再訪
一隻の小舟が、黒い波を裂いて静かに滑る。
帆はおろか櫂すら備えていない丸木舟が、船尾に受ける波に押されるまま不自然な速度で海上を進む。
船上には、人影が二つ。
一人は若い女、もう一人は背の曲がった老人。
目深に被ったフードに隠されて二人の表情は窺えない。だが、少なくとも女からは自分の周囲がくまなく見渡せていた。いや、感じることができた。
彼女が海面下に意識を伸ばせば、そこには幾層にも重なって遊泳する魚影が浮かび上がる。海面近くには、無数に漂う微細な生物達のお喋りが騒がしい。海底には海草類や珊瑚達がさざめき、その影に身を潜めて微睡む大型の海獣達の鼾も聴こえた。
目蓋を落とすと、それら全ての命が放つ淡い輝きが映る。かつてと変わらず豊かな故郷の海に、彼女の頬が微かに緩んだ。
やがて、島影が淡く視界に入ってきた。
二つの小島が南北に連なって浮かぶ光景がもたらす高揚感に、船上で思わず身を起こす若い女。白く広がる砂浜に小舟を静かに推し上げる。彼女の背後で曲がった背を伸ばした老人が、恐る恐る腰を上げようとしてフラつき舷側に手をついた。
女が差し伸べた腕に支えられて、ようやく島の砂を踏む老人。曇天に飲まれた太陽は朧に天上にあって、砂浜に柔らかな日差しを注いでいる。フードを背後に払った老人の相貌、そこに走る深い皺を海風が撫でていく。
にわかに、大きな羽音が二人の鼓膜を震わせた。
振り返ると、内陸の樹木の合間を縫って複数の黒い影が飛来しつつある。猛禽の類かと思われたそれらは、近付くにつれて急速に大きさを増した。やがて、二人を囲んでゆっくりと旋回を始めたその姿は金属質に蒼く閃き、半透明の羽根も含めるとそれぞれが両腕を広げた成人程の大きさがある。
「あれは……瑠璃雀蜂?」
「そうだな。何を食料にしているのか知らないが、やけに大型化している」
老人の掠れた呟きに、若い女がフードの下から低く張りのある声で返す。
「彼らは斥候だ。私達を観察している。林の向こうに集まりつつあるな。いまはまだ数十匹といったところだが、こちらの出方次第では援軍を呼ぶだろう」
老人を背後に庇った女が片腕を掲げると、とりわけ大柄な一匹が高度を下げて砂浜に舞い降りた。突然に島に現れた二人に向けて、額から長く伸びた一対の触覚をしきりに動かして様子を探ろうとしている。
名前の通りに瑠璃色と黒色の縞に覆われた胴体は硬質に輝き、尾部の先端に長く伸びる毒針には鋸状の大きな返しが並んでいる。頭部には巨大な複眼が前後左右に四対備わり、その下で凶悪な弧を描く顎がギチギチという警戒音を二人に向けて放っている。
本能的な恐怖から後ずさる老人。だが、若い女は全く意に介さない様子で白砂を踏み、前に進み出た。空中で浮遊しながら頭部を激しく振って威嚇する瑠璃雀蜂に触れるか触れないかの距離に手をかざすと、涼やかに告げる。
「汝らの主に伝えよ。我らに敵意はないと」
言葉の真偽を確かめるかの様に、こちらを窺う瑠璃雀蜂。やがて、静止していた大きな羽根を震わせて砂浜を離れると、彼らを囲んでいた複数の羽音も遠ざかっていった。
静けさを取り戻した島に、波音と二人分の足音だけが響く。
浜辺から伸びる緩やかな坂道を上って、やがて民家が立ち並ぶ石畳を辿った。
二人の間に言葉はない。どちらからともなく歩みを進め、前後になりながら一つの目的地に向かう。半世紀近くを共にしてきた二人にとって、目指す場所は口にしなくとも自明だった。
石畳の狭路の終着点に、周囲の民家よりも一回り大きな家屋が見える。
先に立った若い女が入口の脇に立って、老人を待つ。玄関の扉は腐り落ちていて、開く必要すらなかった。
しばらく躊躇いを見せていた老人が、屋内へと踏み入る。片足ずつ、ゆっくりと確かめる様に。
内装は荒れていたものの、かつてここに暮らした彼には、石造りの間取りや窓の位置に往時の暮らしをまざまざと想起することが出来た。
やがて、吐息を一つ漏らした老人は静かに踵を返して、来た道を戻り始める。ここに至るまでに人影は一切見えなかった。問い掛ける老人の視線を受け止めて、女も首を小さく横に振る。
いずれの民家も、石造り部分は自然の風化作用に対してなんとか形を保っているものの、屋内に視線を向けると植物の侵入を許していた。壁面を這う蔦類がいったん屋根の隙間に入り込むと、雨漏りが始まってそこからはあっという間に朽ちていく。
ここを離れた頃と変わらぬ姿形の魔女の背を追って、石畳の道を下っていく。思えばこんな景色を、彼らは幾度も目にしてきた。
戦地となった集落の家々。自分では戦う術を持たない人々は一方的に蹂躙され、住む者を失った民家も容赦無い自然に飲み込まれてしまう。
この島を離れ、二人で彷徨った年月。女が有する力のせいで大きな戦乱に幾度か巻き込まれ、国家の盛衰に関わりを持った。救国の功労者として誉れを授かったこともあれば、亡国の民から逆賊と誹られたこともある。
いつしか自分の足が湿った白砂を踏んでいることに、老人は気付いた。自分達を乗せてきた小舟が、砂浜の先に見える。
この島のかつての住民は、罪無き少女を魔女の苗床として差し出す代償に、自分達だけの安寧の城を築き上げて暮らしてきた。後ろめたさから目を逸らして、眼前の幸福だけに生きてきた。
その歪を許したのは、誘惑に抗し切れなかった人の弱さか。それとも、平和を貪欲に求めて止まない強かさなのか。
いつしか魔女と変わらぬ白さに染まった彼の髪を、潮風が嬲る。
その懐かしい感触に目を細めて佇んでいると、前を行く女が振り返った。その眼差しはいつも変わらない澄んだ琥珀を湛えていて、老人の喉を滑らかにした。
「オレはここに残るよ、リュドミラ」




