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「あなた、お弁当っ!」
朝、自宅玄関の上がり框で靴の紐を結び直した時、真白栄介の背後で声がした。
振返ると、廊下を彼の妻・蘭子が駆けてくる。華やかなオレンジの手提げ袋を下げ、早い足取りを進める度、ドスドスと足元の板が軋んだ。
174センチ、85キロある栄介と比べても蘭子は大柄だ。
身長は夫と同じ位、体重では6キロ上で、築30年近いボロ屋の廊下が悲鳴を上げるのも無理は無い。
「はいっ、今日も頑張ってね」
渡された手提げ袋の中には、保温式の大きなランチボックスが入っていて、ズシリと重かった。
糖尿の気がある栄介の身を案じ、栄養に配慮した文字通りの愛妻弁当だ。
九州から北海道まで地方を巡る仕事ばかりの栄介だが、家から通える「現場」の場合、蘭子は必ずこの弁当を用意してくれる。
朝早く起きて最後の仕上げはわざと遅めにし、ベストの保温状態で出掛けに渡してくれるのだ。
ありがたいな。
栄介は年齢に比しても皺が多い顔をクシャクシャにして笑った。
でも、これを受け取るのも今日が最後。60才の誕生日を迎えた四月第一週の金曜日、彼は長年続けてきた仕事へ幕を引く。
職場では特別なセレモニーが待っているだろう。そして、今日は彼のみならず、妻も「現場」に足を運び、門出へ花を添えてくれる筈だ。
「で、お前はまだ家を出ないの?」
「ん~、そうねぇ……」
蘭子は体を軽くゆするようにして、小首を傾げた。
「友達と待ち合わせしてるから、あたし、午後から行く」
「うん、色々準備あるよな、お前も」
「待っててネ、向こうで」
最愛の妻は、栄介の心を癒し続けてきた優しい微笑を浮かべ、彼の耳元で囁いた。
「今日はトコトン、叩き潰してあげる」
「……え?」
返事の代わりに、蘭子は栄介の体を前へ押した。軽いプッシュの筈が、ドアの外まで吹っ飛んで行く。
オットットとバランスを取り、振り向いた時には、玄関ドアは閉じられていた。廊下を戻る軋み音が聞こえる。
こんな出勤、蘭子と結婚してから一度も経験した覚えが無かった。
栄介の家がある子安の最寄り駅から京急の下りで1時間、京急浦津の駅を降り、徒歩10分の所に今日の「現場」はある。
PTAの意向でイベントに積極活用されてきた地元小学校の体育館。校門には「西関東プロレス・ファイナル興行」の横断幕が掲げられている。
これぞ本日の特設会場であり、栄介にとって馴染みの「現場」だ。
若手のリング設営へ合流し、汗を流す事およそ3時間。
お昼の休憩に入り、この面倒な作業も今日が最後か、と密かな感慨へ耽る内、
「やぁ、ごくろうさん」
背後から声を掛け、西関プロの現社長、高野順一が近づいてくる。
「今日は盛り上がりそうだね、久々に」
「前売りの動き、どうです?」
「ふふ、メインイベントについてネット告知したら、一気に伸びた」
「……そうですか」
「君の引退試合がこんな形になったのは申し訳ないが」
両目が落ち窪み、ゲッソリ疲労の滲む顔で高野は笑う。栄介同様、彼も貧乏クジを引いた口だ。
西関プロの絶対的エース・サンダー杉崎が前途有望なスター候補を引き連れ、メジャー団体への移籍を電撃発表したのは、およそ五か月前の事。
若手の指導役と道場長を兼任していたベテラン・栄介は置いていかれた。
理由は言うまでもない。彼が職人肌で、地味過ぎるレスラーだった為だ。それに、クソ真面目で融通が利かない性分を疎まれたのかもしれない。
目玉を失った西関プロは、残留組が懸命のファイトを繰り広げても焼け石に水だった。会場では閑古鳥が鳴き喚き、興行の度、赤字が膨らんでいく。
おそらくエースが離脱した時点で、団体の命運は尽きていたのだろう。
時代劇風に言えば、いくさに敗れ、主力が逃亡した後のしんがりを務めるのが栄介達の役回りで、初手から負け犬の運命を背負うに等しい。
団体解散を決めたのは一月前だ。
年齢的限界を感じていた栄介も同時に引退を発表したのだが、
「いや~、怪我の功名とはこの事だねぇ」
「は?」
「まさか君の奥さん……女子プロに伝説を残したスーパーヒール・ハルマゲ蘭が一夜の現役復帰を果すとは」
「……はぁ」
「夫と妻の男女ミックスド・マッチ! ヤケクソに近い私の思い付きを、まさか、奥さんが引き受けてくれるなんて、ね」
「……はぁ」
「やはり夫婦愛の賜物かねぇ?」
高野の問いに、栄介はため息交じりで「はぁ」を繰り返すだけだ。
しばらくの間、中々書けない状態が続いていて、ようやく復帰出来ました。
また頑張っていきますので、宜しくお願い致します。