第4話 鉄籠の中の観察者
「……ホル・テイ、セトゥ・ナァ……」
誰かが呟いた。車輪の軋みと、風の音に紛れて消える程度の、低い声
木製の荷馬車
車内は粗末な鉄格子で囲われていたが、完全に閉ざされているわけではなかった
窓の代わりに空いた隙間から、外の景色がゆっくりと後退していくのが見える
葵慧は、静かに腰を下ろした
囚人の姿ではなく、あくまで「観察者」の目で
──目の前には、一人の老人が座っていた
粗末な布を纏い、顔には深い皺。頭髪は白く、片目が義眼だ
「……若いな、お前は」
唐突に、老人が日本語で話しかけてきた
慧は顔を上げ、瞳だけで相手を見据えた
「なぜ、日本語が?」
「違うさ。お前が俺の言葉を理解しているだけだ。……それがお前の“力”か」
慧は即座に分析を始める
この老人は、少なくとも「外界の言語」をこの短時間で操れる知能を有している
それが訓練によるものか、生得的な才覚か、あるいは何らかの人工的強化か──それはまだ分からない
「名を」
「ミュール・ザイン。かつては〈翻写官〉だった者だ。今は囚人、いや“生きた遺物”だと言われている」
「翻写官……言語関係の職か」
「ほう、推察力もある。だが――お前、本当に“初めて”この地に来たのか?」
「そうだとしたら?」
老人は短く笑った。だがその笑みには、敵意も侮蔑もなかった
「なら、異質すぎるな。あの〈門〉の下で、自分の名を躊躇なく名乗る者など……私は久しく見ていない」
慧は黙っていた
何を語るかより、何を黙るかの方が、よほど相手に情報を与える
──だが、老人はそれでも続けた
「この世界には、五つの階級がある。上から順に〈純血の冠〉、〈印章持ち〉、〈城務者〉、〈従民〉、そして……我らのような“階位なし”だ」
「なるほど。軍事貴族階級制か。兵と民が明確に分かれている構造……ふむ」
慧はうっすらと笑みを浮かべた
“魔法のない世界”でそれだけの階層が成立するには、必ず物理的暴力と情報統制がセットになっている
「ヨルグとは、その頂点か?」
「いや、ヨルグは“中央の一角”に過ぎん。全てを統べるのは、遥か西の“環”。そこが本当の支配地だ。……だが、お前が向かうのはその前段階、地方の軍政都市〈オルト〉だ」
車輪の音が一瞬止まり、馬の嘶きが響いた
どうやら小さな集落の前で一時停止したらしい
慧は立ち上がり、隙間から外を見た
──木造の屋根。地面は踏み固められた土。周囲には武装した兵が4人
中央に立つのは、明らかに士官階級の男。身にまとうのは銀灰色の鎖帷子。背筋が異様なまでに伸びている
「奴が、〈執行隊〉のカロスだ」
老人が呟く
「……執行?」
「ああ、“異物の排除”を担う専門部隊だ。……そして、お前はもう『異物』として登録された」
その言葉に、慧は何の動揺も見せなかった
逆に、視線の奥には淡い興奮すら宿っていた
(異物──ならば俺は、この世界の秩序を外から揺らせる存在だということだ)
それは脅威ではなく、好機
法と秩序に従う義務を持たぬ“外部者”だからこそ、破るべき境界線を自ら選べる
鉄籠の中で、慧はゆっくりと目を閉じた
情報は、集まる
相手は、自ら話し、自ら立場を明かし、自ら世界を説明してくれる
(なら、俺のやることは一つだ)
──ただ、黙って観察し続けろ
いつかその“言葉”を、この手で塗り替える日のために