1話 喪失/執着
※本作【side.N】は、えねるど先生執筆による【side.R】と同時進行で更新していきますので、あわせてご覧頂けていると、より楽しめる内容となっております。
少女が目を覚ました場所は、薄暗く埃にまみれた廃屋だった。
『な、なに……? ここ、どこなの……?』
起き抜けで力の入らない身体を無理やり起こして周囲を確認する少女であったが、彼女自身その場所に見覚えはなかった。
六畳ほどの狭い個室、鉄格子付きの小窓、質素なコンクリートの壁、ボロボロの箪笥やテーブル、少女の座っている地面には薄汚れた敷布団。
悲惨な部屋とは打って変わって、少女の肌には怪我のひとつもなく、服にも汚れは見受けられない。長い黒髪も眠っていたからか多少の乱れがある程度で至って美しいものだった。
そんな状況の中、少女はわけもわからず部屋から飛び出して、勢いのままに廃屋から抜け出した。
廃屋の正体は山奥の一軒家であり、その周囲は木々に囲まれている。
満月の浮かぶ夜闇に紛れ、少女は見知らぬ場所ながら山道のような悪路を必死に駆けてゆく。
『―――、―――!』
ふと怒鳴るような―――それでいて懇願するような―――何者かの叫び声が聴こえた。
それは、間違いなく少女の背後から迫ってきている。
『はぁ、はぁ……はぁっ……!』
少女は振り返ることなく木々をかき分けながら逃げるように走り抜け、広く舗装された道路に出た瞬間―――
『…………、え?』
―――ドスン、と。
脳髄まで響き渡る鈍い音と共に、少女の意識は消失した。
◆◆◆
少女―――鬱ノ宮夏姫は、今から一年前にとある事故に巻き込まれた結果、心的外傷を患ってしまった。
トラウマによる精神の病は厄介極まりなく、入院してから退院が許されるまでおよそ半年もの時間を要した。
その結果として、事故当時の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまったのである。
そうして現在。
症状は完治しないまま、自宅での療養を余儀なくされた夏姫は、日々部屋にこもってはネットの世界に入り浸っていた。
SNSでつぶやき、動画サイトを眺め、アプリゲームで暇を潰す。
退院後はそんな自堕落な生活を続け、もう半年が経過しようとしていた―――
◇◇◇
ブルル、という振動音。
寝起きでふわふわとした思考が覚醒し、手探りでスマホを手に取って画面を見た瞬間、私の心臓は跳ね上がった。
『新着メッセージが届いています』
その内容はいつも通りの他愛もない文章の羅列。
だがそれだけで私の心は華やかになり、普段の陰鬱とした気持ちが吹き飛んでゆく。
メッセージを送ってきた相手―――それは新たなSNSでアカウントを作り、半年前から連絡を取り合うようになった、いわゆる『ネット友達』というやつだ。
普通に考えれば得体のしれない相手だと思われるかもしれないが、私なりに工夫を重ねて今では信用を勝ち取ったと思っている。
送られてきた内容に目を通してすかさず返信を送る。
ただそれだけの行為だったが、私には何よりもの癒やしだった。
ふと部屋の隅に立て掛けてある鏡を見る。
腰まで伸びた長い黒髪、引きこもり故の青白い肌。
普段は生気のない己の顔を見て嫌な気持ちになるけれど、今の私はどこか浮ついたような表情を浮かべている。
我ながら分かりやすいな、と心の中で吐き捨てて、送ったメッセージの返信を待つ。こんな早朝に送られてくるのは珍しくて、つい心が浮足立ってしまっているようだった。
これが私の日常。
運命的とも言える出会いの日から変わることのない、日々のルーティーンなのである。
◆◆◆
夏姫は解離性健忘と呼ばれる症状を患った。
当時のことをまったく記憶していないためトラウマに苦しむことはないものの、自分がどうしてこんな状態に陥ってしまったのかを思い出すことができないのである。
『夏姫さんは何らかの事件に巻き込まれた可能性があります。それも、とても酷い―――あまり口にはしたくありませんが、精神的な苦痛を伴うような……』
今から一年前、とある日の夜。
音信不通になっていた夏姫は、地元から少し離れた場所で事故に遭ったのだという。
事故の内容は車との接触、その衝撃で跳ねられたことによる頭部の損傷だったのだが、診察していくうちに症状の原因は別にあると判断されたのだ。
問題点として夏姫が事故に遭った場所は地元から徒歩で向かうにしては遠く人里離れた位置にあること、そして所持していたと思われるスマホや財布などを紛失していること―――それらの要素から、何かしらの事件に巻き込まれたのだろうという話になっていた。
当時の記憶を失ってしまった以上、真相はわからないものの、夏姫が精神的な症状を患ったのは事実であり、結果として退院後も自宅から出ることなく療養を続けることになった。
現状に満足なんてしてはいないけれど、これまで見たこともないような悲壮な表情で心配していた親の顔が忘れられなくて、せめて親だけは心配させまいと我慢してきた。
だからこそ、夏姫は記憶を取り戻したかった。
一年前に何があったのか、それが例えトラウマを抱えるに足る出来事であったのだとしても、それを思い出してこの症状を完治させない限り、彼女は自由になれないのだから。
◇◇◇
いかに引きこもりと言えど、私は朝に起きて夜に寝る人間だ。
それが人として正常な精神を育むのだと信じているし、私の心だってそこまで病んでいるつもりはない。
「おはようママ、何か食べるものある?」
うちは母親と私の二人、いわゆる母子家庭だ。
父親は私が幼い頃に他界してしまったらしく、まだ物心のついていない時期だったので私はあまり覚えていない。
ちなみに私は十九歳、今年で二十歳になる。
昔から母親のことは『ママ』呼びなのだけれど、来年には成人するのだし、いい加減に変えた方がいいのかもしれない。
「あら、今日は顔色がまともじゃない。朝ごはんなら今から作るけど、お米とパンどっちがいい?」
普段は『死んだような顔をしてる』と酷評されるのだが、今日は気分が良いのでそう見えたのだろう。
人間なんて単純な生き物なのだ、うん。
「んー、パンかなぁ。あ、自分で焼くから」
朝食の準備を進めながら、私はふと昔のことを思い返す。
今はこんなに明るい母親が深刻な顔をしていたあの日のことを。
◇◇◇
『どうしてあんなところにいたの? どうしてこんなことになったの……? どうして、どうして……!』
無我夢中で山道を駆け下りて気がつけば転倒していたらしい私は、気がつくと病院のベッドの上にいた。
怪我は大したこともなかったが、それより他に重大な問題が発生していたのだ。
『もうあんな危ない真似はしないって、約束してくれるわよね……?』
青白く冷めきった表情で言う母親に負けて、私は黙って頷き返した。
納得なんていかなかったし、どうしてあんなことになったのかわからないままだったけれど、その時は『自分が悪いことをした』のだと感じたと思う。
そうして、私は引きこもりになった。
半年間は考えないようにして、なんとか頭から消し去ろうとしていた邪念―――
『あれ、これって……』
けれど、やっぱり駄目だった。
新しく始めたSNSでその人を見つけてしまって、私はどうしようもなく欲してしまったのだ。
『新作のアニメ、昨日続き来てたけど見たか? やっぱり一番可愛いのはさ―――』
そうして半年間、私はひたすらメッセージのやり取りを続けてきた。
自分が自分ではない感覚に陥るけれど、ネット上での自分なんてあってないようなものだ。いくらでも想像し、創造できる。
だからこそ私は偽ってきた。
一人称も、性別も、口調も、すべて相手に勘付かれない為に作り上げた偽物の自分。
そうしなければ愛されないと知っているから。
―――私は、今度こそ間違わないと決めたのだ。