たった一人
北の島に唯一存在する建造物、魔女の祠の地下深く澱んだ沈黙の中、ミラがゆっくりと歩みを進め始めた。
その向かう先には、宙空にあって弱光を放ちながら微動だにしないグウィネス。
自らの母親の前に進み出たミラの表情は窺えなかったが、その背中から漂う親しみには奇妙な諦観が滲んでいる気がした。オレの記憶にある二人は、夕陽で橙色に染まった自宅の台所で向かい合って微笑んでいたのに。
いまやグウィネスの肌は大理石の様に滑らかで、現実離れして端整な相貌からはおよそ人間らしさの一切が刮げ落ちてしまっている。
知らず、唇の端から言葉が漏れた。
「……ふざけんな」
これまでオレが暮らしてきた島の風景。当たり前だった住民達の穏やかな日常の根底に、こんなものが横たわっていたなんて。ぐらりと揺れる視界。それを遮断する為に目頭を強く抑えたオレの頭蓋に、親父の淡々とした声が響く。
「アレン、私はふざけてなどいない。この島の住民は通過儀礼によってこの祠を知り、魔女の存在を胸に刻んで生きる定めにある」
平衡感覚を欠いたままの鼓膜に言葉は馴染まず、口を開くのも酷く億劫に感じられる。だが、最初の音を紡ぐとそれが呼び水となって感情のままに奔流となった。
「なに言ってるんだよ、親父。こんなのおかしいだろ!」
「島のみんなが平和に、幸せに暮らす為だ」
「だから、ミラのお母さんをこんな所に十年以上も閉じこめたのかよ。この人の幸せはどうなる? しかも、今度は娘のミラまで魔女にしようって言うのかよ!」
「そうだ。魔女としての適性を持って生まれてくる子供は希有なのだ。それが二代も続いてしまったことは前例になく…… 私も残念に思っている」
親父の言葉がいつになく虚しく響く。残念に思っているのは、誰に対してだ。母親であるグウィネスか。娘のミラか。それとも……
「村長として一生懸命頑張って、それでもどうしても幸せになれない人が出来てしまうなら話は別だ。けれど、最初から誰かを犠牲にする前提の仕組みなんて間違ってるだろ!」
「たった一人なんだ、アレン。たった一人の自由と引き替えに、残りの住民全員が幸せになれる。普通の人間が村の運営にどれだけ真摯に向き合おうとも、これ以上の結果など望めないだろう」
言葉を飲み込んで、思考に意識を傾注する。親父の言うことの理屈はわかる。だが、何かがおかしい。決定的におかしかった。
グウィネスに向けられた親父の視線はただ静かな灰色で、そこに込められた思いがオレには読み取れない。
「アレン、どうかおじさんを責めないで」
「……お前はどう思ってるんだ」
オレと親父の言い合いを背中で聞いていたミラが、振り返ることなく口を開く。
「私は、この島を愛してる。ここに住むみんなのことを愛してるの。それだけよ」
「だから、お前一人が魔女の役割を引き受けるって言うのか」
「アレン、私はみんなに幸せでいて欲しい。そして、そこには貴方も含まれるわ。貴方が幸せなら、私は……」
「お前がいない島で、オレにどうやって幸せになれって言うんだ」
こちらを微かに振り向く横顔。長く垂れた髪の間から覗く口元には、穏やかな微笑があった。
いつか耳にした夏の記憶が、しなやかな唇から零れ落ちる。
「ねぇ、アレン。約束したよね、私を離さないって」




