6. じゃあ筋トレしていいですか
病院から戻ってきた私たちは、これからのことをどうするか話し合った。
明日からの学校にはまだ行かなくても大丈夫、落ち着くまではしばらくゆっくりしていていいと彼の両親には言われたが、この症状は正確に言えば『記憶喪失』ではないのでゆっくりしていたからと言って回復するとは思われない。だましている罪悪感にウッとなりながらも明日から学校に行くということになった。
そして今彼の父親が学校に電話をして事情を説明してくれているところだ。
「ごめんなさい、ユウちゃん。お父さんが学校に電話している間に、あなたに家の中の案内ができればと思ったのだけど、家事もユウちゃんにまかせっきりだったから、お母さんもお父さんもどこに何があるか全然把握してないの……本当にダメな親でごめんね……」
それを後目にソファに座っていた私たち。私は完全に気を抜いていたところに、彼の母にそんなことを言われて手を握られたのでどぎまぎした。同性ながらほれぼれするような美人である。そして、嘘をついている罪悪感がやばい。
でも入れ替わりとか言ってもきっと私だって自分の身に起こったことではないと信じられなかった。心を鬼にして、記憶喪失であるという嘘は突き通すことにしよう。彼らだって完全に別人になってしまったというよりは記憶がなくなってしまった本人だという方がダメージは少ないだろう。
「あの、お母さん。本当にそんなに気にしないでください。お仕事頑張ってくださるから、私だって生活できているんです。家事だって負担になんて思ったことは、たぶん、なかったと思います」
きっとそう。そして、ユウがそれを気にしているようすはなかった。
本当に負担に思っているのなら、落ち着いた彼のことだから電話をしたときに申し送り事項として伝えてくれていたはずだ。
「ユウちゃん……ありがとう。だめね、一番たいへんなユウちゃんに慰めてもらうなんて」
そう言うと、ユウの母がにじんでいた涙を拭った。もう、涙、宝石かよ!
「ユウ、学校には事情を説明したから、大変だろうが学校に行ってもサポートをしてもらえるだろう。父さんも母さんも初日くらいはお休みを取れればよかったんだが……」
「さっきも話し合いましたけど、学校に連れて行ってもらえるだけで、十分です」
電話から戻ってきたユウ父にそう答えると、彼は頷いたが申し訳なさそうに眉を下げている。うっ……、本当罪悪感が……。しかし、ユウ父もイケオジだなぁ。
「本当、全然大丈夫です! なんとかなりますって!」
思わずそう言ってユウ父に駆け寄ると、なぜか彼も涙目になって、抱き着かれたのだった。
◆
そんなこんなしているうちにすっかり夕方になってしまったので、ユウ父に家の中を案内されーー案内というか一緒に家の中を見て回っただけだけどーー最終的にはお風呂場まで来た。ユウ母は夜ご飯の用意をしてくれている。
「着替えのパジャマはいつもユウがここにしまってくれているからここから取り出したらいい。……本当にひとりで大丈夫か?」
なんて脱衣所でユウ父がおろおろしているが、そっとしておいてほしい。さすがに今日初めて知ったおじさんと一緒にお風呂に入る勇気はない。
「大丈夫です。常識的なことは覚えてますから。ほら、着替え貸してください」
私の着替えを風呂場の一角から取り出して手に持ったままおろおろしているものだからそれをかっさらって半ば追い出すようにして、脱衣所の扉を閉めた。
「ふぅ……」
思わず息を吐く。私のことを気を使ってくれていることはわかるが一日中知らない人に囲まれているというのも緊張するのだ。無意識にこわばっていた肩を回してほぐす。
「うーん……惜しい」
そして、初めて鏡の前に立ってユウの顔をまじまじと見てみたが思わず感想を漏らしてしまう。うん、顔は地味だけどパーツも悪くないし、バランスは非常に整ってる。けれども前髪が長すぎて野暮ったいし、それに何よりヒョロヒョロすぎた。腕は女である私の腕より細いし、顔も若干コケてる。
ぺらりとシャツをめくってみるが、お腹にもお筋肉様の面影はない。
どうしてくれよう。これは鍛えがいがありすぎる。ちょっとわくわくしてきた。
いや、でも何かこだわりがあってこの恰好をしているのかもしれないし、彼には美容室行っていいか、後は筋トレしていいか今日の夜の電話で聞いてみるとしよう。
◆
お風呂で筋トレ欲を抑えるのは大変だった。女の身体だった時にはお風呂でスクワットをするのは毎日の習慣だったし、何より目の前にある鏡を見ると筋トレをせねばという強迫観念に駆られるような肉体がさらされていたからだ。
細い方が好きなのかもしれないが、私はマッチョがいい。マッチョになりたくて頑張っていたのだ。そんなすぐに生活習慣を変えられはしない。
風呂上りには総菜をいろいろ買ってきてくれていたユウ母と、そわそわしながら待っていたユウ父と一緒に夜ご飯を食べる。近所のスーパーの総菜の味がする。慣れ親しんだ味だ。
「ごちそうさまでした。じゃあ、私は部屋で明日の準備をして寝ることにします」
「ごちそうさま。ユウちゃん、無理はしないでいいのよ。もし大変だったら学校くらい少しお休みしたって問題ないんだから」
「心配してくださってありがとうございます。でもまずは行ってみたいと思います」
家にいても暇だしね。それにこれ以上彼の両親に心配をかけるというのも本当に罪悪感が半端ないので、学校くらい普通に通って問題ないという姿を見せてあげたい。
「おやすみ、ユウ」
「おやすみ、ユウちゃん」
「おやすみなさい」
リビングを出るときに挨拶をして、部屋に向かう。彼の部屋は廊下を進んで右だ。
さて、夜に電話すると言っていたが、何時とか聞くのを忘れていた。でも時刻はすでに20時だし、もう夜と言っても過言ではないだろう。
朝からベッドの上に放置していた彼のスマホを取り出して、指紋認証で開く。着信履歴から見覚えのある電話番号をタップ。3回くらいコール音が鳴ったところで相手が出た。
「はい」
「おお、ユウさん。こんばんは。どうだった? うまくいった?
「こんばんは。すんなり記憶喪失として受け入れられました。明日は学校に行くことになりました。ハルさんはどうでした?」
「や、ちょっと、えらくシリアスになっちゃったんだけど」
「シリアス……?」
「ユウさんのお母さんが泣き出しちゃうし、お父さんも自分たちが放っておいていたから家のことも何もわからないって沈んでるしで大変だよ」
「な、なるほど。その展開は予想外でした……。うちの両親もけろっと受け入れるかなと思ってたんですが……」
電話の向こうでユウがおろおろしている。
「あ、それはどうと、ユウさんは家事とか負担に思ってたの?」
「いえ、それは全然。むしろ趣味といっても過言ではないので」
「あー、よかった、お母さんがすごい気にしてたから。あ、それと聞きたいことがあったんだけど」
「はい、なんでしょう?」
「こだわりがあってこの体系と髪型にしてる? できれば筋トレしたいし、髪型も変えたいんだけどいいかな?」
「あー、んー別にこだわりはないです。細い方が俺の好みに合う服とか似合うかなと思ってたんだけど、背が伸びちゃって全然だし。最終的にはめんどくさくて放置してただけなんで」
「おーよかった!筋トレができる! あ、美容院行かせてもらっていいかな? ユウさんのお金使っちゃうけど」
「それはお互い様でしょう。俺もこっちで髪が伸びてきたら行かせてもらうし……あ、俺もちょっと服とか買いたくて。聞きたいことがあったんですが」
「うん、なに?」
「ハルさんも髪を伸ばされたり、かわいい服を着られるのって嫌ですか?」
「うん???」
どういうこと? ユウさん、かわいい恰好がしたいってこと? 実は性同一性障害的な感じだったんだろうか。
事情を把握できなくて首をひねっていると、電話の向こうからユウさんがためらいがちに口を開いた。
「あの、恥ずかしながらかわいいものが好きなんですが、男の身体だと似合わないからその欲を隠して生きてきたんです。いわゆる、乙男というやつでして。別に性自認が女というわけではないんですが」
なるほど。そういうことか。
「だったら、別に全然かまわないよ。自分のキャラ的に似合わないと思ってそういう恰好してただけだし。ユウさんが似合うと思う恰好なら」
かわいい女の子然とした自分とか全然想像つかないから、ちょっと楽しみまである。
「ありがとうございます! あ、そうだ、あとお伝えしたいことと相談が1つずつありまして」
「なに?」
「俺の身体、そんな強くないので大事に扱ってください」
「え、どういうこと、身体弱いの? 持病持ちとか?」
1日過ごして筋肉が足りない以外には特に不調は感じなかったけど、実は喘息持ちとか?
「いや、ハルさんのお母さんがハルさんは家の2階の窓から飛び降りたり、近所の公園を駆け回って擦り傷だらけで帰宅することがあると聞いて。ちょっとそういうことができる身体じゃないので、絶対骨折しますし」
「いやいや、そんなことしないよ! まだ!」
「まだ……?」
当たり前の回答をしたのに、なぜか電話の向こうで息を呑むような気配がする。
「まだ筋肉が足りないからな、もっと身体ができあがってからだ。そういうことをするのは」
「だから、やめてくださいってば!!」
「大丈夫、鍛えれば骨折もケガもしないから!」
「……はぁ……もうとにかく、ケガだけはやめてください……」
「そりゃ当たり前。あ、で、相談は?」
「あの……その……風呂、なんですが、見るのも申しわけないし、その、下の方とか……触るのも……」
すごく恥ずかしそうに言われる。乙女か。
「あー気にしなくていいよ。自分の身体なんだから遠慮せずに見て洗ってくれ」
ちゃんと洗ってなくて臭いとかの方がダメージでかい。
「というか私も何も考えずに普通に洗っちゃってたし、朝も……あーいや、なんでもない」
この乙男な男子に朝のあの現象の処理の話なんてしたら悶絶しそうだし。
「なに!? なんですか!? 逆に途中でやめられると余計気になるんですが!」
「あー、いや、気にしなくていい。うん、ほら、朝もTシャツにパンツだけだーとか言ってたし。ほら、な、完全に自分の身体の意識でいれば問題ないだろ?」
「なれたらなってますってーー!!」
「いや、でもどうするんだ。下や胸を洗えないってなって臭いとか嫌だよ、私は」
「その、ほら、俺は目をつぶっておくから、休日にでも俺んちに集合してハルさんに洗ってもらう、とか」
「なんか余計変態チックじゃないか?」
目をつぶった女を男の身体の自分が洗ってるとか、完全にそういうプレイにしか思えないし、しかもそんな光景が見つかったらなんと言い訳をすればいいのか。
「……確かに」
私に突っ込まれて彼も冷静になったのか、同意をしてくれた。安心。
「ということで、気にせず風呂には入りましょう、そういうことで」
「りょ、了解です」
「で、ほかには何かあった?」
「いや、わからないことだらけではあるけど、ここでは記憶喪失として生きていく以上知りすぎてない方がいいと思うので聞かないでおきます」
「うん、確かに。私もそうしよう」
「じゃあ、あまり長電話をしすぎて電話してるのがばれたら不審に思われるかもしれないので」
「ばいばい。あ、また明日の夜電話しよう」
「はい、また今日と同じくらいの時間に。では」
ピッと通話終了ボタンをタップ。なんだか嵐のような電話だったな。
すごくユウさんは控え目な人なのかなという印象を持っていたけど、なんだか印象が変わった。
さて、寝るか。スマホを充電器に挿して、ベッドに寝っ転がった。
明日は登校か……どうなるかな。
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