「 太 田 姫 の 祈 り 」
第1章プロローグ
その日、ある漁師が死んだ。
原因は水難による事故だった。大きな波に漁師の船が呑まれてしまった。
その漁師は家で二匹の犬を飼っていた。
おおきな犬と小さな犬。
どちらも漁師によくなついていた。
漁師は水の中で自分の命が消えかかるとき、頭の中で家で眠っている二匹の犬のことを
思った。
どうか、どうか…
彼は何かを祈りながら、その命に幕を閉じた。
この物語はここから始まる。
第2章 菅屋の夢
昨日変な夢見てさ」
酒井は昨日見た夢を語り始めた。酒井の隣には、馬のイラストが描かれたシャーペンで、馬の写真がプリントされたノートに講義メモを取っている女がいた。もちろん馬のシャーペンを収納している黒い皮の筆箱にも白い馬のアイコンが施されていた。女の持ち物には全て馬がいた。
「誰かと駅前の広場で友達と待ち合わせしている夢なんだ。その広場はエスカレーターを降りたところにあって、エスカレーターから友達が広場に着いているのが確認できた。早く行かなきゃとエスカレーターを降りて行ったら急にトイレに行きたくなってさ。友達の前まで来た時には我慢できなくて、『トイレ行ってくる!』って友達に言って、そこで待っててもらったんだ。広場の近くのホテルのトイレに行こうとしたら、間違ってホテルの倉庫に入ってしまうんだ。そこでホテルの従業員に囲まれてしまって、『トイレどこですか?』って聞いたら一斉に従業員たちが銃を取り出して銃口を向けられてしまったんだ」
「とても奇妙な夢ね。でも夢なんてそんなものよ。私は夢なんてここ最近見てないわ」馬の女は講義メモを取りながら言った。馬の女は酒井の夢に興味がなさそうだった。酒井の夢より目の前で行われている大学の講義の方が興味があるようだった。
目の前の講義のタイトルは「世界文化史入門」だった。従来の人を中心に語られる世界史ではなく、物を中心に世界史を捉え直すという主旨の講義だ。文系理系の隔たり関係なく誰でも単位がもらえる共通科目だった。初回となる今日のテーマは「印刷機」について。
「印刷に一大転機をもたらしたのは、ヨハネス・グーテンベルグが15世紀に発明した活版印刷技術でした。金属で文字のハンコのようなものを作って、それを組み合わせて紙に文章を押し付けていくわけですね。この技術の開発によって、大量に書物が生産されるようになり、知識が急速にヨーロッパに広まっていくわけです」
講義を担当している先生は活版印刷について熱弁していた。印刷された書物の中に聖書があり、一般市民への聖書の普及は、マルティン・ルターによる宗教改革につながっていく。一つの技術の発明が人々の意識を変革し、これまで築いてきた文化が崩壊し新たな文化が蓄積されていく。
崩壊した文化を見て嘆き哀しむ人々と、新たに積まれた文化の山を必死に登ろうとする人々、両方の顔を酒井は想像した。どちらの顔も同じに見えた。何かにすがりつこうとする、すがっていたいという想いは、物を通して眺めてみると色濃く人間社会を反映した。
「私、行かなくちゃ」と馬の女は身支度を始めた。
「昼休みは部活の練習なの」馬の女は大学の馬術部に入っていた。いつも昼休みの10分前に教室を出て行く。馬のシャーペンは馬の筆箱の中に入れられた。
「ねえ、さっきの夢って続きはどうなるの?」鞄に出したものを仕舞いながら女は質問した。
「夢はここで終わりなんだ。そこでトイレに行きたくなって目が覚めてしまったから」
「そっか。それじゃあ、また明日ね」
馬の女が歩いて行った方に目をやると、スーツ姿の男性と目が合った。どう見ても若い大学生ではなく、四十代のサラリーマンだった。酒井はすぐに目をそらし、講義に視線を戻した。だけど、どうしても集中することができなかった。
馬の女の名前は菅屋と言った。小学5年生のときに同級生から一緒にやろうと誘われて、乗馬倶楽部に通い始めた。その同級生はとても馬に詳しかった。
「馬がいなかったら、私たちが生きている世界はもっと不便だったからもしれないの。昔の人はみんな歩いて生活してたんだから。そこで馬と出会って、馬のすごいスピードで生活できるようになって、どんどん生活範囲も広がって、歩いていては決して辿り着くことができない世界を見ることができるようになったの。だからね、人間はもっと馬に感謝しなくてはいけないの」
同級生の言葉を聞いて、菅屋は馬というものに興味を抱いた。すぐにその週末に同級生と一緒に体験レッスンに行き、毎週のように乗馬クラブに通った。馬の背中に乗ると、とてつもなく視界は高くなった。今まで大きく見えていた物はとても小さく見えた。私を見上げている大人のインストラクターはちっぽけな存在に感じた。自分自身に対して尊大の心を持つことができた。これまで自分に自信がなく、自分から前に出るような人間ではなかった。そんな菅屋が普段持つことができない偉大な心を馬の背中に乗ると感じることができた。
乗馬を通して自信を取り戻した菅屋は中学に進学すると、仲の良い友達とバンドを組んだ。小さいときからピアノを習っていたので、キーボードを担当した。平日の放課後はバンド練習に励み、週末は乗馬に勤しんだ。学校の文化祭で練習してきた曲を披露した。体育館のステージで立ったとき、目の前には沢山の生徒達がこちらを見ていた。その目を見て緊張というものは一切しなかった。むしろ私は見られるべき存在なのだと感じた。見られるべき誇るべき存在なのだと。
菅屋の中学は高校まで続く一貫校だった。そのバンドは高校三年の文化祭まで続けた。だがステージに立つたびに最初の頃感じた高揚感みたいなものは薄れていった。馬の背中に乗ったときの高揚感に比べれば大したことはない。大人の馬の上から見る雄大な景色に比べれば…言葉にならない虚しさが菅屋を襲った。
高校に付属する大学に進学した。高校三年でバンドは辞めた。大学には体育会の馬術部があった。これからは馬術に没頭しようと決めた。私を偉大にしてくれる馬術という競技をもっと極めたいと思った。菅屋が通う大学の馬術部は、キャンパス内に伯舎と馬場を完備していた。授業が終わるとすぐに乗馬の練習ができた。大学の馬術はキャンパスから遠い場所で練習するのがほとんどだ。とても恵まれた環境なのだ。
今日も酒井と受けていた講義を早めに抜けると、キャンパス内にある伯舎に向かった。
練習着に着替えると馬のところに行く。練習パートナーの馬は菅屋の足音に顔を上げた。
菅屋は馬の顔と身体を触り、体調を確かめる。馬の体調菅理も乗馬する者の大切な役目だった。
「今日もよろしくね」馬の顔を触りながら、馬に挨拶をする。
菅屋のルーティンだった。菅屋の馬は何も言わず静かにしていた。他の部員は誰も来ていない。誰もいない広い馬場に馬を連れていった。
馬の背中に乗り込み、まずは軽く馬場を1周する。常足速歩駈歩を一通り試し、感覚をウォーミングアップさせる。2週目のところで馬場に設置された大きな鏡で馬を止め、自分の乗馬姿勢を確認する。少しの前傾姿勢も後傾姿勢も馬にとってはストレスになる。自分の坐骨がまっすぐになっていることを確かめる。馬はとても敏感な生き物なのだ。少しのズレも馬は感知し、人馬一体の領域に到達することはできない。
姿勢を鏡で確かめ、馬場を何週かしているときに人の視線に気づいた。馬場の外で誰かがこちらを見ている。馬場の外側は草木が生い茂っていて、その草木が講義を受けるキャンパスとの境界になっていた。視線の主はその草木と馬場の間ぐらいに立ち、乗馬をする菅屋を見ていた。視線の主はスーツ姿の男性だった。髪の毛が薄くなり、学生というには老けすぎていた。どこからどう見ても、サラリーマンだった。サラリーマンと菅屋は目が合った。菅屋が軽く会釈すると、男も会釈した。菅屋は視線を外し練習を再開した。何週かすると男はいなくなっていた。少し男のことが気になったが、乗馬に集中するために手綱を少し強く握った。
菅屋は昼休みの馬術練習を終えた後、学食で昼食を済ませ学内の図書館に行くことにした。午後に聴講しようとしていた1つの講義が休講になっていて午後は丸々空いていた。図書館で馬に関する本でも読もう。まだ気が早いが、卒論も馬に関するものにしようと思っていたし、今から馬に関するあらゆる資料に目を通しておくのも悪くない。足早に図書館を目指した。
図書館に入ってみると、自分の気持ちが書物よりも映像に惹かれていることに気づいた。まだ利用したことはなかったが、この図書館には映像視聴スペースがある。何か馬に関する映像があれば見てみたい。
馬術のことがあれば最高なのに。そう考えながら映像の棚を見ていると、「栄光ある日本馬術の歴史?オリンピック金メダル編?」というタイトルのビデオが見つかった。菅屋は10年近く馬術をやっていたが、馬術の歴史などについては疎かった。昔の日本馬術が強かったのかどうかさえ、知らない。馬術がオリンピック競技であることは知っていたが、日本のテレビであまり放送されないこともあり、最近のオリンピックでの結果も少し耳にするぐらいだった。たぶんあまり芳しい結果ではなかったはずなのだが。菅屋は馬の背中に乗ったときの高揚感を追いかけてばかりいた。今ここでしっかりと馬術の歴史について勉強するのも悪くない。私は馬術を究めると決めたのだから。
菅屋はビデオを手に取ると、空いている視聴スペースを探した。半分ほどスペースが空いていたから、そこに腰を下ろしてビデオをセットした。横では男子学生が映像を流しながらヘッドフォンをしたまま眠っていた。普通の椅子とは違い、1人がけのソファのようになっていたから、ここで昼寝をする生徒が多かった。それを横目にヘッドフォンを装着し再生ボタンを押した。
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昭和七年(1932 年) のロサンゼンルス・オリンピックの最終日に空前絶後の快挙が成し遂げられた。障害馬術(馬で障害を跳躍する競技。タイムよりも決められた高さの障害を超えたときの出来・不出来に関する得点で争う)で日本初のオリンピック金メダルを獲得したのである。正式の競技名を「馬術大賞典障害飛越個人競技」と呼び、その日本人の名を「西竹一」と言った。西選手以降、馬術におけるオリンピックメダリストは誕生していない。
西竹一選手は当時三十歳になり、陸軍騎兵部隊に所属し中尉として活躍していた。帝国陸軍から派遣された選手として堂々たるパフォーマンスを行った。
西が騎乗していた馬の名を「ウラヌス」と言った。ラテン語で「天王星」を意味した。
肩までの高さが181cm もある大きな馬体で、その巨体にオリンピック競技会場の観衆から感嘆のざわめきが起こったという。
西とウラヌスが出場した馬術大賞典障害飛越個人競技は、馬術競技の中で最も高難度であり、なおかつ最も華やかなものとされ、その名誉にふさわしく、オリンピックのフィナーレを飾る競技としてメイン会場で行われた。この競技の勝者こそ、真のオリンピック勝者であるという意味を持ち、数ある競技の中でも最も敬意が払われていた。
この競技に参加したのはアメリカをはじめ四カ国、十一組の人馬であった。競技コースはスタジアムを縦横に使っての全長1,050 メートルに最高1.6 メートルの大小19もの柵や水濠が並べられ、馬術競技の屈指の難度で配列されていたため、試合は大荒れとなった。
①メキシコのボガネグラ大尉…第8障害で三回拒止(馬が障害を前に停止すること)し失格。
②アメリカのウォフォード中尉…第10障害で三回拒止し失格。
③日本の今村少佐…第10障害で三回拒止し、さらに落馬したことで失格。
④スウェーデンのフォン・ローゼン中尉…初めて全コースを走破し、減点16でゴール。
⑤メキシコのメジャ少佐…第2障害で三回拒止し失格。
⑥アメリカのブラッドフォード大尉…二組目の全コース走破。減点24でゴール。
⑦日本の吉田少佐…練習中に負傷し棄権。
⑧スウェーデンのフランケー中尉…優勝候補筆頭であったが第10障害で三回拒止し失格
⑨メキシコのオルチッツ大尉…落下や拒止が重なり失格。
残す選手はアメリカのチェンバレン少佐、スウェーデンのハルベルグ大尉、そして日本の西竹一中尉となった。
アメリカのチェンバレン少佐が葦毛のショーガールに騎乗して登場した。彼はアメリカ選手の中で最も期待される選手だった。ここはアメリカ・ロサンゼルス。会場に詰めかけた10万人の観客はチェンバレンとショーガールが障害を飛び越えるたびに万雷の拍手と歓声を彼らに送る。彼らは母国からの期待を自分たちの力に変える勇気と冷静さを兼ね備えていた。第6障害と第13障害で若干の着地ミスはあったものの、減点12の素晴らしい成績でゴールインした。
十組の競技が終わり、アメリカのチェンバレン少佐が一位。会場の観客はみな彼の優勝を確信していた。後のスウェーデンと日本の二組は前評判では格落ちとされ、優勝候補には挙げられていなかった。
西中尉がウラヌスに乗って会場に現れた。観衆はウラヌスのその巨体に目を奪われていた。そして会場からざわめきが起こる。見たことのないウラヌスの巨体の素晴らしさと同時に、その巨体で障害を飛ぶことができるのかという疑問と飛べるものかという小馬鹿にしたような空気感が混じり合っていた。
西中尉とウラヌスは落ち着いていた。自分たちに集中することができていた。駈歩で競技場を一周し、ついにタイムスタートの合図の旗が下ろされた。日本選手団監督の遊佐大佐は祈るように西中尉の一挙手一投足を見守っていた。
第1障害を歩調整斉(せいせい=整いそろっていること)、流れるように飛び越えた。
これで勢いに乗った西とウラヌスは、第2障害以降もウラヌス独特の大きな歩調で力強く飛び越えた。そして力強さの中に正確な姿勢が兼ね備えられていた。第9障害まで苦もなく突破することができた。
そして第十障害。これまで三組が拒止し失格になっている最難関の障害だった。ユーカリの枝を積み重ねた上に更に横木が置かれており、異様な佇まいの障害に馬たちは飛ぶことを怖がっていた。ウラヌスも最初その異様さに驚き、左へ切るようにして止まった。その瞬間会場からは、やはり駄目だったかというあきらめのどよめきが起こった。だが西はあきらめていなかった。
西中尉は素早くウラヌスを反転させ、馬首を再び障害に向け、今度は思いっきり高く馬体を飛ばした。ウラヌスもそれに答えた。このままの姿勢では障害に脚が当たると予見したのか、ウラヌスはその巨体を右にひねり、横木と巨体の間に十分な余裕を残して、第十障害を飛び越えることに成功した。
残りの障害もすべて飛越してゴールインすると、観衆は総立ちとなり万雷の拍手を彼ら
に贈った。減点はわずかに8。見事1位となった。
最後のスウェーデンのハルベルグ大尉はタイムオーバーでゴールイン。減点50点となった。熱戦が終わり、慎重な審査の後で、場内のアナウンスが優勝者の名前を高らかに
宣言した。
「ファースト・ルーテナント・バロン・タケイチ・ニシ」
この瞬間、観衆はもう一度万雷の拍手を西とウラヌスに贈った。狂喜した日本陸軍の同
胞たちは「万歳」「万歳」の絶叫を繰り返した。
ウラヌスに騎乗した西中尉は、2位のチェンバレン少佐と3位のローゼン中尉を従えて表彰台に登った。大日章旗がメインポールに上がり、満場起立する中で「君が代」が高らかにメインスタジアムに響きわたった。
新聞記者がつめかけると、西中尉は一言「ウィ・ウォン(We Won) 」と語った。「We」とは自分とウラヌスのことであったが、新聞記者はそれが分からず「我々日本は勝った」と打電した。
この瞬間、西中尉は世界の英雄となった。「バロン(baron= 男爵) ・ニシ」の名が世界を駆け巡り、バロン西とウラヌスは日本のみならず、世界から賞賛される英雄となったのである。
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菅屋の見ているビデオには、80年以上も前にかかわらず、1人の日本人とその愛馬に十万人以上の観客が総立ちで拍手を送る映像が流れていた。やはり馬の乗りこなす者は英雄になれるのだと、ビデオを見ながら感動していた。競技中の西中尉とウラヌスの白黒写真が何枚も映像に流れた。とても大きな馬体のウラヌスが軽々と障害を飛び越えている写真はとても美しく力強さを感じた。
そして同時にこのバロン西さんとウラヌスはその後どのような運命を辿ることになるのか、考えを巡らせながら、一人掛け用の椅子に深く座り直し、ビデオの続きを待った。英雄にふさわしい運命であれば嬉しいのだけど…少し目をつむり彼らの良き運命を祈った。
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あのオリンピックの栄光から十数年後、西は陸軍中佐へと昇進し、ウラヌスは引退し余生を過ごしていた。時代は太平洋戦争の真っ只中だった。太平洋の島々が次々とアメリカ軍の手に渡り、西にも太平洋への島への出陣命令が出ていた。
出陣を前に西にはどうしても会っておきたい者がいた。友人の車を借用し世田谷にある馬事公苑へと車を走らせた。馬事公苑には余生を送っていたウラヌスがいた。軍務で外国へと行くことが多かった西にとって、久しぶりのウラヌスとの再会だった。
ウラヌスは西の足音に気づいた。その音に狂喜した。時間が経っても西との友情を忘れたことはなかった。西がウラヌスの前に現れると、首を西に摺り寄せ、西の肩のあたりを愛?した。それを馬が示す最大の愛情表現であった。西もウラヌスを抱きしめ、再会を喜んだ。
西には今回の出陣は今までと違う特別なものになるとわかっていた。戦局は悪い方向に向かっている。今回の任務もアメリカ軍の猛攻撃を受けることになる。その中を生き残ることは難しいだろう。だが命を賭けてこの国を守ると誓ったのだ。守るべきものを見つけた自分は幸せなのだと感じた。もはや全身全霊をかけてこの国を守るだけだ。そのために戦うのみだ。
西は首元からネックレスを取り出した。そして自分の首からネッックレスを外し、それをウラヌスの首にかけてやった。ウラヌスの顔の下には綺麗な宝石が輝いていた。
「これは君に贈るよ、ウラヌス君。もはや私には必要ないから」
西はもう一度ウラヌスを抱きしめた。ウラヌスも首を西に摺り寄せた。
「この宝石を君にあげる代わりに、君の鬣をもらうよ」そう言うと、西はウ
ラヌスの鬣を数本抜いて胸のポケットにしまった。
「君に出会えてよかった。君は僕にとって最高の友達だ」そう言うと西は伯舎を後にした。
それが西とウラヌスの最後の出会いとなった。
それからしばらくして、ウラヌスは伯務員に連れられて伯舎の外を散歩していた。もうあたりは薄暗くなっていて、空には満月が輝いていた。
「見てみろよ、ウラヌス。今日は月が綺麗だなぁ」伯務員は月を見上げながらウラヌスに話かけた。
ウラヌスは月とは違う方向の空を見上げていた。そこには白い光が見えた。伯務員は不思議に思った。あたりはまだ星は出ていない。月しか空には見えていないのに、その白い光だけははっきりと見えていた。あれが一番星というやつかもしれん。伯務員はそう思うことにした。
ウラヌスはじっとその白い光を見つめていた。ウラヌスは一歩もそこから動こうとしなかった。伯務員はそれを見て、伯舎にエサを取りに行くことにした。星を見ながらエサが食べたいのかもしれん。星を見るという情緒が馬にもわかるのだろうか。
ウラヌスがその一番星を見ているとき、首元の宝石は光を放っていた。淡い光がウラヌスの顔を照らしていた。その間、ウラヌスには何者かの声が聞こえていた。ウラヌスはその声に祈っていた。
「どうか、西と一緒にあなたの下へ」
ウラヌスの祈りを聞き終えると、宝石は輝くのをやめた。元の不透明な石になっていた。
ウラヌスは顔を下ろし、自ら伯舎へと戻っていった。自ら戻って来た馬を伯務員を褒め称えた。
それから一年も経たない内に西は南太平洋の島で戦死する。彼がどのような最期を送ったのかは不明である。その後を追うようにウラヌスも馬事公苑で病死する。ウラヌスが白い星に祈ったように、西と一緒に同じ星の下で輝いている。
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菅屋は映像を見ながら眠っていた。どこかで眠ってしまったのかもしれない。他の学生が映像を流しながら、眠っている菅屋を見て怪?な顔をしていた。そこは寝るところではないという無言の表情を眠っている女子大生に向けていた。
菅屋はうっすらと目を開けたが、ふたたび夢の中へ落ちて行った。
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「馬術のバロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりに惜しい」
拡声器で誰かが叫んでいた。
そこはジャングルだった。木が生い茂り、上には青空が見えた。ジャングルの向こうに洞窟が見えた。あの洞窟の中にバロン西がいるのか。
「馬術のバロン西、投降しなさい。我々は君を丁重にもてなす。
悪いようにしないから出て来なさい。もう一度、君の馬術を私たちに見せておくれ」
拡声器の声はさっきより大きな声で洞窟に向かって叫んだ。
私ももう一度見たい。白黒写真でしか見れなかったあの馬術の勇姿を見せて欲しい。
この人たちは敵なんかじゃない。本当にあなたのことを英雄だと思っている。
英雄にそんな洞窟は似合わない。青空の下でウラヌスに乗って、華麗な演技を見せて。
さあ、早く。私たちは敵なんかじゃない。
「馬術のバロン西、出てきなさい。私たちは敵なんかじゃない」
菅屋は拡声器を持って叫んでいるのは自分だということに気づいた。洞窟に向かって、まだ見ぬバロン西に向かって。
もう一度、拡声器で叫んだ。洞窟は暗闇を抱えたまま、こちらを見つめていた。
菅屋はいてもたってもいられなかった。拡声器を捨てて、洞窟に向かって走って行った。
洞窟の中はひんやりと冷たく、ぼんやりとした明るさがこもっていた。
奥に進んで行くと、ロウソクをたいた一人の兵士がこちらを見ていた。
顔の所々に傷はあったが、服装は綺麗な軍服だった。バロン西が菅屋の前にいた。
「私は投降などしないよ。この国を最後まで守り抜く。そうウラヌスと約束したのだから」
菅屋は何の言葉も発することはできなかった。ただ目の前のバロン西を見つめていた。
「私の馬術は見せることはもう二度とできない。君がどれだけ祈っても。
でも、せっかくここまで来てくれたんだ。これを君にあげるよ」
バロン西は傍に置いてあった革の紐を手に取り、菅屋に手渡した。
それは愛用の乗馬用鞭だった。ウラヌスに騎乗するとき、いつもこの佃を使っていた。
「君は馬術をやるんだろ。だったら君が見せておくれ。君が英雄の姿を見せておくれ。
ウラヌスと共に、空の上から見ているから」
そう言うと、バロン西は銃剣を構えて洞窟から出て行った。足にはエルメス製の乗馬長靴を履いていた。
コツコツという音が洞窟に響いていた。
菅屋は佃を右手に持ったまま、バロン西の背中をいつまでも見送っていた。
ロウソクが消えると洞窟の中は真っ暗になった。
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菅屋は目を覚ました。今度はしっかりとした脳の覚醒があった。ビデオをデッキから取り出し、ソファから立ち上がって帰ろうとした。自分のカバンの中に、さっき夢の中でもらった乗馬用の鞭が入っていた。
きっと、今日の練習で使った佃を間違えて持って帰ってしまったのだろう。そう思って、鞭をカバンの中にしまい、図書館の外に出た。
そっと夜の風が菅屋の顔をなでる。
少し目の辺りに寒気を感じると思い、袖でぬぐうと自分が泣いていることに気づいた。
夢で泣くなんて少し疲れているのかしら。夢なんてほとんど見ないのに。
自分の涙をぬぐい、空を見上げるとそこには一つだけ白い星が輝いていた。
第3章 とても重要な講義
「ガリレオ・ガリレイが好きなんですか?」
酒井が後ろを振り返ると、一人の女性がこちらを見下ろしていた。
名前を赤松と言った。酒井と同じ学部に所属していて、一つ下の学年だ。ゼミ形式の講義で同じグループになったのがきっかけでよく話すようになった。
そのとき、酒井は大学のベンチでガリレオ・ガリレイが書いた「星界の使者」を読んでいた。ちょうどガリレオが発明した望遠鏡に関する記述を読んでいるところだった。
「一番尊敬している科学者だよ」
「どんなところを尊敬しているんですか?」赤松は酒井の横に腰を下ろした。
「そうだね」酒井は少し考えてから語り始める。
ガリレオが生きたヨーロッパの宇宙観がいかに不合理で神聖に満ちていたのか。
いかにガリレオがその宇宙観を変革していったのかを。
「まず、ガリレオ以前の宇宙観というものは、ガリレオが生まれる二千年近く前の人が提唱したものを基礎にしていた。古代ギリシアの哲学者アリストテレスがその代表かな。簡単に言えば、この地球を中心に多くの天球が回っている。その天球たちは天使によって動かされている。あの空の上には天使がいて太陽や月を回しているものだと信じていたんだ。アリストテレスはとても偉大な人物だったから、ヨーロッパの人々は二千年近くもの間、その宇宙観を信じていた」
「そんな中で1609年にガリレオは望遠鏡を自作し、それで天体を観測するようにな
る。月、土星、木星、オリオン座など、多くの星を毎日自分の目で観測し続けたんだ」
そして遂に発見する。木星とその周辺を周る四つの衛星たちを。
その四つの衛星に「イオ・エウロパ・ガニメラ・カリスト」と名前を付けた。
ガリレオをどんな時も応援しパトロンとなってくれたメディチ家の人々の名前だった。
その衛星たちの周回軌道の発見により、地動説がとても合理的なものと位置付けられる
ことになる。
何千年も信じ続けられたアリストテレスの宇宙観を、天空から天使たちを、ついに打ち破った
のである。
「自分の目で観察し、新しい世界を導き出したこと」それが最も尊敬する理由だ。酒井は
そう締めくくった。
赤松は小さくうなづきながら話を聴いていた。
「酒井さん知っていましたか?木星は星の世界で最も尊い星なんです。ジュピターと英語で言うでしょ。あれはローマ神話の最高神の名前が由来らしいです。木星は天空の最高神なんですね」赤松は少し斜め上を見つめてながら語った。
「天空の最高神がガリレオにだけ真実を見せたのかもしれない。
じっとこちらを見つめてくるちっぽけな人間に、少しだけこの世界の本当の姿を」酒井も同じ方向を見ながら、そう答えた。
「酒井さんも、見れますよ。きっと」今度は酒井の方を向いて赤松は言った。
「ガリレオが見れたように、酒井さんにも、きっと本当の世界の姿は見れます。そのために、探し続けてください。ガリレオが探し続けたように。自分の目で、探し続けてくださいね」
赤松のその言葉に、酒井は小さくうなづいた。
「本当の世界の姿を見たい」…そう心の中の誰かがつぶやいた。
もうすぐ次の講義が始まる時間だった。
酒井と赤松はそれぞれの講義に向かった。
酒井はこのとき大学生になって二回目の冬を迎えていた。
昔からの一人でいることを好む性格もあってか、若い大学生のにぎやかな雰囲気になじめないでいた。それでも大学の講義は楽しかった。高校までの勉強がいかに浅くて狭い一辺倒なものであるかを実感した。学問とは広大でそして深い。行き止まりの見えない地平線を、海の浅瀬から眺める船乗りのような想いを抱いていた。
毎日、ほぼ一人で大学に来て講義を受けた。講義のない時間は図書館に行き、興味のある学術書を読んだ。できるだけ人気のない講義を受けるようにした。単位にしか興味がない学生と二階まであるような大きな教室で講義を受けたくなかった。こじんまりとした教室で、少人数だが集中して講義を受ける学生たちと共に、広くて深い海の一端を眺める時間を酒井は好んだ。今から始まる講義も、そんな小さな教室で行われる。
次の講義の教室は昭和初期に建てられたというクラシックな建築様式の校舎の中にあった。レンガが積まれた壁とアーチ状の門が酒井を出迎えてくれる。教室はその三階の隅にあった。ほとんど生徒が立ち寄らない少し隔絶されたその空間は、果てしない地平線への入り口に見えた。
教室の中に入ると、菅屋が一人だけ座っていた。
「講義の場所ってここであってる?他に誰も来ないみたい」
「あってると思うよ」そう言って、菅屋の横の席に座る。
教室の中はとても静かで、とても空気が冷たかった。この講義が今日最初の授業なのだ。
窓からは柔らかな光が差し込んでいた。
「こちらにいらっしゃったのですね」
突然前のドアからスーツ姿の男性が入って来た。
頭が少し薄くなっていたが、身体は細く小柄で姿勢は真っ直ぐに保たれていた。手には黒い四角なカバンを持っていて、どこからどう見てもサラリーマンだった。
「探しました。会えてよかった」サラリーマンは二人に笑顔を向けて、二人の席の前に立っ
た。
「ごめんなさい、どなたですか?」菅屋は驚きと恐怖が混じった様な顔で質問した。
「申し遅れました。私、銀脇と申します。」
「ギンワキさん?」
「はい、あなた達にお願いがあって参りました」
サラリーマンはまっすぐ目を見て話した。声は見た目の割に高く、教室の中で響いていた。
「お願いって何ですか?」
「単刀直入に申し上げます。漁師の星を助けてほしいのです」
漁師の星…そんな言葉は聞いたことがなかった。菅屋と酒井は顔を見合わせた。
教室の空気がまた少し冷たくなっていた。
それからサラリーマン銀脇は静かに語り始めた。
「古代の日本において、最も必要だったのは水でした。水を永遠に手に入れるために、この地を収める王は天の星に陳情したのです。『どうか、この地に水をお与えください』それを聴いた天は、まだ比較的空いていた夜空に川をかけたのです。夜空にかかる川を見た地上の王達はそれを『天の川』と名付けたのです。
それから地上には定期的に雨が降るようになり、人々は安堵しました。それでも問題が起きます。たまに多く雨が降りすぎ、地上が洪水に見舞われることがありました。その度に多くの人が死に、食べ物が獲れなくなれました。それを見たこの地の王は再び天に陳情しました。『どうか、洪水が起きないようにしてください』それを聴いた天は、天の川の両脇に二匹の犬の星を放
しました。
二匹の犬が堤防代わりとなったのです。犬達は川の水を好んで飲んだので、川から溢れ出た水は犬達が全部飲んでしまったのです。これで地上の洪水は起らなくなりました。人々は天に感謝し、その二匹の犬をそれぞれ『おおいぬ座』『こいぬ座』と敬意を込めて呼ぶことにしたのです。」
菅屋と酒井は黙って話の続きを待った。じっと銀脇の言葉に耳をすました。
「しばらくするとまた地上では問題が起きました。洪水が再び起こるようになったのです。
地上の王は天に洪水の原因を質問しました。天が調べたところ、たまに犬が眠っていて川
の水を飲むことを忘れてしまうことがあるということでした。犬達だけに天の川の番を任
せるわけにはいかなくなりました。王は天と話し合い、犬達が眠っていないか見張るための星を用意することにしました。王は天に向かって言いました。
『ちょうどこの前の洪水で死んだ漁師がおります。その漁師はとても犬好きで二匹の犬を飼っていたので、犬達を上手く手なづけることができるでしょう』それを聴いた天はその旨を承諾し、死んだ漁師の魂を犬達の星の近くに配置したのでした。漁師は星となって、天の川の近くで住むことで犬達をきちんと見張りました。それからというもの、地上ではほとんど洪水は起らなくなりました。起こったとしても人々のミスが、天の漁師がよそ見をしているときに限られたのです。」
「その漁師の星が死のうとしている?」酒井は質問した。
「そのとおりです。漁師の星が死ねば、この国にとてつもなく大きな洪水が起きてしまう。」
サラリーマン銀脇の言うことには何の根拠もない。ただのおとぎ話に過ぎない。でも何故だろう。どんな論理的な学術の本に書かれている内容よりも、酒井の心を揺さぶっていた。信じてみたい。それが世界の本当の姿なのかもしれない。そう酒井の心は叫んでいた。
「わかりました。どうすれば漁師の星を助けることができますか。僕たちに何ができるのでしょうか?」酒井は無意識にそう話していた。菅屋は驚いたが、諦めたように前を見つめた。
「あなたたちのご協力に感謝いたします」
銀脇は天井を見上げ、目をつぶった。
「単刀直入に言います。古代の王が行なったように、あなた達が天に陳情してほしいのです。『漁師の星を助けてほしい。そうしなければ地上に再び水の災いがもたらされる』と。あなた達なら、それができる」
「できるって、一体どうやって天と話すんですか?」菅屋は驚いて言った。
「緑の石が必要です」銀脇が即座に返答した。「緑の石があれば、天と話すことができます」
「その緑の石はどこにあるのですか」
「私にはわかりません。選ばれた者達にしか、その場所を探す権利が与えられない。星が人を助けてきたように、人が星を助けるときが何百年何千年に一度訪れるのです。星を助ける人を選ぶのが、わたしどもの役目です。今回選ばれたのが、あなたたちです」
「なぜ、わたしたちが選ばれたのですか」
銀脇は少し考えた。そのことを話してしまってもよいのか吟味するように。
「それは私たちにも分かりません。私たちは役目を伝えるだけの存在ですから」
菅屋と酒井はもう一度お互いの顔を見合わせた。いつもとは違う地平線に足を踏み入れ
ていた。
「私がここに来てから、すでに二十分が経ってしまった。
今から二十分前に時間を戻します。すると先生が入ってくる。
そこから本当の授業が始まる。
その授業をしっかり聴いてください。できれば一語一句逃さないように。
緑の石のヒントが隠されているはずですから」
そう言って、銀脇は教室から出て行こうとした。
「それも誰かに伝えるよう言われたの?」菅屋はその背中にむかって問いかけた。
「伝えることが、役目ですから」
そう言って、銀脇は教室から出て行った。時間が巻き戻る音が聞こえたような気がした。
教室の扉がふたたび開く。
くたびれた茶色のジャケットにくたびれた白髪、太い黒縁メガネの老人が入って来た。
「今日から、ここの講義を担当する金重と申します。どうぞ、よろしく」
老人は教壇に立つと、深々と礼をした。
「この講義の名前は『都市計画開発史』。街づくりの歴史について学んでいきます。みなさまが行ったことのない街について講義してもつまらないだけですから、この東京を事例にとって、東京の街づくりについて講義していきます」
さきほどよりは、少し空気が軽くなった。いつもの大学の講義がそこにあった。
「では、ここで一つ質問をします。この東京は昔何と呼ばれていたでしょうか」
「江戸」と二人は答える。
「これは簡単過ぎましたね。では、その江戸を作ったのは誰でしょうか」
江戸を作った人?…酒井は検討もつかなかった。昔から日本史は苦手だ。
「徳川家康でしょうか」菅屋が答えた。
その答えに少し間が空いた。老人は下を向いて何かを考えているようだった。
「そうですね、それも一つの答えですね、正解です。では今日は、徳川家康がいかに江戸という街を作り上げていったのかを講義したいと思います」
老人は持って来た本を開き、どこかの箇所を探し始めた。
「ここですね」老人は本の一節を読み始めた。
「16世紀末、徳川家康が江戸に入府した。その頃の江戸には1457 年に建てられた中世以来の江戸城と長年にわたる戦乱で荒廃した城下の集落と周辺の村々がある程度だった。家康は大勢の家臣を率いていたので、当時の江戸はとても十分な規模とは言えなかった。そのため家康が最初にやったことは江戸城と江戸の街の拡充だった。江戸城内では、西の丸・三の丸・吹上・北の丸などの敷地を増築した。そのときに出た土砂を用いて、海を埋め立て江戸の街を拡充させた。」
そこで老人は本から顔を上げた。
「この後、家康は征夷大将軍に任命され、江戸幕府が開かれます。そこから江戸を日本一の都市にするために、天下普請と呼ばれる本格的都市計画事業を進めていきます」
「ここで、もう一度、みなさんに質問します」老人は二人の目をじっと見つめる。
「家康が江戸を開発していく上で、一番の敵は何だったでしょうか」
老人の質問に菅屋と酒井は顔を見合わせる。今度は菅屋もお手上げのようだった。
「それは洪水です」二人は顔を見合わせたまま、空気が少しだけ重くなるのを感じた。
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家康は江戸城内の隅にある小さな部屋にはいった。この小さな部屋は家康ともう一人の男しか知らない。他に大勢いる家臣たちも、一切この部屋の存在を知らされていなかった。
家康がこの部屋に来るのは、もう一人の男と話し合うためだ。
「待たせてしまって、かたじけない」
襖を開けると、一人の僧侶が家康の方を見ていた。
その僧侶の名前を天海と言った。家康の重要な側近であった。
「私がこの江戸に入府してから、順調に街づくりを進めている。しかし、この江戸には大きな川がたくさん流れ、いつ大きな洪水が起きてもおかしくない。私はこの江戸を洪水から守り抜きたい。この街を失うわけにはいかんのだ」
「心得ております」天海は家康の目をそらさずに言った。
「そこで、そなたの力を借りたい。そなたの神の力とやらを」
「鬼門を封じるのです」天海は間髪入れずに答えた。
「あちらの方角から邪気が入り込んできております」天海は北東の空を指差した。
「鬼門を神の力で封じます。この強い邪気に対抗できるのは、平将門公しかおりませぬ」
「神田神社か」
「はい、江戸城内にある神田神社を、北東の位置に配置すれば、鬼門からの邪気を防げましょう」
「すぐに手配いたす」
「それだけでは不十分です」
「後は何がいる?」
「裏鬼門が残っています。あちらからも邪気が入ってきます」
天海はさきほどと真反対の方向をまっすぐ指差した。
「そちらにも神の力が必要だと?」
「はい。あちらには日枝神社がよろしいかと」
家康はすっと立ち上がった。
「あい、わかった。すぐに鬼門と裏鬼門に、神田神社と日枝神社を配置する。
神の力でこの江戸を守ってみせる」
そう言うと、家康は二人しか知らない秘密の部屋から出ていった。
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「それでも江戸では、その後大きな洪水が何度も起こります」
老人の声で二人は目を開いた。
「中でも寛保二年に起こった江戸大洪水では数千人もの人が犠牲になったと言われています
川と街の区別がつかなくなり、水が引くまで数年はかかったそうです。」
老人は少し間を置いてから、
「神の力だけでは江戸を守れなかったということですね」と少し大きな声で言った。
「今日の講義はここまでにします」
そう言うと、老人は本を抱えて教室を出て行った。
菅屋と酒井は顔を見合わせる。
「夢、見てた?」「うん、見たよ」
「あの二つの神社知ってる?」「知ってる。ここから近くにある」
「そこに銀脇さんが言ってた緑の石があるのかな」菅屋が質問する。
「わからない。でも、あの神社と緑の石は何か関係があることだけは確かだ」酒井が答える。
教室に差し込んでいた柔らかな光は弱くなり、もう少しで西日になろうとしていた。
教室の空気はまた重く冷たくなっていた。
「緑の石の手がかりは見つかりましたか?」銀脇がまた教室に入って来た。
「はい、わかりました。今からそこを探して来ます」酒井が答える。
「それは、頼もしい。でも、時間はありません。漁師の星はいつ死んでもおかしくない。
そうすれば大洪水がふたたび引き起こされる」
「寛保二年江戸大洪水」菅屋が答える。
「あのときよりも、この街は人が多い。だからもっと人が死ぬ」
「すぐに緑の石を見つけて来ます。そうすれば、この街は救われる」
『わたしは、この江戸を守り抜きたい』誰かの声が聞こえた。
第4章 とても小さな場所
菅屋と酒井はその日のうちに二つの神社を見に行くことにした。まず大学に近い神田神社から行ってみる。
神田神社は現在、神田明神と人々から呼ばれている。平将門の乱を引き起こし敗死した平将門の首が近くに葬られ、江戸の守り神として現在の場所に移された。境内には御神殿を中心にたくさんの建物が配置されている。中でも境内の中央に一際大きくそびえる御神殿は朱色に塗られ神々しくも華やかな雰囲気が漂っていた。
二人は御神殿の中を歩いてみる。中は普通の神社と変わらない。たくさんの道具や貢物が置いてある。この中に緑の石があるのだろうか。どうにか拝殿の中に入って、棚の中や柱の後ろを見ることが見ることができないだろうか。二人を周りを見渡す。ただ、たくさんの人々がいる上に、神主さんも中で何か作業をしていた。とても一般人である二人が入れる雰囲気ではなかった。
「どうやら、ここは後回しにした方がよさそうね。あまりにも広すぎるし、探すところがありすぎるもの」
菅屋のその一言で、次の日枝神社に向かった。
日枝神社は神田神社ほど全体的に大きくはなかったが、さきほどと同じように拝殿の中に入って、中を詳しく探し回れる雰囲気ではなかった。しかも明暦の大火により社殿を完全に焼失しているらしい。そうなると緑の石が今の場所にある可能性は限りなく低くなる。
菅屋と酒井は仕方なく宝物館や鳥居など、一般人でも入れるあたりで緑の石を探してみる。しかしどこを探しても、転がっているのは普通の石ばかりで、緑の石の手がかりになりそうなものは一つもなかった。そうしているうちに、あたりは薄暗くなり、閉門の時間になっていた。
「今日はこの辺にしましょう。どこにも緑の石なんてないもの」菅屋が切り出した。
「明日も探そうと思うんだけど」明日は休日だった。酒井は朝から探すつもりだった。
「明日は無理なの。部内で次の大会の出場選手を決める選抜大会があるから。夜まで自由になれそうもない」
菅屋の部活への情熱は酒井も知っていたから、酒井はうなづくしかなかった。
翌日、酒井は一人で緑の石を探した。やはり二つの神社のどこにもなかった。
酒井は疲れたので、どこかで休憩することにした。『kojimachi cafe 』と書かれた看板が視界に入った。
そのカフェの窓際の席で、コーヒーを注文する。
「ガリレオが見れたように、酒井さんにも、きっと本当の世界の姿は見れます。
そのために、探し続けてください。ガリレオが探し続けたように。
自分の目で、探し続けてくださいね。」
赤松の言葉が脳裏に浮かんで来た。何かを探し続けるということは、大変なことだ。改めてガリレオには頭がさがる。ガリレオは望遠鏡という道具を使って星を観察し続けた。
俺も何か道具が必要なのだろうか。望遠鏡のような、世界を拡大してくれる何かが。
ふと、横の窓に目をやる。窓の向こうには、さっき酒井が歩いて来た道が見える。
普通の景色なのに窓越しに見ると、まるで劇場の一コマを切り出してきたようだった。
少し斜め前に視線を移す。窓の向こうに小さな神社が建っていた。
とても小さな神社で、カフェの入り口のすぐ側に建っている。
さっき入ってくるときには全く気づかなかった。
注文したコーヒーを飲んでいると、誰かがお参りに来ていた。
後ろ姿しか見えなかったが、髪留めのバレッタには見覚えのあるものだった。
酒井はすぐに店を出て、小さな神社に向かった。
「赤松さん、何してるんですか」その後ろ姿は赤松だった。
赤松は酒井に笑顔を向けながら、言った。
「お参りしているんです。祖母が病気になってしまったので。
ここの神社は病気平癒に効くんですよ。
前にもここでお参りしたら、祖父の病気が治ったことがあるんです。」
この小さな神社の名前は「太田姫稲荷神社」と言った。伝説によれば、室町時代太田道灌の姫が天然痘を病んだ時、祈願した神社が山城国にあった。その神社に参詣祈願すると、姫の病気はすぐに治った。太田道灌は江戸築城のとき、城内に姫を救ってくれたその神社を祀ることにした。後に、徳川家康が江戸城改築をするとき、城内にあったその神社を城外に移すことになった。
そのように、太田姫稲荷神社に付けられた看板には書いてあった。徳川家康のことはこの前の講義で知っていたが、太田道灌のことは初耳だった。まだ自分には知らない真実がある。急いで大学に戻り、図書館で太田道灌のことを調べ始めた。
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「それは、九城という魚でございます、道灌様」家臣の者が道灌に教えた。
道灌はそのとき舟で品川沖を航行していた。このあたりに城を築き、周りの敵国からの守りを手厚くする必要あった。そのために舟で江戸の地形をちょうど観察していた。そのとき道灌が乗っていた舟の中に一匹の魚が飛び込んできたのだ。
道灌は自分の舟に入って来た銀色の魚を手に持った。すると口から緑色の何かを吐き出した。道灌はそれを拾うと、とても硬く石のようであった。光にかざすと、とても綺麗に緑色が光った。道灌はその緑の石をそっと服の中に仕舞い込み持ち帰ることにした。
その日の夜、道灌は台地の端に立って、海を眺めていた。夜空には星が一つもなかった。いつもなら空いっいっぱいにこびりついている星たちが今日はどこにもいない。道灌は昼間に拾った緑の石を取り出した。すると、北の方角に一つの星が姿を現した。とても力強く光っていた。
「おまえの願いは何だ?」
道灌の頭の中で声が聞こえた。周りには誰もいない。視線の先には一つの星がある。その星がまるで自分に話しかけているようだった。緑の石も光を放っていた。
「おまえの願いは何だ?」ふたたび、星が問いかけて来た。
道灌は考えた。自分の願いは何だ?この星に一体何を願えばよい?
今、この江戸には城がいる。敵からこの地を守るための力強い城が。
「城がほしい。いま私が立つこの台地の上に難攻不落の城がほしい」
道灌の声を聞くと、北の星は輝くのをやめて、消えてしまった。緑の石の光も消えていた。
その夜、道灌は夢を見た。夢の中で道灌はある男に出会う。
その男はこちらを見て、「我が名は菅原道真と申す」と言った。
「太宰府の地で、そなたが持つ緑の石を手に入れ、星に祈った。
私を陥れた京の都の人々に、この恨みを晴らしてほしいと。
だが、すぐにそれも虚しくなった。そしてその緑の石を海に投げ捨てた。
その緑の石を何か大きな役に立つ人のもとに行くようにと願いを込めて。」
「君が持つ緑の石を、大切なものを守るために使っておくれ。私も天から君を見守っているから」そう言うと、その男は向こうに立ち去って行った。
次の日の朝、道灌は知り合いから絵を贈られた。何でもとても偉い人の絵だと言う。絵を見ると、道灌は驚愕した。その絵の左下には「菅原道真」というサインが記してあった。昨夜夢の中で出会った男の名そのもだった。
道灌はこの台地の上に江戸城を築いた。江戸城内には静かな川が流れていた。その川のそばに菅原道真公を祀る神社を建てた。その神棚に菅原道真公の絵と緑の石を置いた。道灌はその神棚に向かって、こう祈った。
「この江戸には大きな川の氾濫のせいで、洪水が絶えない。どうかこの江戸を洪水から守りたまへ。この静かな川のように、いつまでも平穏な暮らしができますように」
いつしか、この神社は人々からこう呼ばれるようになる。
「平河天満宮」...静かな川のそばに立つ天満宮さまという想いを込めて。
そして、その平河天満宮も徳川家康による江戸城改築の際に、城外へと移転されてしまうであっ
た。
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第5章 馬に乗る者の宿命
酒井が太田姫稲荷神社を訪れてた頃、菅屋は部活の大会に臨んでいた。もうすぐ今年最初の大きな馬術の大会があった。そこに出場するために、絶対に勝ちたかった。部内には多くの先輩方がいる。でもその先輩たちに負けないぐらい、私も人馬一体に磨きをかけてきた。
今頃、酒井はどうしているかな。緑の石は見つかったのだろうか。大切な大会の前なのに、馬のことよりも酒井のことが気になっていた。いつもの私らしくない。首を振って、馬の手入れに集中しようとした。
菅屋と酒井は高校の同級生だった。酒井は高校受験で入学してきた編入組で、菅屋は中学から入学している内部組だった。高校一年のときは編入組と内部組はクラスが完全に分けられ、編入組の教科書の進捗を内部組に合わせるための授業が行われた。中学3年の後半から高校の内容の授業を受けていた内部組は既に高校一年生が習う内容の半分以上を終了していた。編入組は内部組に追いつくための一年間を強いられることになった。
高校二年になって、編入組と内部組が混合したクラス編成が行われた。そこで同じクラスになったのが酒井と菅屋だった。もともと編入組は内部組の4分の1の生徒数しかおらず、しかも入学してからの時間の少なさもあってか、編入組は身が狭かった。酒井と菅屋のクラスも多くが内部組で占められ、編入組の酒井はなかなかクラスに馴染めずにいた。一方の内部組の菅屋は活発な性格もあり(乗馬のおかげだ)、周りの内部組の友達からも一目置かれる存在だった。その中で菅屋は学級委員になり、クラスをまとめる存在になった。菅屋もこのクラスは自分が引っ張らないといけないという意識があり、自分は人の上に立つ存在だと感じていた(これも乗馬のおかげである)。
酒井はもともと口数が少ない方ではあったが、クラスに馴染めないこともあってそれは加速した。一日ほとんど誰とも話さないで学校で過ごすことも増えていった。休み時間も一人で机に座って教科書を読み、昼休みは一人でお弁当を食べた。菅屋の周りにはいつも友達がいて、ワイワイと楽しそうにしているのであった。
酒井はそのうち自分の席にいるより、もっと一人で過ごせる場所を探すようになった。どうせ誰とも話さないのなら、静かに過ごせる場所にいたい。教室の自分の席の周りでは同級生がワイワイしていたから、休み時間になると教室を一人飛び出した。いろいろ探し求めた結果、学校の屋上へと続く階段が最も適していた。高校の屋上は施錠されていて生徒は使うことはできなかった。そのため、どの生徒も屋上までその階段を使って上がってくることはなかった。酒井は屋上へと続く扉の前に座って、一人の時間を過ごした。扉についた小さな窓からは外の光が差し込み、その光で持ってきた本を照らして読んでいた。薄暗い中を走る一本の光で照らされた文章は、より陰の側面が強調され、その陰は酒井をより暗い方へと引き摺り込んでいった。
ある日、いつものように昼休みになると酒井は鞄を持って屋上へと続く階段を登って行った。屋上へと続く扉の前で腰を下ろし、鞄を開けると中に弁当が入っていなかった。お茶が入ったペットボトルと本が一冊だけだ。たぶん教室に置いてある。教室に取りに行こうか。そう悩んだが、心は億劫だった。仕方なく本を取り出し、昨日の続きを読むことにした。
「なに読んでるの?」
声のした方を見ると学級委員の菅屋が立っていた。左肩に鞄をかけていた。鞄から見慣れた弁当箱を取り出し、「忘れ物」と言って酒井に手渡した。酒井の左下の段のところに菅屋は腰を下ろした。
「今日はここで私も食べるよ」菅屋は自分の弁当箱を取り出し、食べ始めた。その弁当箱は酒井のより一回り大きかった。
「なんでここにいるって分かった?」酒井が質問する。ほとんど初めて菅屋と話した。
「夜空にね、ペガススっていう白馬の星座があるの」唐突に菅屋は話し始めた。
「ペガススは勇者ペルセウスを乗せて、王女アンドロメダを怪物から助けに行くの。この話で大事なポイントは、勇者は馬に乗っているということなの。逆に言えば、馬に乗らなければ勇者ではない。もっと言えば、馬の乗る者は勇者になれる」
酒井は言葉の続きを待った。
「私は馬に乗っている。だから勇者になる資格がある。私は真の勇者になりたい。だから困っている人がいれば助けに行く。ペルセウスが王女アンドロメダを助けたように」菅屋は箸を止め、酒井の目を見た。
酒井も菅屋の目を見た。笑うと三日月になる菅屋の目は、丸く大きく開かれていた。
「じゃあ僕が王女様で、菅屋さんが勇者ってこと?」
「そういうことになると思う」
菅屋のその言葉に酒井はクスリと笑った。それを見て菅屋も笑顔になる。大きく開いた目は三日月になっていた。
「そうやって笑えるなら、きっと大丈夫」そう言うと、菅屋は弁当箱を鞄に入れて立ち上がった。知らない内に菅屋は大きなお弁当を食べ終えていた。制服のスカートの裾を直した。
階段を二、三段降りたところで、菅屋は振り返り酒井を見た。
「またここに来てもいいかな?邪魔でなければ」菅屋の目は三日月ではなくなっていた。
「もちろん」
菅屋は「またね」と階段を降りて行った。酒井は後ろにある小さな四角い窓を見上げた。
そこから降り注ぐ太陽の光は、酒井の影を覆い隠していた。
それ以来、菅屋と酒井は週に一回ほど屋上の扉の前の階段で会い、いろいろと話すようになった。菅屋は乗馬やクラスの話、酒井は今読んでいる本の話をした。酒井は冷静に物事を分析するのが得意なことを知ると、菅屋はクラスの問題やあり方について相談を持ちかけるようにもなった。テスト前になればお互いに得意な科目を教え合った。菅屋は英語と国語(特に古典は学年1位を何度もとっていた)、酒井は理数系の科目(特に物理)を得意とした。同性の友達だと踏み込みすぎてしまう話題も、異性だからこそちょうど良い距離感で話すことができた。その距離感がお互いに心地よかった。
2人は高校の付属の大学に進学し、菅屋は文学部に酒井は理学部に進んだ。お互いにオススメの講義を教えあい、文系理系の関係のない共通講義を一緒に聴講したりしている。今でもたまに会って、良い距離感で様々なことを話している。
「次、菅屋の番だから、準備して」部長の声が伯舎に響いた。
菅屋は伯舎から馬を出し、馬に跨って待機場所の馬場で演技項目を確認する。
菅屋がこれから行うのは、馬場馬術と呼ばれる競技だった。決められた長方形の枠内の中で、決められた演技をいかに正確にこなせるかを競うものだ。常歩・速足・駈歩の三種の歩き方を基本に、スキップや図形を描くように馬をコントロールする。ほんの少しのズレも採点のマイナスになる。馬に乗る者は、小さな合図を馬に送り、馬をコントロールする。それよりも大事なのは、人と馬が心を通わせ、同じ目的に向かって同じ方向を見ることだった。なのに、今日の菅屋は大会に集中することができない。さっきから頭の中は酒井の心配ばかりだ。
菅屋の演技順番が来た。速足で入場し、X 点で停止する。そのまま不動をキープし、馬を落ち着かせる。
そして正面の審判に向かって敬礼する。ここまでは何の問題もない。次はC 点まで速足で直進し、C 点で左へ曲がる。少し手綱を緩めすぎて、大きくC 点をオーバーランしてしまう。左への回転もうまくできない。決められた場所を正確に歩くことができない。いつもならできるのに。いつもなら。そう思えば思うほど、焦りがつのり、頭が真っ白になる。
「馬に乗るものは勇者になれる」自分の言葉を思い出す。今の自分は勇者でも何でもない。基本的な演技項目すらまともにできず、何とか最後までやりきったが、採点結果を聞くのも嫌で、伯舎から飛び出した。
菅屋はあてもなく大学のキャンパス内を歩き回っていた。今日のために練習してきたのに、最悪だ。なにが勇者だ。なにがヒーローだ。私なんて馬に乗る資格すらない。こんな気持ちになるのはじめてだ。
そう思って歩いていると、図書館の前に来た。図書館の中でバロン西の映像を見た記憶が蘇る。またバロン西とウラヌスの映像を見たくなった。そして夢の中でいいから、バロン西に会いたくなった。私にもう一度、英雄の姿を見せて欲しい。図書館のゲートを通過すると、前から酒井が走って来た。
「緑の石の場所がわかった!今すぐに一緒に来てくれ!」そう酒井は叫んだ。
「ダメよ。まだ部活の大会中だから、抜けられないし、夜に飲み会もあるの」菅屋は咄嗟に答えていた。
酒井は何か言いたそうだったが、焦る気持ちを抑えられないのか、何も言わず走って行った。
この前と同じビデオを借りて、視聴席に着いた。前と同じオリンピックの映像が流れ始
める。バロン西とウラヌスがそこにいた。英雄たちがそこにいた。
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男爵・西徳二郎はため息をついた。一人息子の竹一(後のバロン西)のことで頭を悩ませていた。竹一の世話役の話では、隣町の小学生と毎日喧嘩ばかりしているということだ。いつも身体に擦り傷や痣を作って、家に帰ってくる。泣いているところは見たことがないが、着ている服に傷や泥をつけて帰って来ては、それを居間に放り投げていた。
何をそんなにムシャクシャしているのか。父・徳二郎にはさっぱり分からなかった。男爵という素晴らしき爵位を賜った家の子らしく、威風堂々と高貴な振る舞いをしてほしい。
このとき徳二郎は齢60を過ぎ、政界の第一線から退いて家にいることが多かった。一人息子の竹一は三人目の息子で、上の二人は幼少期に亡くなっていた。元気に育ってくれているのはいいが、自分が年老いてからの子供であったためか、甘く育て過ぎたかもしれん。
徳二郎はこれまで明治政府の要職を歴任してきた。松方正義内閣や伊東博文内閣の外務大臣を務めたこともある。フランスやロシアや清に、日本公使として駐在したこともある。激動の日本外交の最前線で活躍してきた。最も自分が誇らしげに感じている仕事は、清国駐在公使を拝命したことである。自分が清国に駐在した翌年に義和団事件が起こった。
義和団事件は数ヶ月で西洋列強により制圧されたが、その後の清国をめぐる外交交渉を徳二郎が担ったのである。当時の清国を実質支配していたのは西太后と呼ばれる人物であった。西太后は初めは義和団事件を契機に西洋列強に宣戦布告したが、自国が劣勢と見るや西洋列強に肩入れする方針を取った。清国を制圧した西洋列強の中には、清国への賠償内容の中に西太后の退位や処刑に関する条文を入れるべきと主張する国もあった。
しかし大日本帝国から派遣された徳二郎は、その主張に真っ向から反対した。清国側の交渉を担っていた李鴻章とも結託し、西洋列強が希望した賠償金より多く支払うことを条件に西太后の地位を守ることに成功した。
このことを契機に、徳二郎は清国側から大きな信頼を勝ち得たのである。信頼の証として、西太后は徳二郎に中国茶の専売権を与えた。中国茶の専売権を得た徳二郎は日本で巨万の富を手にすることになる。
清国という大きな国の統治者から大きな信頼を得たこと、それが徳二郎の誇りであった。この誇りをどうにか息子にも受け継ぎたい。自分の人生はそれほど長い時間は残されていない。齢60とは死を覚悟する時代であった。
今ここで話しておくべきかもしれん。徳二郎は竹一をここに呼ぶよう手伝いに命じた。竹一はすぐに父のいる応接間にやってきた。部屋着に着替え綺麗な格好をしていたが、口をへの字に曲げて目はとても不満そうにしていた。徳二郎の目を一度見たが、すぐに目を地面に伏せた。
「お前に1つ話しておきたいことがある」徳二郎が口火を切った。「喧嘩のことではない」徳二郎は続けた。喧嘩のことを叱られると思っていた竹一は顔を上げた。
徳二郎は竹一の右手を取り、その手のひらの中に何かを置いた。徳二郎が手をどけると、竹一の手の中には小さな緑色の石が置いてあった。石という表現が正しいのか。しっかりと磨かれて角が取れて丸くツルツルとした感触であった。濃い緑で透き通るような色ではなかった。竹一は見たことのない緑の石に見とれた。
「それは清国の皇帝から賜ったものである」徳二郎は竹一に言った。竹一は清国というものを知らなかった。だが皇帝という言葉の響きに偉大なものを感じた。
「皇帝とは地上の支配者として天命を受けた者のことである。その天命を受けた者のみが代々持つことを許されたのが、お前が持っている緑の石である」
「お父さんがどうしてこれを持っているのですか?」竹一が初めて言葉を発した。
「私が清国にいたとき、清国は滅亡の危機に瀕していた。その清国を私は救ったのだ。全身全霊をかけて皇帝を守ったのである。だからこそ皇帝も私を信頼してくれた。心の底から私を信頼してくれたのだ。その信頼の証として、緑の石の1つを私に贈ってくださったのである」
竹一は父の顔をずっと見ていた。その手には緑の石が置かれている。
「その石は私の大切な宝物である。どんな高価ものにも代えることはできない。今回、その宝物をお前に譲る。今日からその宝物はお前のものだ」
「なぜ、私にこれを譲ってくださるのですか?」
「お前も誰かに信頼されるような人間になってほしいからだ」徳二郎は息子の目をまっすぐ見た。
「よいか、竹一。誰かに信頼されるには誰かを全力で守らなければならない。相手の悪いところを見つけ、相手を攻撃することなど誰にでもできる。それでは本当の信頼は得られない。恐怖や憎しみでしかないのだ。誰かを守れ、竹一。誰かを攻撃するのではなく、守るのだ」
「攻撃するのではなく、守る」竹一は父の言葉をつぶやいた。
「相手を攻撃したくなったら、その石を見るのだ。そうすればお前の心は落ち着くだろう。皇帝から頂いた信頼の石、後生大事にするのだ。いつかお前に本当に信頼できる友が現れること、そしてお前が誰かから心の底から信頼できる人物になっていることを祈っている」
そう言うと、徳二郎は立ち上がり応接間を出て行った。一人残された竹一は父からもらったその緑の石を静かに見つめていた。
それから竹一は喧嘩をやめた。相手に挑発されても、ポケットに忍ばせた石を握りしめ心を鎮めることに努めた。
中学高校へと進学した竹一は、守るべき存在を探していた。そのとき既に父・徳二郎は他界しており、相談相手となる人物もいなかった。
時代は大正時代になり、第一次世界大戦が勃発していた。世界は信頼とはかけ離れた憎しみの輪が広がり、各国の軍備増強は生き残る上で必須となっていた。
その世論を見つめていた高校生の竹一は、まず守るべきはこの国だと感じた。この国を守るために力をつけたい。そしていつか誰かから信頼される人物になりたい。何かを守るために、力をつけなければならないという観念が竹一に芽生えつつあった。それから陸軍士官学校に進み、軍人への道を歩き始めた。
西竹一がウラヌスと出会うのは、それから十数年後のことである。西はそのころには陸軍騎兵中尉となっていた。軍務として欧米へ出張していたときに、イタリアでウラヌスと出会った。
ウラヌスは気性がとても激しく、人間を背中に乗せることを拒否し続けていた。しかもあの大きな馬体である。暴れ始めれば大人の男を振り落とすなど、ウラヌスにとって簡単なことだった。
ウラヌスの持ち主は馬体の大きさに惚れてウラヌスを牧場から買ったのだが、全く乗ることができずにウラヌスを売りたがっていた。その噂を聞いた西はウラヌスを見に行った。気性が激しいところは幼き頃の自分とそっくりだ。
もしかしたら自分なら乗りこなせるかもしれぬ。ウラヌスを一目で気に入った西は自費でウラヌスを購入し、街の外れにある野原へとウラヌスを連れて行った。
「ウラヌスよ、君に見せたい物がある」
西は首につけていたネックレスを服から取り出し、ウラヌスに見せた。ネックレスの先には父からもらった緑の石があった。
「これは信頼の石だ。私はこれを信頼しようと思う者にしか見せない。君を見て、私は君を信頼しようと思った。だからこそ私は君を何があっても守る。その証としてこの石を見せる」
ウラヌスはじっと緑の石を見ていた。息遣いがだんだん落ち着いてきていた。
「ウラヌスよ、君も私を信頼してくれないだろうか。私と信頼し合う本当の友になろうではないか」
西は、ウラヌスの心が静まっているのを感じた。緑の石を服の中にしまうと、ウラヌスの背中に乗った。ウラヌスはじっと西が乗るのを待っていた。早く乗りなさい、友よ。そう言っているようでもあった。西はウラヌスの背中に乗ることに成功した。ウラヌスの背中から見る世界は何倍も大きく感じた。
ウラヌスは西が持っている緑の石を見ると心が落ち着いた。気性が激しいところを見せることは多かったが、緑の石を見ているとだんだん激しさが和らいでいた。
あのロサンゼンル・オリンピックのときも、西は騎乗する前に緑の石を見せていた。その緑の石はウラヌスだけではんく、西の心も落ち着かせた。我々には信頼できる友がいるのだ。そう二人で石を見つめながら、心を通わせていた。信頼という石でつながった西とウラヌスは見事に競技を成功させて、日本に金メダルをもたらすことになった。
「君にも守るべき存在がいるんだろ?」誰かの問いかけが洞窟の中で響き渡った。
菅屋は洞窟の中にいた。この前バロン西と会ったジャングルの洞窟の中に。
菅屋はゆっくりと洞窟の中に進んだ。どこまで進んでも闇が広がっているだけだった。
「君の大切な人が困っているなら、助けなきゃいけない。それが馬に乗る者の宿命だ」
なぜ、なぜ、それが馬に乗る者の宿命なの?
「それこそが、英雄だからさ」
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菅屋は目を開ける。前と同じように寝てしまっていた。すぐに図書館を出て伯舎への道を急いだ。すると目の前にあの銀脇が現れた。
「西の者が酒井さんの前に現れました。酒井さんが危険です」銀脇は強い口調で菅屋に言った。
第6章 西の者との遭遇
平河天満宮に緑の石がある。
大学の図書館で太田道灌のことを調べていると、太田道灌と菅原道真のつながり、そして平河天満宮と緑の石のつながりが明確になった。すぐに平河天満宮に向かわなければ。
酒井は本を棚に戻すと図書館の出口に走った。前から菅屋が歩いてくるのが見えた。
「緑の石の場所がわかった!今すぐに一緒に来てくれ!」そう酒井は叫んだ。
「ダメよ。まだ部活の大会中だから、抜けられないし、夜に飲み会もあるの」菅屋は咄嗟に答えていた。
酒井は何か言おうとした。けど、菅屋の馬術にかける思いを知っていたから、何も言わずに菅屋の前を走り抜けた。
平河天満宮は街の中にあった。ビルに囲まれながら、ひっそりと存在しているというよりは、今なお悠然と堂々とその存在感を人々に示し続けていた。大きな道路を左に曲がる。そこに忽然と、そして堂々と我々の目の前に姿を表す。
「ここだけ空気が違う」
誰もが見た瞬間にそう思える何かを、平河天満宮は持っているのであった。
鳥居をくぐると、すぐに大きな御神殿が目に入る。すでにあたりは薄暗くなり始めていた。境内にも神社の周りにも人はいなかった。いるのは大量のスズメだった。スズメが大きな鳴き声で鳴いていた。境内にある大きな木に止まって、酒井を出迎えていた。いや、その逆に聞こえる。空気をつんざくようなスズメの鳴き声が、酒井をたじろがせる。それでも酒井は歩を緩めながらも一歩ずつ御神殿に向かって行った。
御神殿の目の前に来る。賽銭箱の向こうに神棚があるはずだが、そこは黒い扉が閉じられていた。太田道灌は神棚の上に緑の石と贈られた絵を飾っていた。この黒い扉の向こうに緑の石がある。
酒井は辺りを見渡す。さっきまでと同じように誰もいない。神職の方も帰ってしまったようだ。いるのは大量のスズメたちだけだった。酒井はそっと柵を乗り越え、黒い扉を開ける。なぜか扉は開いた。
中に入ると神棚があった。神棚の上にはお札や器などのお供え物があった。酒井は神棚の裏に回る。裏に回ると神棚の下に、大きくて朽ち果てた箱が置いてあった。前からは白い布に覆われて見えなかった。その箱を開ける。まず目に飛び込んで来たのは一枚の絵だった。そこには一体の綺麗な梅が描かれていた。左下に「菅原道真」と文字が書かれている。絵を取り出した箱の中で、緑の石がこちらを見ていた。
酒井は緑の石を手に取る。黒い扉をそっと閉めて、御神殿から下りようとしたそのとき、酒井は一つの違和感を覚える。境内がとても静かだった。さっきまで鳴いていた大量のスズメたちはどこに行ったんだろう。不気味な静寂の中で、緑の石はずっしりと重い。
「それを私によこせ」酒井の耳に低い声が聞こえた。
「それを私によこせ」もう一度。さっきよりも力強く。空耳なんかじゃない。
酒井が参道の方に目をやると、一匹の黒いカラスがこちらをじっと睨んでいた。
「それを私によこせ」カラスははっきりとその言葉を口にした。
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この地は星によって作られ、星によって治められている。それは紛れもない事実で、揺るがすことができない。北の空に北極星という星がある。北極星には二つの星を家臣としていた。一つが錨星。俗に言うカシオペア座と呼ばれる星のことだ。もう一つは北斗七星。七つに並ぶ有名な星のことだ。
北極星は一つの国を作った。それが今の日本である。家臣である錨星と北斗七星に、このの国を見守るよう進言した。つまり日本を納める人間たちのアドバイザーになりなさいということであった。
北極星はこの国を作るとき、二人の人間に特別な力を持つ道具(緑の石)を与えた。それは星と会話する力であった。国を治めていて困ったことがあったら、二人の人間は道具を通じて星に助けを求めることができた。
その二人の人間について紹介する。一人は女だった。女には東にある大和の国を与えられた。アドバイザーとなる星は錨星であった。東の国を治める天の声を聴く女ということで、東巫女と呼ぶことにする。もう一人は男だ。男には西にある九州の地を与えられ、北斗七星がアドバイスする。東巫女と対するように西巫男と呼ぶことにする。
東巫女は錨星の言うことをよく聴いた。星の言う通りに国づくりを進めた。東巫女の下で国が分割され、それぞれに王を配置した。諸国の王たちは東巫女の下で国づくりを進め、争いが起きない美しい大和の地が形成された。東巫女は錨星のアドバイスを、諸国の王たちに伝えたのである。
それに対し、西巫男は北斗七星の言うことを聴かなかった。自らが独占的な王となり、一切の国づくりの権限を自分の物としたのである。海を隔てた大陸とも交易を行い、国力を高めていった。星の話を聴かなかったため、九州の地では争いが絶えず、九州の地は荒れてしまった。いつしか星は西巫男に語るのをやめてしまい、西巫男にも星の声を聞く力は残っていなかった。緑の石も大陸との交易で大陸側に送ってしまった。残っていたのは真の王になる野心だけだった。九州だけでは物足らない。この国すべてを統治する真の王になりたい。
そんなとき、西巫男の家臣が言った。
「東に美しい国がございます」
それを聞いた西巫男は東の地を目指した。東には東巫女と呼ばれる女王の下で強大な国が存在していると言う。その東の国を我が物にできれば、私は真の王になれる。
西巫男の国の軍事力は凄まじいものだった。東巫女の国を圧倒的な力で制圧した。
東巫女は家臣と共にさらに東へ東へと逃げた。何日も何日も。どこまで逃げたのだろう。
大和の地から遥か遠く離れた東の地で、東巫女は家臣たちに向かって叫んだ。
「私は天からこの地を治めるよう遣わされた者。どんなときも、私はこの使命を全うする。この命を西の者にくれてやることは、その使命に背くこと。天からの使命を全うするために、この場所でこの国を治め続ける」
そう言うと、岩肌にできていた洞窟の中に入っていった。そして、この洞窟を岩で塞いでしまいよう命令した。この洞窟の中で永遠にこの国を治めていく。そう東巫女は心に誓った。緑の石を握りしめて。
西の者たちは今もなお探している。東巫女が持っていた神秘な力と緑の石を。東巫女が持っていた緑の石。これがあれば、真の王になれると信じ続けながら。
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酒井が目を開けると、黒いカラスが何匹にも分かれていた。
黒いカラスたちが一斉に酒井に向かって飛びかかって来た。酒井は緑の石を持って、御神殿から逃げ出した。一匹のカラスの嘴が酒井の足を突き刺した。酒井はその場に倒れる。
「それを私によこせ」
黒いカラスは一人の大きな男に変わっていた。その手は酒井の手から緑の石を奪い取ろうとした。
菅屋が目を開けると、部室の椅子に座っていた。さっき銀脇さんと会っていたのに。
部室を出て伯舎に入ると、一匹の馬と目が合う。いつも菅屋が乗っている馬だった。名前をバイオレットと言った。菅屋は自分がいつも身につけているペンダントを外し、バイオレットの首にかけた。
「私に力をちょうだい、バイオレット。私は私の大切な人を助けにいく。私を英雄にして、バイオレット」
バイオレットは菅屋に向かって首を垂れた。菅屋に背中に乗るように促したのだ。バイオレットも菅屋を英雄にするために、心を決めた。
菅屋はバイオレットの背中に乗り、伯舎から飛び出した。平河天満宮に向けて走り出した。
黒い大きな男は、酒井の手を足で強く押さえつけた。酒井は手に力が入らなくなっていた。
酒井の頭では高校生のときのことが蘇ってきた。一人で屋上につながる階段で座ってご飯を食べた。とても静かで少し太陽の光が差し込むあの場所が大好きだった。下を向きながら、いろんなことを思っていた。
「ここ、座っていい?」顔を上げると、菅屋がいた。菅屋は僕のヒーローだった。
「私はいつでも、あなたを助けにいく。私は馬に乗るヒーローだから」初めて話したあの
日、菅屋はそんなこと言っていた。あれから僕は一人ではなくなった。君は僕のヒーローだった。
ふと、右手の重さがなくなった。黒い男は遠くに飛ばされ倒れていた。
「いつでも、あなたを助けに行くと約束したでしょう」馬に乗る菅屋が酒井を見下ろしていた。
黒い男は立ち上がろうとしていた。菅屋はバイオレットを男の方へと走らせた。バイオレットは前脚で大きく黒い男を蹴り上げていた。されに男は遠くに飛ばされ、平河天満宮の外に投げ出された。大きな鳥居の外の階段の下まで転げ落ちて行った。地面に落ちた瞬間、黒い男は消えてしまった。
もうすっかり夜になり、空には星が輝いていた。
菅屋と酒井の前に銀脇が現れた。酒井は銀脇に緑の石を渡す。
「どうありがとうございます」
そう言うと、銀脇は緑の石を北の方向に向けてかかげた。
緑の石は強く光り、北の星まで光は伸びっていく。
「漁師の星を助けてください」三人はその光に祈りをのせた。
第7章 エピローグ
酒井はいつもの大学のベンチで本を読んでいた。
「足の怪我は大丈夫ですか?」
酒井が振り向くと、赤松がこっちを見ていた。今日は長い髪を後ろで結んでいた。
いつもは見えない綺麗な二つの耳が見えていた。
「うん、大丈夫だよ。だいぶ良くなったし」
「今日は何の本を読んでたんですか?」
「星座に関する本だよ」ちょうどオリオン座に関する記述を読んでいるところだった。
「オリオン座にはベテルギウスという赤い星があるんだ。その星はもうすぐ死ぬんだ。というかもう死んでしまっているのかもしれない」
「星も死ぬんですね。知らなかったです。星でも、死ぬと悲しいです」赤松は空を見上げる。
「星ができるだけ長く生きることができるように、祈っています。
今日授業終わってからまた太田姫稲荷神社に行くんです。
太田姫稲荷神社で、ベテルギウスのこと、そして酒井さんの足が早く治るように祈って来ます」
そう言うと、赤松はベンチを離れようとした。
でも、ふと立ち止まって酒井に質問する。
「この世界の本当の姿、見ることはできましたか?」
酒井は少し考えてから、そして赤松の顔を見ながら「少しだけ」と答えた。
「少しだけ、見ることができたと思う。この目でしっかり」
赤松は大きく目を細めて、最大限の笑顔を酒井に贈る。
「これからも探し続けてください。この世界の本当の姿を。自分の目で」
そう言うと、赤松は歩いて行った。酒井は赤松の後ろ姿を目で追った。
綺麗な耳が小さく揺れていた。その向こうで梅の花が咲き始めていた。
風がそっと、でも力強く吹いた。咲きかけの梅の蕾が少し揺れた。
「この世界の本当の姿を見たい」…そう誰かの声がはっきりと聞こえた。