4話 動機/確信
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鬱ノ宮夏姫は記憶を取り戻す為に動き始めた。
退院してから半年間、特になんの行動も起こさなかったはずの彼女が、どうして今になって重い腰を上げたのか―――
『ナツキ様へ』
それは、一通のメールがきっかけだった。
どこの誰かもわからず送り主不明、恐らく捨てアカウントからのもの。
『あなたは一年前とある事件に巻き込まれました。私はそれを追っている者です。記憶喪失であるナツキ様は覚えていないかもしれませんが、私は当時のあなたのことを知っております。もし『リョウ』という名前に心当たりがあるなら返信を下さい。待っています』
このメールに対して夏姫は返信することはなかったが、この文面だけでもいくつか気が付くことがあった。
まず『ナツキ』呼びであること。これはSNS上の夏姫を知っているからこその呼び方だ。
次に、一年前の事件、そして夏姫が記憶喪失であることを知っているということ。これは夏姫の両親と当時その場にいた憂妃、その家族、警察や医師のみが知る情報である。
最後に『リョウ』の名前を知っていること。
半年にわたってSNS上で仲良くしていた相手の名前をここで出してくる、というのはあまりにも不穏が過ぎる。本人だとすれば迂闊としか言いようがないし、恐らく別人だろうというのが夏姫の見解だった。
―――となると、だ。
このメールを送ってきた人間が何者なのか、これだけで必然的に絞れてしまうのである。
そうして夏姫は答えを導き出した。
確信に至ってはいないけれど、だからこそそれを明確にしなければならない。
―――鷺森憂妃。
彼女がメールを送りつけてきた張本人であるならば、なぜ一年前の事件について調べているのか、ナツキとリョウの関係性を知っている理由はなんなのか、それを確かめる。
夏姫は大切な友人を信用したいからこそあえて疑った。
だからこそ記憶を取り戻したいと願うようになったのだ。母親や友人、自分の身近にいる人達を安心させたいがために。
―――憂妃が実は『リョウ』なのではないか?
夏姫の脳裏にはそんな疑念すら浮かんでいたものの、それなら件のメールでわざわざ名前を出す理由がわからないし、待ち合わせをしている状況であからさまに電話をかけて合流を図ろうとするはずもない。
どちらかといえば、憂妃が夏姫に対してなんらかの探りを入れようとしているのは明らかだったものの、夏姫自身それに悪意のようなものは感じ取れなかったし、憂妃は夏姫と再会できたことを心から喜んでいるようにすら見えた。
もし一年前の事件を調べているのが憂妃なら、わざわざ遠回りな方法で夏姫に接触を図ろうとするだろうか?
行動に対する動機が見えない以上、夏姫も下手に詮索するわけにはいかない。憂妃がなぜ『リョウ』のことを知っているのか、それだけは確かめなければならないけれど、本人が否定している間は突っ込みきれない。
メールを送ってきたのも、『リョウ』の正体も、そのどちらも憂妃とはまったく関係ない可能性すらある。
(いったい、どうすればいいのかしらね……)
結局『リョウ』の姿を確認することもなく、憂妃の真意を聞き出すことすら叶わなかった。
夏姫は、これから自分が何をするべきなのか、記憶を取り戻す為に必要なものはなんなのか、まずはそれを見い出さなければならない。
◇◇◇
『今日はごめん。本当は会いたかったんだけど、友達に邪魔されちゃって』
『全然いいよ、俺も緊張しすぎてて会っても何を話せばいいかわからなかっただろうし……』
親友と別れて帰宅した私は、さっそくメッセージを返すことにした。
どうにかうまく誤魔化す必要があったものの、この後のやり取りでなんとかなりそうだ。
(『リョウ』がストーカーなんかじゃないって納得させるのは難しいけど……そもそも、どうしてストーカーだなんて発想があの子から出てくるの……?)
一年前の事件について本当に覚えていないのであれば、そのような発想が浮かび上がるのは唐突が過ぎる。
ナツキとリョウとしてのメッセージ、そのやり取りはいたって健全だし、普通に生活していればストーカーだなんて単語すら脳裏によぎることはないはずなのだ。
つまり、何かしらの理由がある。
ネット上の関係、SNSの相手なんて疑わしくて当然だが、先に『会ってみたい』と言い出したのは向こうの方だし、私はそれに応えただけ。疑うべきはあくまで私が先なのだから。
もしも仮に私が『リョウ』の正体を知っている、ということをあの子が勘付いているとして、それをストーカーという存在と結びつけるに足る“理由”とは―――
「……、まさか」
ふと、ひとりの人間の顔が脳裏をよぎる。
それと同時に悪夢が蘇るように、過去の記憶がフラッシュバックされてゆく。
◇◇◇
ストーカーとは、簡潔に表すならば悪質なつきまといだ。
一年前、実際に私はとある男性によってそういった被害を受けていた。
当時はあまりの恐怖心で親にすら相談できず、何よりもそれが本当にストーカー行為であるかどうかの確信を持てなかった。
それ故に、そのことを話したのは親友であるあの子だけだったのだが、彼女はとにかく親身になって私の話を聞いてくれたし、問題解決のために行動さえしてくれた。
だが、その結果―――
『悪く思うなよ、コイツに近付くからこうなるんだ。コイツがなにか知らずにこれまでオトモダチしてたんだろ? コイツは■■なんだよ。だからオマエのことなんて眼中にねえんだ。親友としては見過ごせないよな?』
違うのだ、本当はそうじゃない。
私が彼女に相談なんてしなければ、こんなことにはならなかったはずなんだ。
だというのに、結果として私と彼女は巻き込まれてしまった。
『やめて……お願い、その子だけには手を出さないで……』
これは、記憶喪失となった鬱ノ宮夏姫には思い出すことができないはずの一年前の事件。
私が思い出すべき―――けれど、ずっと心の中で閉ざしたままの、果てしなく深い後悔の闇。
『もしもし。……ああ、このスマホの持ち主? それなら今オレの足元で這いつくばってるんだけどさ―――』
『いやぁぁぁ!!』
閉ざしておかなければならない記憶が断片的に次々と蘇る。
これ以上思い出せば、きっと私はまた自閉的な生活に戻ってしまうことだろう。
……だから、止めないと。
これを思い出さなければ前に進めないのだとしても―――この記憶がある限り、私はいつまでも罪悪感に苛まれ続けなければならないのだから。
◆◆◆
ナツキとリョウのすれ違いから三日。
件のメールへ返信するか迷っていた夏姫であったが、ついにその決断を下した。
『ひとつだけお聞きしたいことがあります。一年前に起きた事故について、その詳細をご存知であるのなら、あなたはその関係者ということになりますよね。何故『リョウ』という名前を知っているのですか?』
まくし立てるような内容の本文になったものの、夏姫はそれを確かめずにはいられなかったのだ。
―――そうして、その返答は一日と待たずに届くこととなり。
その内容を目にした夏姫は、驚きのあまり目を見開いた。
『返信ありがとうございます。早速ではありますが結論からお話すると、あなたが今SNSで接しているリョウという存在は架空の存在です―――』