ブルー・センチメンタル
見慣れた道、見慣れた建物、見慣れた人混み。今日も私は重い足取りで通勤電車に乗り込む。人の茂みから幽かに見える車窓の風景。見慣れた煤けたビル群がスライドしていく。私の気持ちなどお構いなしに燦々と照らす太陽。背景は、澄んだ青空。気分を弾ませなければいけないような同調圧力を感じて、私は思わず顔を背けた。幸運にも電車はトンネルに入り、車窓は一気に暗転した。すると今度は人の茂みから恨めしそうに顔を覗かせる私の姿が反射する。疲れきって生気を失った顔はまるで幽霊みたいだ。
こんなつもりではなかったはずなのに。どうしてこんなことになったのだろう。
昔はもっとキラキラしていた。東京に来れば、夢が叶うと思っていた。でも実際はどうだろう。自分よりも優れた人たちを目の当たりにして、結果が出ずに空回りする日々。いつしか足掻くことも止め、夢を追うことを諦めた。
運良く採用された会社で、誰でもできるような仕事をこなしていく。私である必要はない。代わりなんていくらでもいる。夢も希望もない。昔の私が今の私を見たらなんと思うだろうか。昔は良かった。昔の私の方がずっと良かった。
ああ、疲れたな。私がため息をつくと同時に電車はトンネルを抜けたようだ。再び爽快な青空が車窓一面に広がる。まるで私みたいな憂鬱な者を排斥するかのような陽射しの中に、ふと赤い鉄塔が目に留まった。東京タワーだ。急に懐かしさが込み上げてくる。以前、一度だけ行ったことがあった。あの頃と何も変わらず、東京タワーは存在している。何も変わっていない。時間が止まったように、あそこはずっと変わっていないのだ。もしかしたら、と不意に期待してしまう。昔と変わらないあの場所に行けば、昔の私に戻ることができるかもしれない。
無機質な女性のアナウンスが終わったと同時に、電車はゆっくりと速度を落として停車した。ドアが開き、私の背後で人混みが流動を始めた。この現象があと数回繰り返されれば会社の最寄り駅に到着する。私はこのまま何もしなくていいのだ。何もしなければ、私の日常は続いていく。それで良かったはずだ。自分の気持ちに蓋をするように、自分自身に言い聞かせる。しかし、それは強く押し込めようとすればするほど大きな力で反発する。
「す、すみません、降ります!!」
私は気が付くと、ホーム反対側の電車に飛び乗った。
どのように会社に休みの連絡を入れたか覚えていない。どうやって最寄り駅まで来たのか覚えていない。気が付けば私は最寄り駅にいた。でも、そんなことはどうだっていい。私は何かに突き動かされるように坂道を駆け上がる。伸縮性に乏しいスーツが、不安定なヒール靴が煩わしい。でもそんな些細なことはすぐに気にならなくなっていく。久し振りに運動したせいか、耳元でバクバクと心臓が拍動しているのが聞こえてくる。でもこの胸の高鳴りの原因はそれだけではないはずだ。
あれほど急いでいたはずの足が止まっていた。今まで背の高い木が隠していたため気が付かなかった。木々の間から東京タワーが現れた。高い。見上げなければその全体を視野に納めきれない。私は意を決して歩み始める。近づくにつれて、期待はどんどん膨らんでいく。すぐに東京タワーの麓に到着した。赤い曲線が地面から空へと向かって延びている。そこから細かく分岐する枝からは無骨なようで緻密に計算された繊細さを窺い知ることができる。
ホテルのロビーのような受付を越えて、私は展望台へと続くエレベーターに乗り込む。エレベーターの天井は七色に煌めき、近未来感の演出をしている。私の思わず失笑してしまった。まさにタイムマシンだ。この無意味なような演出が今の私には心地よかった。エレベーター特有の重力を感じながら、以前東京タワーへ行った日に思いを馳せた。
「ここが、東京……!」
「田舎者なの丸出しじゃん」
「ははっ!本当のことだしー」
私の親友、恵美と卒業旅行で東京に来ていた。恵美は東京タワーの展望台の窓ガラスに張り付くように外の景色を見ていた。
「びっくりしちゃった。何処に行っても人混みばっかり」
「すごいよね! こんなにビルがずらーって建ち並んでいるとは思わなかったよ」
初めて訪れた東京に興奮していた私たちは、食い入るように東京の街並みを眺めた。レインボーブリッジが見えるとか、変なビルが建っているとか、しばらく他愛のない話を続けていた。最初は興奮気味に話していたはずなのに、恵美の次第に表情が曇っていった。
「どうしたの?」
「本当に東京行っちゃうんだね……寂しくなるな」
そう、私は春から東京の大学に進学することが決まっていた。恵美は地元に残るから、春から離ればなれだ。
「そうだね……」
「でも、ずっと夢だったもんね」
「うん……」
「夢、叶えてよ」
「東京でみんながビックリするくらい成長して、絶対に夢、掴んでやるんだから!」
「約束だよ?」
恵美は笑った。背景は、澄んだ青空。とても綺麗だと思った。
エレベーターの扉が開くと、あのときと変わらない景色が一面に広がっていた。
「あれ……?」
高層ビルが多く建ち並び、展望台からの景色は東京の街並みに埋もれかけていた。再開発で高層ビルが増えたせいもあるのかもしれない。でも、それだけが原因ではないはずだ。昔はもっと高いと感じた。もっと遠くまで見通すことができた。そのはずなのに。
「こんなものだったかな」
思わず言葉が零れる。期待が外れて拍子抜けてしまった。すると魔法でも解けてしまったように、全てが古臭く見えてしまう。展望台の窓枠の剥がれた塗装も、少し色褪せた看板も。一度気が付いてしまうと、些細なことも気になってくる。きっと、私が勝手に美化していただけ。本当は何も変わっていないに違いない。
そっか、こんなものか。
するとなんだか可笑しくなってきた。こんなものに縋ろうとしていた自分が馬鹿らしくなった。昔の私も実際はこんなものなのかもしれない。しかし、落胆や悲しみなどの感情は全く湧かなかった。きっとこれで良かったのだ。昔の私に戻りたいという願いは、私が東京で過ごした全てを否定してしまう。上京したときの高揚も、情熱も。それは少し淋しかった。私は踵を返して歩き始める。ここにはもう用はない。足早に出口へと向かうことにした。
自動ドアが開くと同時に湿った外の熱波が一気に押し寄せる。うだるような暑さにも関わらず、不思議と私の足取りは軽い。腕時計を見ると、短い針はまだ頂点を指してはいないようだ。もう今日は仕事を休んでしまったから、まだまだ時間がある。私は腕を高く上げて深く深呼吸をした。
振り返ると赤い東京タワー。背景は、澄んだ青空。