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波上の覚醒

 小さな帆掛け船を、深夜の海へと推し進める。


 周囲では、水底の黒闇を映した海面が静かにうねっている。思えば、生まれてこの方、島以外で夜を越した経験がない。


 新月の夜には魚達も巣に身を潜めている様子だが、時折、低い水音を伴って巨大な生き物の気配が水面を割って現れては、沈んでいった。


 この薄膜一枚隔てた下は人の住む世界ではない。


 目を背けてきた当然の認識。こみ上げる恐怖を無理矢理に嚥下して、天球を満たす星々の配置を頼りに舵板を操る。対岸までの航路は頭に入れてきた。夜半の微風を捉えてこのまま順調に進めば、夜明けまでに上陸出来るはずだ。


 いまはとにかく集中しなくては。オレがいま神経を注ぐべきは、方角を見誤らないこと。そして……



 船首に視線を走らせる。


 そこには白く静かに身を横たえる少女の姿。僅か三年の間に、幼馴染みの身体からは色が抜け落ちつつあった。どういった原理かは想像もつかない。途端にオレを捉えていた海の黒い恐怖が一息に駆逐されて、今度は別種の不安が喉元まで一気にせり上がってくる。


 やはり、余りにも無計画過ぎたのではないか。こんなやり方で、彼女を取り戻せる保証なんてどこにもない。ひょっとすると彼女は二度と目を覚まさず、そして、魔女を失った島も……



 だが、その瞬間はやってきた。


 星明かりに白濁した天球を捉えたオレの視界の隅で、何かがむくりと身を起こす気配。長い髪に縁取られた相貌に一切の感情を湛えることなく、彼女もまたじっと星明かりに見入り始める。



「ミラ」



 驚かせたくはない。可能な限りの小声で、でも、彼女に届くぎりぎりの声量で。気付いて欲しくて喉が震える。


 かすれ声で幾度か呼び掛けると、星明かりに向けられていた眼差しがこちらへ降りてきた。



「オレがわかるか、ミラ」



 ゆっくりとまたたきを繰り返していた彼女が、細い顎先を微かに揺らして首肯する。幾十という星座達が天を駆け巡る様に、オレの胸の内にも喜びと安堵が一気に押し寄せた。


 彼女が、次の言葉を発するまでは。



「ミラ……というのは、この身体の持ち主の名だな」



 周囲を満たす冷たい海水それ自体から発せられたかの様に、温度のない声調。


 違う。彼女は、オレの知っているミラはこんな話し方をしない。



せぬ、という顔をしているな。少年よ」


「お前は……誰だ」



 オレの視線を絡め取ったまま小首をゆっくりと傾げる、ミラの形をした何か。次の瞬間、面白い物を見つけたとばかりに、色素の薄い唇が歪な弧を描く。



「……私は人であって、人ではない。これまで私の憑代よりしろとなった全ての人格であると同時に、それらをべて、それらのいずれとも同一ならざる者」



 白いドレスに包まれた彫像の様な肢体に、植物のつたを思わせる紋様が浮かび上がって鈍色の輝きを放つ。魔女。それは、人ならざる者。オレは何かとんでもない勘違いをしていたのではないか。


 こちらの動揺など素知らぬ風に、船縁に身を預けた彼女は伸ばした指先で海面に触れ、濡れた指先から雫が滴るのを物珍しそうに眺めている。


 幾度かその仕草を繰り返してから発せられた次の言葉には、思わぬ柔らかさが満ちていた。



「だが、お前のことは認識しているぞ。このミラという少女、そして母親のグウィネスの記憶と思いは、変わらず私の内に溶け込んでいる」



 それが、何かの気休めになると言うのか。ミラはもう、ミラとしては戻って来ない。


 ひとしきり水の感触に遊んだ彼女。海面に浸した指先に小さな光球が宿ったかと思うと、それは次の瞬間に環となって、海底に向けて静かに拡散していった。


 やがて、周囲に小さな生物達の気配がにわかに満ちる。数匹の小魚が不意に身を踊らせ、船に飛び込んできた。船縁からは海星ヒトデタコがよじ登ろうとしている。


 それらの一つ一つに手を伸ばして目の前につまみ上げて観察するその眼差しには、純粋な好奇心だけが満ちている。



 何だ、こいつは。


 ミラではない。ミラの姿形をしているのに、中身は完全に別物だ。


 にわかに襲ってきた虚脱感にオレは思わず仰け反って、船底に身を預けた。夜空一面に拡散した白銀の砂粒が幾重にも震えて、視界が霞んだ。



「少年よ。何故、私を解放した?」



 波音に紛れて、幼少期から耳に馴染んだ声が低い違和感をまとってささやく。



「……誰かを犠牲にして成り立つ平和なんて、オレは認めない」


「お前自身の父親や祖先達の選択を否定すると言うのか」


「親父達は考える事を放棄して、目の前の安易な選択に甘んじてきただけだ」


「青いな。そして、お前には何も見えていないのだ、小僧。己を偽るは愚者の常よ。それは、お前の理由ではなかろう」



 波音だけが静かに、二人の聴覚を満たす。


 この音はいつだって、そこにあった。この音だけに包まれたまま二人で生きて、老いていくと疑わなかった。


 ゆっくりと身を起こして、彼女と視線を交錯させる。幼馴染の姿に対峙して照れ隠しに要したのは、一呼吸の溜息。認めるのに要した時間は、まばたき一回分。



「そうだな。オレが見てきたのは、いつだってミラだけだ」



 ミラの形を纏った何者かが、楽しげに口元を緩める。その様を見ていると、自分でも得体の知れない苛立ちが不意に込み上げてきた。思わず、ぞんざいな口調になる。



「なぁ、一つ訊きたいんだが」


「何だ」


「お前はこれから、どうしたいんだ?」


「ほぉ……」



 虚を突かれたのか、そう言って口先を丸く尖らせたままに考え込む彼女。その表情はやけに幼く、オレは密かに彼女に対するこれまでの印象を改める。



「私の原初の願いは『皆が幸せであるように』であったらしい」



 大仰な言葉にも、数百年に渡って平和だったという島の歴史が浮かんで、思わず首肯を返す。



「引き換えに、数え切れない少女達を憑代よりしろとしてきた。いまの私の願いは」



 彼女の指先がゆっくりと持ち上がり、水平線の先を示す。そこには早暁の薄明かりに対岸の砂浜がほのかに白くにじんでいた。


 もう星を見る必要はない。船が座礁しない様に、海面の濃淡に沿って舵を操る。


 彼女はオレの手つきを暫く眺めていたが、早々に飽きたらしい。いまは陸地からの風に顔を向けて、気持ち良さそうに目を細めている。



「なぁ、ところでお前、名前は何ていうんだ」


「名前……?」



 オレの方を振り向いて小首を傾げるその仕草は心底不思議そうで、彼女という存在にとって名前など意味がないことが窺えた。


 肩をすくめて質問を撤回しようとしたオレに、唄うような声が告げる。



「そうだな。名前がないというのも、お前にとっては不便であろうな、少年」


「少年じゃない。オレの名前は『アレン』だ」


「そうだった。失礼した、アレン」



 クスクスと楽しそうな指先が、船縁に張り付いた赤い海星ヒトデを一つ摘み上げて掌に乗せ、そっと海へ返す。



「もし、お前の許しが得られるならば、この少女の名前をもらい受けたいのだが。その方がお前にとっても馴染み深かろうが……どう思う?」



 そう言って、一つの音の連なりを小声で唱える魔女。まるで、覚えたての呪文が唇に馴染むか試しているみたいに。


 その仕草があまりにも無邪気で、オレは深く考える間もなく、思わず頷いてしまった。



「では、改めて自己紹介しよう」



 勢いを増しつつある海風をはらんで、長い髪が白銀に舞う。朝焼けを宿した琥珀色の瞳孔には、原初の感情が無垢なままに宿る。


 片方だけ僅かに上がった口角に人間らしいはにかみすらにじませたまま、彼女は爽やかに発音した。



「私は魔女リュドミラ。これからどうぞよろしく、アレン」

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