味な夜が嘘のように思えた。だが、タカシの頭の中には、あの鏡の中の視線がまだ生々しく残っている。

 あまり眠れないまま、重たい体を引きずるようにして食卓に着く。

 パンと、スープと、目玉焼き。

 向かいに座る母は、いつものように笑顔だった。にこやかに、そして静かに、湯気の立つスープを口に運んでいる。

 まるで、昨夜のことなどなかったかのように。

 「いただきます」とタカシが言うと、母もごく自然にそれに続いた。

 だが、その仕草一つ一つが、妙に演技じみて見える。

 数秒の沈黙が流れた。

 次の瞬間、母はふいに口を開いた。

「……今は、ちゃんと見えてるわよ」

 その声は、とても穏やかで、優しさの仮面を被ったまま、背筋をひやりと撫でるような冷たさを帯びていた。

 スプーンを持つタカシの手が、わずかに震える。

 視線を落としたまま、スープの表面に映る自分の顔を見つめながら、心の中で問いがこだました。

 ──俺はいま、ナニと暮らしているんだ?

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― 新着の感想 ―
最後まで読んでも、結局“何だったのか”が分からない。 でも、それが逆にリアルで怖い。 じわじわと違和感が積み重なっていって、 日常の中に「これ、やばくないか…?」が混ざってくる感覚がすごかったです。 …
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