ホノコのまよい家
わたしは白い建物に入りました。巨大な木造建築の扉が、きいいと音を立てて開きます。建物に入ると、半透明の人々がたくさんおられました。白髪の、老年の男女が多いのですが、皆まるで虚空を見つめるように、ぼうっと佇んでおられます。まるで水の中に絵の具を溶かしたかのような、ぼやけた輪郭と肌の色をしています。その者たちは建物の広間に並べられたベンチに、等間隔に並んでおられました。そして一言の喋らず、動かず、じっと座っておられました。
わたしはきっと、たいへんな場所に迷い込んでしまいました。
恐る恐る足を進めると、ひとつの物体が私に話しかけてきました。赤いイノシシの顔をした人間でした。不気味な生命体だなと思います。白くゆとりのあるワンピースのようなもので全身を覆い、腰には紫の紐を巻いて恰幅よく腹を膨らませております。それはまるで神話に出てくる神々のような出で立ちです。この者はほかの人々とは違い、輪郭と色がはっきりとしており、生き生きとしておられます。表情も豊かで、微細な筋肉の動きが、はっきりとわたしの目に映ります。
「やい、おまえやおまえ。」
赤猪はわたしに勢いよく話しかけてこられます。迫りくる巨体は、私の身体を二倍ほど大きくしたみたいでした。思わず怖くなって、身がすくんでしまいましたが、赤猪は穏やかな表情で、わたしの話しかけます。
「おまえ、見ない顔だな。」
赤猪は言いました。
「おまえのような若く美しい人間の娘が、どうしてここに迷い込むことがあろうか。」
「さ、さあ。私にもよく分かりません。」
「ははは、まあよいのだ。それよりも美しき若い娘、どうだ、この赤猪子の妻にでもなる気はないか。」
「いいえ、それは結構です。」
「人間であるとて無下には扱わぬが、嫌か。」
「はい。」
きっぱりと言いました。
「ははは、それは残念。」
赤猪子は言うと、早く立ち去った方がよいぞと一言添えました。しかし、ここから立ち去る方法など、わたしには分かりません。このイノシシ人間を頼るしか、もはや方法は残されていないようにも思えます。周囲には沢山の、半透明の人間たちがいます。しかしこのイノシシ人間のほうが、どうしてか信用できます。
「あの、イノシシさま。」
「おう?」
わたしは勇気をもって赤猪子に話しかけました。
「わたしはどのようにここに来たのか分かりません。ゆえに、ここからどのように帰ればよいのかも分かりません。いったい、どうすればよいのでしょうか。」
「困ったことだな。」
赤猪子は首をかしげ、じっと何かを考えます。そして、このように言葉を発せられました。
「ここは神々の住まう社であり、わたしはその門番をしている。周囲を見渡してみれば分かるだろうが、ここに集うのは、おまえと同じ人間どもだ。見てみなさい、色も輪郭も失って、生きることも死ぬこともやめてしまった哀れで醜い人間どもが、ここには数多くいるのだ。」
「哀れで醜い人間……ですか。」
「そうだ。神々におんぶにだっこで、自らの手で世界を動かすことのできない、哀れな者どもである。そういう自分のことしか考えない人間たちだ。」
「しかし、彼らだって生きております。」
「ははは、やつらは生きることをやめた。しかし死ぬことも怖いのだ。だから神に、仏に助けを求めるのだ。どうか自分たちを救ってくれと。なんと自分勝手は言い分か。」
「人間なんて、そんなものでしょう?」
「ははは、確かにそうかもしれないな。所詮人間なんて言うのは、自分で運命を動かすことのできない、ただ流されるままに生きるだけの、哀れな生き物なのかもしれないな。」
「ひどい、見損ないますよ!」
私が語気を強めた時でした。美しい女性の声と共に、まるで館内アナウンスのように響き渡る声がありました。
「ピンポンパンポーン。三十五番の方、四番のお部屋へどうぞ!」
すると、半透明の群衆の中から、すっと立ち上がった者がいた。白髪の背中を丸めた老人であった。しかし色も、輪郭も薄く、今にも消えかかっているようです。
「ちょうどよい。百聞は一見に如かずと言う。娘よ、あの哀れな老人についていってみなさい。そうすればきっと分かるだろう。」
赤猪子は言いました。
「いいのでしょうか。勝手に動けば、ここの建物の方々に迷惑をかけてしまう。」
「なに大丈夫だ。この赤猪子が責任をもって、ここの神々に事情を説明しておく。ゆえに、いちど行ってみなさい。元の世界に帰るきっかけも掴めるかもしれない。」
「ついて行けば、元の世界に戻れるのですか?」
「分からぬ。きっかけは掴めるかもしれないというだけだ。しかしおまえが自らの力を信じ、正しい努力を行えば、きっと何か分かるだろう。」
赤猪子は柔らかい笑みを浮かべます。
「おまえが自分の色と輪郭を失わなければ、きっと道は拓けよう。ほら早くしないと、あの哀れな老人が先にいってしまうぞ。」
「はい、分かりました。では言われた通り、行って参ります。」
「うむ。健闘を祈っている。」
「はい、ありがとうございます!」
そうしてわたしは赤猪子の言う通り、猫背の老人に続いて四番のお部屋に付いていくのでした。大広間から狭い通路に入ると、そこには個室への入り口がずらりと並んでおりました。その白い内装も相まって、まるで病院のようです。老人の後ろをしばらくつけても、彼は一切気づく気配がありません。亡霊そのものの足取りで老人は四番の部屋の扉をがらっと引き、閉めることもせず中に入っていかれます。私もそのまま中に入り、老人の後ろに立っていました。部屋に立ち入った老人の目の前には、なんとも美しい女性がおられました。緑の宝石を耳飾りにつけており、服装は先程の赤猪子と同じく、白いワンピースのような貫頭衣に紫の紐を腰に巻いておられます。黒髪を後ろで束にして、その大きく丸い瞳で、老人をじっと見つめておりました。
「そこに座ってください。」
女性が言って、老人は椅子に座りました。すると、老人は先程までの気の抜けた態度がまるで嘘のように、女性に向かって口々に言葉を発します。
「神さま、全身が痛いんだ。身体は何にも治りやしないのさ。お願いだから治してくれ。まだ死にたくないんだよ!」
「とりあえず、落ち着いてください。」
このような相手には慣れているのか、女性はさぞ落ち着いて様子で老人に取り掛かります。
「どこが痛いのですか?」
「肝臓がんなんだ。医者には、もう残された時間も少ないと言われた。でも俺はまだ死にたくない。あんた神さまだろう? 神さまだったら、俺のがんを治すことくらい、たやすいものだろう。お願いだから、治してくれ。ほら俺はこんなにも祈りを捧げているじゃないか。俺の病気を治すことくらい、してくれてもよいではないか。ほら早く治すんだ。お願いだ、頼む!」
老人の輪郭がいっそうぼやけていきます。その色も、もはや灰色のヘドロのような体色に変わってゆきます。まるで眼だけが白く塗られた粘土細工のように、老人は変わり果てていきます。しかしその口が静まることはありません。老人は口々に、女性に向かって助けてくれと懇願しています。女性はただ、黙って老人をじっと見つめます。そして言い放ちます。
「あなたは、どうしてがんになってしまわれたのでしょうか。」
老人は答えます。
「分からない。酒は飲みすぎた。しかしがんになってしまうなんて、想いもよらなんだ。きっと不幸だったんだ俺は。そうさ、ただ運が悪かったんだよ。」
「そうですか……」
はあと、彼女がひとつ溜息をついた。
「いいでしょう。ではひとつ、儀式をしましょう。誓約という、古来の神々の儀式です。どうでしょうか。わたしが今から、この耳飾りの翡翠石をかみ砕き、あなたの口に接吻してさしあげます。もしあなたの心が綺麗ならば、きっと病気は治りましょう。しかしあなたの心が穢れていれば、あなたの病気は治りません。よろしいでしょうか。」
老人は臆するように答えます。
「もし失敗しても、俺の身体には何もないんだな?」
「ええ、あなたの病気が治らないだけです。もし心が綺麗なら、きれいさっぱり治るでしょう。」
「そ、それは虫の良い話だな。」
「かもしれませんね。」
「ああそうだな。ぜひそうしよう。早くやってくれ!」
この女は嘘をついていると、私の直感が言いました。おそらく、儀式が失敗すれば、この老人はきっとどうにかなってしまうでしょう。女は顔色ひとつ変えずに、耳飾りを外すと、その翡翠石を口に入れてぼりぼりと嚙み砕きます。蛇のように鋭い目で老人を見つめながら、ぼりぼり、ぼりぼりと、音を立てて口を動かしておられます。そして老人の方に近づくと、口移しに灰色の老人に接吻します。そして、その石を老人に飲ませてやりました。
「おお、おおおお!」
老人は女からの緑の石を嬉々として噛み砕きます。女はやはり冷徹な表情で、笑うことも顔を曇らせることもありません。
「おお、おお……なんという力だろうか!」
老人はいよいよ興奮して叫びました。
「いかがでしょうか……」
「凄い、これは素晴らしい……素晴らしい、うわああああああああああああああ!」
その瞬間でした、老人のヘドロの身体が前後左右に大きく膨れ上がったかと思いきや、そのまま弾け飛ぶように、跡形もなく弾け飛んでしまったのです。背後にいたわたしの頬にも、老人の残骸である灰色のヘドロが飛びついてきます。女に至っては、その灰色の泥を全身に浴びております。部屋は途端に静かになってしまいました。灰色の泥をかぶりながら、女はわたしの方をじっと見つめます。
「むごたらしい場面を見せてしまい、誠に申し訳ありません。」
女はわたしに話しかけてくれました。
「赤猪子から話は聞いております。ここを訪れる人間にしては珍しく、美しい娘がやってきたと。ふふふ、初めまして。私は香具姫と言います。以後お見知りおきを。」
「は、初めまして。」
その圧倒的な雰囲気に、女性なのに見惚れてしまいます。姫が右手を払うと、不思議なことに、灰色のヘドロの残骸が徐々に蒸発し、最終的には空間から消えてしまいました。そうして、先ほどの出来事が何もなかったように。もっと言えば、老人の存在すらまるでなかったかのように、部屋はもとの状態に戻ってしまいました。
姫はじっと目を据えて、言いました。
「これが人間です。わたしはあの老人に、もし心が穢れていれば、あなたの病気は治らないと言いました。ええ、治らないのです。治らないから、破滅してしまいました。そもそも、あの者は元からもう生きる気力を失い、半透明になり果てておりました。決して肝臓のがんが、あの者の身体を蝕み尽くした訳ではございません。がんのせいではありません。それ以前の問題なのです。あの者の低俗な意識ががんを生み、破滅を生んだのです。あの者は、自らの意識によって、自らの身を滅ぼしたにすぎないのです。それがあの者の病そのものです。悲しきかな、最近は患者さまが増えてきました。神ならばきっと病気を治してくれる。まるで神さまのことを、全知全能の何かだと勘違いしていらっしゃいます。だから自分は何もしない。自分は何も悪くなく、ただ自分の身体を蝕む病気が悪い。そのようになった運命が悪いと、そう口々におっしゃいます。人間界でもそうでしょう? お医者さまは必ずしも全知全能ではないのです。しかし患者さまはみんな、お医者さまだから必ず何とかしてくれると言って、自分では何もなさらない。自分の身体を、自分で労わってあげようとはしません。自分と向き合うこと、自分を律することをそもそも諦めて、他責なってしまっているのです。」
「確かにそうかもしれません。でも全員がそうでは、ありません。」
「ええそうですね。でもそういう人間は増えています。そして、それはどんな病気よりも重い、意識の低下という不治の病なのです。だから、少々手荒な真似をすることも、私は仕方がないと思います。生きることも、死ぬこともできない哀れな人間には、これで良かったのかもしれません。」
姫の語り口は穏やかでありますが、わたしには少し怖く思えました。目の前で老人を滅ぼした姫と相対し、どうして恐れずにいることができましょう。しかし姫はとても優しく、柔らかい笑みを浮かべております。
「姫さまは、いったい何をなさったのですか?」
わたしが言うと、姫はとても優しい口調で答えてくださいます。
「この世界の中心にいらっしゃいます、大神の答えを尋ねました。この者を生かすか、殺すか。それが儀式の正体です。そして結果は見ての通りです。大神は、あの者を殺すことを選びました。」
「だとすれば……大神とは残酷な存在なのですね。わたしなら、あの老人を助けていたと思います。もし神さまが優しければ、きっとそういたします。」
「ふふふ、そうかもしれません。しかしそれが世の中の理であり、神の世界の真実なのですよ。」
「……あまり意味が分かりません。」
「そうですね。例えば新陳代謝とてそうです。古い細胞は捨てられ、新しい細胞が作り出され、そうして私たちの身体は維持されていますね。生と死もそう。死して生まれる。このサイクルの繰り返しが、世界を保っているのです。そうして不要になったものは滅び、新しく生まれ変わる。それが世界の真実なのです。そして、大神のご意向なのです。あの老人はこの世の中にとって、ただ不要なものだったにすぎないのです。不要なものは生まれ変わる。それが世界の真実です。だからあの老人が死して、生まれ変わるよう、大神が仕向けたのです。」
「なんだか、最低ですね。」
口をついたように、そんな言葉が出てしまいました。あの老人のように、私もきっと消されてしまうかもしれない。そう覚悟しましたが、意外にも姫は穏やかな様子で、こう語りかけてくださいました。
「人知を超えた存在ですから、人の感情や常識をもとにして大神を推し量ってしまっては、きっと神の世界は見えてこないでしょう。だからこそ、理屈ではなく、あなたの肌と心で神の世界を見つけてごらんにいれなさい。あなたもきっと、いずれ神の世界を悟る時が来るかもしれない。その心身の奥底にいる、生まれた頃よりあなたに憑依している神さまに、出会える日が来るかもしれません。それを肌で感じる日がくるやもしれません。そうすれば、きっと神の世界を見ることができましょう。」
「そんなの、分かるはずがありません。」
「信じない者に、神の世界は見えませんよ。」
「ええ、そんなもの要りません。」
躍起になって語気が強くなってしまいました。しかし私には、姫の言っていることが理解できません。そのまま勢いよく部屋を出ると、赤猪子のいる広間に足早に帰ってしまいました。広間には、先程よりも多くの人々がおりました。赤猪子が私に気づき、声をかけてくれました。
「おお、どうだった?」
「気分が悪かったので、帰ってきました。」
私がぷんすか怒っているからか、赤猪子は下手に出るように尋ねてきました。
「何かあったのか?」
「私の目の前で、姫さまに老人が殺されてしまいました。やりすぎにもほどがあります。」
「そうか……」
赤猪子はそのまましばらく黙ってしまいました。辺りは静寂で、私と赤猪子の声だけが広間に響いておりました。そのまましばらく時が過ぎた頃、赤猪はふんと大きく鼻息を鳴らすと、わたしに向かって言いました。
「娘よ、今から残酷なことを言うが、許せよ。」
「はい。」
赤猪子から発せられた次のひとことは、まさに衝撃でした。
「ここは、生きることも死ぬこともやめた人間たちの、殺処分場なんだ。」
その瞬間、ぞわっと全身の血の気は引いていくのを感じました。
「人間の、殺処分場?」
「そうだ。」
「そんな……そんな……!」
ああ神さまとは、なんて残酷なことをするのだろうか。いてもたってもいられませんでした。この胸の内から湧き上がる衝動は、わたしを突き動かすのには十分すぎるほどでした。私は赤猪子との話を即座に断ち切り、広場の真ん中に向かって勢いよく走り出しました。そして広場のあらゆるところにいる、生きることも死ぬこともやめた亡霊たちに向けて、叫びました。
「早くここから逃げなさい! おまえたちは今から殺される!」
私は叫び続けました。早く逃げないと殺されるぞ、ここはおまえたちの殺処分場なんだと。必死に、この者たちの命をなんとしても救いたいと思って、いっぱいに叫び続けました。半透明の人類は、みんなわたしの方を振り返りました。しかし、誰一人としてわたしに賛同してくれる者はいませんでした。どうして誰も聞いてくれないのでしょうか。私はただ、この者たちを助けたいだけなのに、どうして……。
「残念だけど、諦めなさい。」
背後から声をかけられました。振り返ると、先ほどの姫さまが、首を横に振りながらわたしを憐れむように見つめていました。
「この者たちは、他人を信じるということをやめてしまったのです。だから、あなたの声がこの者たちに届くことはありません。お分かりでしょう。もう手遅れなのです。だから、この場所に集まっているのです。」
「そんな……そんな……うわあああん!」
その瞬間、私は大きな声をあげて泣きわめいてしまいました。姫さまはそんな私を優しく、ぎゅっと抱きしめてくれました。
「あなたの気持ち、分かります。私も若い頃、なんとかしてこの者たちを救えないかと奮闘いたしました。しかし、どれだけの手を打とうと、この者たちを救う手立てはありませんでした。常世の人々は神に導かれし生き方を忘れ、ここに来る患者の数は、日を追うごとに増えております。そんな彼らに、神は死と再生という、最後の手段を与えるのです。そしてわたくしや赤猪子をはじめ、ここに集う神々は、その世界の真実をここで執行している者たちなのです。」
私は泣きながら、姫さまに尋ねました。
「もう、もう、この者たちを救う手立てはないのでしょうか。彼らだって、もとは等しく人間であります。懸命に現実を生きてきた者たちです。そんな彼らが、誰にも看取られず、まるでだまし討ちのように殺されてしまうなんて、理解できません。」
「落ち着いてください。彼らを救う方法は、ございます。」
姫さまは言いました。
「ここに来る人々の数をゼロにすることです。それが唯一、ここにいる人間たちを救う方法です。あなたのような美しく聡明な女性がどうしてこのような場所に来たのか。それはきっと、この建物の存在を、あなたに見せたいという大神のお導きに他ならないでしょう。そして、還元してほしいと、願っているのだと思います。少しでもこの建物を訪れる人々を減らすために、あなたのような強くたくましい若者に、大神は最後の希望を託しているのだと思います。残念ながら、わたしや赤猪子は神の世界の住人であります。ゆえに、あなたたちの住んでいる世界、常世に向かうことはできません。だから、大神はあなたのような若者にこの残酷な景色を見せて、常世をどうか救ってほしいと、仰っているのでしょう。ええ、あなたが最後の望みです。どうか、常世をよろしく頼みます。」
「しかし、そのような大きな使命を、果たすことができる気がいたしません。」
「使命を果たそうとしなくても構いません。ただ、自分を信じて生きなさい。そして感謝を忘れずに生きなさい。そうすれば、何もしなくても、きっと大丈夫です。」
姫さまはその白く美しい指で、わたしの涙を拭いてくださいました。赤猪子もこちらに近づくと、その力強い腕で私の頭をやさしく撫でると、こう言ってくれました。
「おまえのような美しい女子とここで会ったこと、一生忘れることはないだろう。ただし、もう二度とこの場所に来ることのないようにしなさい。これがきっと今生の別れだが、この神世から、おまえのことを見守っているだろう。ゆえに、不甲斐ない生き方はするでないぞ。そしておまえが死して、神世に魂が戻ってきた時には、わたしは更に立派で強い男となって、再びおまえに婚姻を迫ろう。その時にわたしと夫婦の契を交わし、おまえと神世で幸せに暮らすことができればよいなと思う。その時まで、おまえの返事を待っているぞ。」
「赤猪子ったら、ロマンチストですね。」
姫さまが茶化すように言いました。
「う、うるさい! むしろ、かくのごとき麗しき乙女に声をかけないほうが、男としてどうかしている。」
「ふふ、赤猪子ったら、あなたに一目惚れらしいね。」
「やめい、恥ずかしいわっ!」
赤猪子の婚姻は残念ながら、今は受ける気にはなれません。でも、とっても強くたくましく、素敵な男性だと思います。自然と、私の顔には笑顔が弾けていました。ええ、この建物にいる多くの人々の姿を見ると、悲しいのに変わりはありません。しかし、まだ希望は捨てられたわけじゃない。神さまが最後の望みを、私たち若者に託してくださっている。そう思うと、懸命に生きてやらなきゃいけないと思えます。神さまに恥じないように、一生懸命に生きる。それがきっと、私たちのお務めなのだと思います。
そして、いつかこの建物を訪れる人の数が、ゼロになる日がやって来るでしょう。
「そろそろ時間ですかね。」
姫さまは言った。その時、建物の正面の門がきいと音を立てて開きました。その瞬間、広間にはびこる半透明の人々が、まるで先程までの沈黙が嘘のように、一斉に声をあげました。
「うおおおおおお!」
「おおおおお!」
言葉にならない叫び声をあげながら、人々は門の外の世界をめがけて一斉に走り出していきます。門の先に行けば、現実世界に帰れる。私の直感がそう言っていました。そして半透明の人々も、きっとそれを悟っていたのだと思います。だから我先にと、彼らは現実世界に戻る切符を掴むために、他者を蹴落とし、その門の外に出ようとします。しかし、彼らに待ち受けていたのは悲惨な現実でした。
「う、うわああああああ!」
門の外には、巨大な白い龍がおりました。龍は我先にと門の外に出て行く半透明の人々を、容赦なく八つ裂きにして喰らい尽くしてしまいます。ひとり、ふたりと、人々はみな龍の餌食になっていきます。そして、門に駆け出していった半透明の人々は全て、白い龍によって喰らい尽くされてしまいました。辺りには血痕やヘドロのひとつすらも残っておりません。まるで最初から、彼らの存在などなかったかのようです。なんと残酷なこと。私はその場で目を覆ってしまいました。しかし、しばらくすると慣れてきます。きっと何もなかったんだ。そんな気持ちすら湧いてきます。きっと私も残酷な人間なのです。いいえ、これが人間という生き物が持った性なのかもしれません。
「久しぶりね。」
姫さまはその白い龍に向けて言いました。
「久しぶりだな。さぞ美しい女子がここに迷い込んだと聞いてやって来た。その女子は、おまえか?」
龍の鋭い眼光が向けられ、少しびっくりしてしまいましたが、わたしは一歩踏み出し、龍に名乗りました。
「初めまして。ホノコといいます。」
「うむ。よい名だ。」
白龍は二本の長い髭をゆらゆらと揺らして言いました。
「ホノコ、おまえを迎えに来た。さあ、帰るぞ。」
「ありがとうございます。」
帰る時が来たのだ、私は後ろを振り返り、姫さまと赤猪子に深く礼をいたしました。
「ホノコ、元気でね!」
姫さまは再び、温かいハグを私にくださいました。
「あなたならきっと、大丈夫。」
「ええ姫さま、ありがとうございます。」
赤猪子も私の背中を優しく叩きながら、言いました。
「元気でな。神世でまた会おう!」
「はい!」
この二柱の神に出会えたことを、わたしは心の底から感謝申し上げます。
「行ってきます!」
わたしは二人に背を向けました。白龍が背中に乗れと言うので、わたしは白龍の背中に乗り、建物の外に出ます。姫さまと赤猪子は、私が門の外に出るまで、その手をずっと振ってくださいました。外に出ると、薄暗い雲に覆われていました。灰色の空に、辺りは何もない平原が広がっております。とても不気味な様相です。
「ホノコ、わたしの首をしっかり掴んでおきなさい。」
「はい。」
言われた通り、白龍の首にしがみつきます。次の瞬間、白龍はふわりと空に浮き上がると、その長い身体をまっすぐに伸ばし、薄暗い雲の向こうに向けて一直線に進んでいきます。その早さは驚異的で、あっという間に雲のすぐ近くまで飛んでしまいました。風が私の全身に吹きつけます。その爽快感は、何物にも代えがたいものがありました。少し目を開けると、白龍のたくましい白い鱗が、銀白色の光沢を得て輝くのが見えます。そして雲間に突入しようとした時、白龍は言いました。
「ここまでだ。ホノコ、頑張れよ。」
「……はい!」
そしてわたしは雲間に突入しました。次の瞬間、私の意識が身体から離れていくのを感じました。徐々に、温かい浮揚感に包まれます。ああ、ここでお別れなんだ。そう悟りました。視界はどんどんぼやけていき、白龍の首を掴む感覚も次第になくなっていきました。ふわりと、宙に浮かぶ感覚に襲われます。ああ、きっと死ぬ時もこんな感じなのでしょうか。まるでこの世界が、今まで生きてきた私の思い出を、無残にも全否定してしまうかのようです。この最高に心地よい感覚とともに、この白い建物で過ごした時間も、きっと無かったことになってしまいます。でも、それでもいいなと思います。思い出は儚いから、そのありがたみを噛みしめることができるのです。
「ありがとう、ありがとう。」
最後にそう言った気がします。そして雲間を抜けて、青く澄んだ空に太陽が輝く様子を、最後に見たような気もします。しかし私の記憶はそこまででした。そこからは何も覚えておりません。ただ美しく、安らかな時間が、私の全身を包み込んでいたことは鮮明に覚えております。
後日譚
不思議な夢を見てから、二年が経とうとしていたある日のことです。
決死の受験戦争を乗り越えた私は、東京の大学への進学を決めました。卒業も間近に迫り、この河内長野の街にいられるのも、これが最後かもしれない。故郷との別れを思うと胸が締め付けられるような、そんな日々を送っておりました。
そんな時に、わたしは山沿いに、一匹にウリ坊を見つけました。まるでわたしの方を見て、ついて来いと言わんばかりに、ウリ坊はわたしを見ていた気がします。不思議な感じがして、近づくと、ウリ坊は道案内を始めます。ああ、やはりついて来いと言っている。私はウリ坊の後に続きました。入り組んだ階段、登山道も、ウリ坊はすいすいと昇って行ってしまいます。ついて行くのが大変でしたが、でもなんだか楽しくて、やがて山の奥の方まで、ウリ坊はわたしを導きました。もう辺りは鬱蒼とした森の様相で、アスファルトの道が絶え絶えになっているほどです。山の下には、見慣れた市街地が広がります。
いったい、どこまで行くのでしょうか。
そんな森の中を、また二十分くらい歩いたと思います。ウリ坊がふと立ち止まり、その方を見ると、ひとつの小さな神社がありました。カオスな山道の中にありながら、綺麗な石畳で整備されている、とても綺麗な神社です。その周囲は緑の木々に覆われており、深呼吸をすると、まるで身体が浄化されるような心地です。ウリ坊は私の方をじっと見つめています。その姿は、まるで神の使いのようにも思えます。
「どうして、ここに連れて来たの?」
わたしは近づくと、しゃがんでウリ坊に話しかけました。ウリ坊は人間であるわたしを警戒するような素振りをひとつも見せません。むしろ、座り込んだ私の膝によりかかってきます。さあっと、冷たいそよ風が吹きました。
「もう、しょうがないやつ。」
あまりにも可愛くて、ウリ坊の背中を少しさすってやっていた時、神社の境内からひとりの老人がこちらに歩んできました。かなり高齢な見た目ですが、背筋はまっすぐ伸び、足どりもたくましく、柔らかい笑みが印象的な優しい老人でした。
「そいつな、少し前にふらっとここに来よったんや。」
老人は気さくに言いました。
「そんでな、あんまりにも可愛いからな、ここで養ってやることにした。」
そう言って、わたしのそばにいたウリ坊の首根っこを掴み、わたしから引き離してしまいました。
「あんまお客さんに迷惑かけんなよ?」
老人は微笑みながらウリ坊に言います。
「ああ、お気になさらず。このウリ坊ちゃん、とても可愛いので。」
「いやあ、ははは、そうよなあ。」
そうして笑いながら、老人は言いました。
「あんた、どうしてここ来たん? ここに来る人なんか、ほぼおらんっちゅうのに。」
「ふふ、このウリ坊ちゃんが、連れてきてくれたんです。」
「へえ……それはなんや、不思議やなあ。猪でも狸でもあらんと、あんたみたいな別嬪な嬢さんさんがここ来るなんか、滅多にないことやからなあ。目の付け所ええやんか、おまえ。」
そう言って、おじいさんはまたウリ坊をどつきます。
「ぷぎィ!」
ウリ坊はびくともしません。愛らしい鳴き声で老人に返事するように鳴きます。
「こいつ、嬢ちゃんのことたいそう気に入っとるんやな。」
老人はそう言いました。
「ウリ坊のこと、分かるんですか?」
「いやあ、なんとなくな、こいつの声とか聞いてたら、そんな気がすんねん。それになぁ、なんとなくやけど、ただのウリ坊やない気もするんや。」
「へえ。」
「そや、ここには昔からな、神隠しの伝説があるねん。せやから、ひょっとしたら、このウリ坊は神さんの使いか何かかも、しれんなぁ。嬢ちゃんも、あんな夜遅うならんようにな。夜になったら、ここ真っ暗やからな。」
「ああ、はい、気いつけます。」
「ほな。」
老人はそう言い残して、鳥居の外に去って行かれました。神隠し……その時、二年前の白い建物での記憶が、蘇ってきました。よく見ると、このウリ坊の顔つきに、見覚えがある気もしました。
「おまえ、赤猪子かい?」
私は言いました。その時
「よくぞ、見破ったな。」
脳内で赤猪子の声がしました。二年ぶりに聞く、どっしりとした男の声です。ああ、やっぱりそうなんだ。この不思議なウリ坊は、やはり、ただの猪の子ではありませんでした。
「赤猪子、どうしてあなたが、人間の世界にいるの?」
私が尋ねると、ウリ坊は言います。
「おまえに、会いに来た。」
「私に?」
「ああ。」
「ふふふ、どうして?」
「お前の姿を一目会おうと思い立った。しかし、こちらの世界に来る時に力を使い果たしてしまい、このような姿になってしまった。かろうじて神社の中なら喋ることができる。だから、おまえをここに連れてきた。おまえと話すために。」
「私に、会いに来てくれたの?」
「そうだ。」
「ふふ、嬉しいよ、赤猪子。」
しっとりと濡れた空気が神社の境内を満たします。緑の木々がそよぎます。住宅街を離れ、静かな山の自然の中。まるでここは、神々の住まう世界の入り口のようです。霧が立ち込め、私とウリ坊の周囲は、白い煙で塗りつぶされていきます。しかし不安はありません、太陽の光は眩しく、この場所を照らしてくれていました。私はウリ坊に、あれから二年間のことをじっくり話しました。そしてウリ坊も、あれから白い建物がどうなったのか、話してくれました。
白い建物を訪れる人間の数は、日を追うごとに増えております。
しかし、同時に若く聡明な者たちが増えているのも、事実だと、赤猪子は言いました。だから、希望は捨ててはいけないと。
「ホノコ、お前は東京とやらに行くのか?」
「ええ、そうです。」
「何をするんだ?」
「ふふふ、特に何もしません。ただ、人や、学問や、様々なものとの素敵な出会いがあるかもしれません。だから、それに期待して私は、人生の新しいステージに進みます。そして、自分の人生は、自分で切り拓いていきます。沢山やりたいことがあります。世界中を旅したり、地球の自然を満喫したり、今やりたいことを、惜しみなくやります。」
「立派な娘になったな。」
「ふふ、逆に赤猪子は小さなウリ坊になってしまいましたね。」
「ははは、神世ならばおまえの二倍ほどは大きいものを。」
「ふふふ。」
そうして私たちは、空に茜が差すまで話し続けていました。赤猪子と会話する中で、分かったことがあります。二年前の自分は、あの白い建物で殺処分される人々のことを、助けたいと思っていました。誰も殺させてなるものかと思っていました。しかし今は違います。世界という存在にある全てのものは、死と再生を繰り返しています。人間だけがその摂理から逃れようというのは、なんと都合のいい考え方なのだろうかと思います。
そうです、死と再生からは逃れられないのです。
私は、死と再生を肯定します。そして、自分もその死と再生のサイクルの中で生きていることを、今は自覚できています。
だから、私は世界のためにできることをします。
それが何であれ、自分で決め、自分で行う行為の全てが、きっとこの世界にとって意味のあることなんだと思います。生き方に正解はありませんが、少なくともこれが、私の今の答えです。
そして、別れは唐突にやってきました。もう既に、日は沈みかけておりました。
「ホノコよ、私は日が沈むと、力を失ってしまうのだ。」
赤猪子は言いました。
「ここまでだ。今度こそ今生の別れになろう。」
「そっか。それは残念だよ。」
「ああ。ただ最後におまえと話せて、本当に嬉しい。」
「ええ、私の方こそ、本当にありがとう。」
なんだか涙が溢れてきました。私は小さいウリ坊になってしまった赤猪子を、ぎゅっと抱きしめてあげました。あの巨体がどうすれば、こんな小さな身体になってしまうのでしょうか。でも、それほど大きな力を使って、私に会いに来てくれたのだと思うと、本当に嬉しくてたまりませんでした。
「ありがとう、赤猪子。」
「ぷぎィ!」
私はありったけのありがとうを込めて、赤猪子を力強く抱きしめました。ウリ坊は、それから二度と話しませんでした。空を見上げると、茜色がますます強くなっています。私は胸元に抱きしめていたウリ坊を地面におろすと、最後にその頭を二回ほど撫でて、ウリ坊に背中を向けました。
元気でね、赤猪子。私も、力強く生きていくからね。
緑の森にさあっと風が吹きます。夜の訪れを告げるような、冷たい風でした。その時、境内の灯篭に橙色の光が灯ります。灯篭は鳥居までまっすぐに続いております。まるで、私の進むべき道を、煌々と照らしてくれているように。
最後に、背後を振り返りました。そこにウリ坊の姿はありません。それを見届けて、私はいよいよ、清々しい笑顔で前を向き、勇ましい足取りで帰路につきました。
未来は怖くない。進むべき道はいつだって、照らされている。それを信じて、あとは力強く、たくましく、一歩目を踏み出せばいいんだ。
(完)