呪刻紋
誘われるまま、祠の中へ足を踏み入れた。
入口で合流した親父が掲げるランタンの灯りに、建物の内部が浮かび上がる。そこに内装の類は一切なく、ただ地下への階段だけが口を開けていた。数段下った辺りで弧を描きながら暗闇へ低く巻き込んでいくそれは、石造りの螺旋階段だった。
選択肢はない。一つ一つ石段を下りながら、不思議と恐怖は起こらなかった。
「一体、誰がこんな物を作ったのか」
父の背を追いながら、無言で数える石段が百を超えたところで強い疑問が頭をもたげる。いつ、何の為に。どうやってこんな場所に、ここまで深い穴を穿ったのか。とんでもない労力と時間が必要だったはずだ。
これではまるで、抑えきれない後ろめたさを地中深くに……
背筋を走る寒気に思わず肩を抱いた時、螺旋が不意に終わりを告げた。ランタンの灯りが照らす先に、潜り戸が見て取れる。
立ち止まってオレを振り返る親父。そこには、いままで見たことがない表情があった。今夜、通過儀礼を経て成人を迎える息子への祝福、愛情、誇らしさ。そういったものは一切見受けられない。
寄せられた眉根、固く引き絞られた頬。そして、それらと不釣り合いにそこだけ緩んだ唇からは、奇妙な安堵すら漂っている気がした。
潜り戸の正面に立つ。奥の空間から漏れ伝わる青白い光は、ランタンの朧な灯りに慣れた瞳に冷たく鋭利に過ぎて、視線を暫時逸らさずにはいられない。地中深く湿っぽい空気を幾度か肺に取り込む。
意を決して身を屈め、扉を潜る。
まず感じたのは、そこが存外に広がりのある空間だということ。太い列柱に支えられた天井、がらんとした冷たい暗闇が奥へと深く伸びている。村の集会場、いや、もっと広いかも知れない。
そして、その暗闇を辿って最奥の壁面付近。何か大きな物体が、仄かに明滅していた。
「なんだ、あれ……」
潜り戸の手前にまで漏れていた青白い光は、その物体から放たれている。好奇心に駆られるまま歩み寄るオレの視線の先で、その物体が徐々に焦点を結ぶ。
それは女性の彫像だった。長く伸びる髪、ゆったりと身を包むドレス、そして肩口から喉元まで覗く肌。その全てが純白の調和の中にあった。
如何なる力によってか宙に浮かび、神々しさすら纏うその佇まい。だが、近付くにつれて奇妙な違和感を覚える。その手首、足首、そして喉元までもが幅広の拘束具によって戒められている。
それだけではない。端正な造型の相貌には目隠しが施され、面長な頭部はそれを儚むかの様に僅かに傾げられ……
刹那、記憶が認識となって襲い掛かる。オレはこの人を知っている。
幼少期。昼下がりに訪れた幼馴染の家。招じ入れられた手狭な居間いっぱいに跳ね回って、はしゃぐ幼馴染。台所に立って飲み物を用意しながら、それを窘る母親。その穏やかな相貌が纏うのは子供ながらに直視するのが憚られるくらいの眩しさで……
「そうだ。彼女はグウィネス。ミラの母親だ」
「なんで……」
ミラの母親は急病で亡くなったと聞いている。そもそも天寿を全うせずに誰かが亡くなること自体がこの島では珍しいことなのだが、その彼女がなぜこんなところに?
「グウィネスが当代の魔女となってから、もう十年以上になる」
「当代の……魔女? この人は生きているのか、親父」
「そうだ。いまこの瞬間も彼女はアルキナティアから抽出した成分の投与を受けながら、ここで役割を果たしている。だが、それも……そろそろ限界だ」
この人は何を言っているんだ。耳から入る言葉が、意味を成さない。戦慄と共に見上げるオレの視線は、親父の超然たる無表情に受け流された。小さな頃から聞き慣れた低い声のまま、まるで別人みたいに滔々と語り始める。
「アレン、見るがいい。グウィネスの肌に浮かぶ紋様が見えるだろう。それは『呪刻紋』と呼ばれ、彼女の全身に刻まれている」
「……じゅこくもん?」
「それこそが、彼女がその身に宿す『魔女』の正体だ」
いままで目にしたことがない不可思議な紋様が、ドレスの裾から覗くか細い手足に浮かんでいた。石像と見紛う程に白く滑らかな肌に絡み付き、ゆっくりと明滅を繰り返すそれは全身を這い回る無数の蛇を連想させる。
「アルキナティアは本来、自然界に存在する植物ではない。呪力を糧とする人造物であり、空気中に絶えず分泌する成分は極微量であっても生物が摂取すると強い高揚感、多幸感、そして攻撃性抑制の効用をもたらす。数百年に渡ってこの島に一切の争い事がなく、全ての住民が幸福の内に生を終えてきた理由はまさにそこにある。ただし……」
言葉を切った親父の灰色の瞳が、明滅する光を宿したままオレを見つめる。やめろ。そのまま黙ってくれ。
「発芽、生育、開花、結実。この島に生息する全てのアルキナティアが生涯を通じて必要とする膨大な呪力を供給する役割を、誰かが担わなくてはならなかった。呪力は呪刻紋から生まれる。だが、生身の人間にとってそれは宿主の骨肉を蝕み、寿命を喰い潰す呪いとなる」
「……まさか、だからアルキナティアの花から抽出した成分を」
「そうだ。適性を見出された人物はやがて呪刻紋を継承してこの祠の地下に留まり、我が家に伝わる秘術で抽出、精製したアルキナティアの濃縮成分の投与を受ける。五感を麻痺させて、呪刻紋がもたらす耐え難き苦痛すら凌駕した『魔女』。それがミラの母親であるグウィネスであり、そして……」
「次代の魔女である私というわけよ、アレン」
そうだ。わかっていた。余りにも耳に馴染んだその声に、振り返るまでもない。きっと、この光景を目にした瞬間から、オレはわかっていた。
「この島の歴史は『魔女』と共に始まり、今もまた『魔女』なくしては成立し得ない。そして、貴方のお父さんを含めて全ての歴代村長が、島の平和の為に同じ選択をしてきた」
オレの肩に置かれる、幼馴染の手。そこから伝わる温もりはこれまでの記憶と寸分違わず、オレの喉から漏れるのは無様に引き攣れた嗚咽だけだった。
「アレン、今度は貴方が選ぶ番よ」




