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記憶の中のあの人は、いつも穏やかに微笑んでいた。
必死にいつも手を伸ばす。でも、その手が届くことはなくて。手が届きそうになると、ひらりと軽やかにかわされる。
「……い」
おいていかないで、と叫ぼうとしたところで目が覚めた。
「…………はぁ」
最近、どうも寝覚めが悪い。原因はわかっているけど、それを改善する気になれなかった。
でも、今日は珍しく運が良かったかもしれない。時計を見るとまだ五時だ。今のうちから、準備をしておいた方が良いだろう。
準備を終え、そろりと音を経てないように気を付けて、階段を下りた。一番気を付けるべき人の部屋の扉をノックせずに少しだけ開く。そこから中を見ると、ベッドに横たわっている淳お兄様が見えた。
小さくガッツポーズをして、扉を閉めた。それにしても、珍しい。いつもならこの時間には起きているというのに。やはり、今日はついている。
これなら音を立てることを心配せずとも良いだろう。口元がにやけるのを必死に抑えて、リビングに行くと、父と母がいた。姉と妹はまだ寝ているようだ。
「少し、散歩に行ってきます」
私がそういうと、山じゃないだろうな、とは聞かれたけれどその辺りをぶらぶらするだけです、と答えたらあっさり了承された。
「朝食までには戻ってくるのよ」
母にそう言われたので黙って頷くと、背を向けた。朝食どころか、昼食時間も過ぎるだろうな、とは思ったが、昨日姉が、先日買って貰ったばかりの服を今日着ようかな、と言っていたので大丈夫だろう。
今日は姉のファッションショーになるのだろうから、私一人いなくとも問題ない。
心配は淳お兄様だが、別荘を出てしまえばこっちのものだ。
■ □ ■
「よし……」
ここまで計画は順調に進んでいる。何故か予定していたより電車代も時間もかかったが、それは下調べが間違っていただけだろう。
淳お兄様に私が金槌などという不名誉なことを言われたが、私は泳げる。今日は、それを証明するために、市民プールまでやってきたのだった。そう、前は少し高級なプールが私の肌に合わなかっただけだ。
市民プールならのびのびと泳げるはず。
別荘からでは電車を使わなければならないことが難点だったが、それも無事にクリアし、見事目の前には市民プールがある。
ここのプールの営業時間は午前九時半から午後六時までだ。もうすぐ、時刻は九時半になろうとしている。だが、ここで焦ってはいけない。
小学一年生が一人で、市民プール。怪しまれることは確実だ。怪しまれずとも、友達ゼロなのがばれてしまう。
しかも、保護者はいるの?と聞かれたら即アウト。
物陰に隠れながら、辺りを伺う。
一番いいのはこれからくる子たちを観察しその子たちが屋内に入った後で、「お姉ちゃんが先にいっちゃって……」という言い訳を披露し、代金を払って中に入れてもらうことだ。
そんなことを考えていると、中学生ぐらいの女の子が友達らしき子たちと話しているのが見えた。じっと観察して、その子の姿を覚える。これで、「そのお姉ちゃんってどんな子」と聞かれても対処できる。
その子がプールの中に入っていく。よし、時間差をつけて私も――……
あれ。前に進まない。
鞄が何かに引っかかってるのかな。そう思って、後ろを見――、違う。見てない。私は何も見ていない。
首をぐりんと回転させて前に戻す。
「ちょっと、お腹が痛いからお手洗いにでもいこうかな」
何事もなかったように、スカートの裾を払うという小芝居をして、やんわりと首の少し下辺りの服を掴んでいるであろう手を押しのける。
「あ、お姉ちゃんがいる!お姉ちゃーん」
「桜ちゃんなら、いないと思うけど」
今聞こえた声は幻聴だ。
「ちなみに、楓がいこうとしたのは多分B市の市民プールだろうけど、ここはD市だよ」
D市!!B市とは反対方向だ。いや、駄目だ。人たらし(あくま)の言葉に騙されてはならない。
私は方向音痴ではない。よって、ここはB市で桜ちゃんとか言う人物は私とは無関係だ。これ以上、悪魔の言葉に耳を傾けないように、立ち去らないと。でもプールが。ここまで来たのに。プールに入らずに帰るなんてできるだろうか。いや、できない。
こうなれば力づくで中に入るしかない。私は思いっきり踏み出そうとして、つんのめった。ぐえ、とカエルが潰されたときのような声をだしたのは、私のせいではない。
「ほら、帰るよ」
引きずられて、どんどんプールが遠ざかっていく。
ああ、プールが。
――ぐううううぎゅるるるるるるるる
「……!?」
淳お兄様に二度見された。私じゃない。横を向いて地響きのような音とは無関係ですよ、とアピールする。
――ぐうっぎゅるるっるーぐうっぎゅるぎゅるぎゅる
しまった。第二波が。しかも何かリズムを刻んでる。
「とりあえず、何か食べようか」
その言葉に私は黙って頷くことしかできなかった。
■ □ ■
目の前には、ハンバーグがおいしそうに湯気をたてている。
「朝から何も食べずに、プールに入ったらどうなるかわかる?」
「……ハイ」
「はい、じゃなくて。どうなるかわかる?」
「溺れます」
ハンバーグの香りが私の胃を刺激する。
「そうだね。特に君はすぐに――」
ハンバーグが早く食べてと、美しい茶色を見せつける。
「…………楓」
「はい!?」
淳お兄様に名前を呼ばれ、はっとすると、私はハンバーグに鼻をこれ以上ないほど近づけて香りを嗅いでいた。ハンバーグ……恐ろしい子。
「……食べようか」
淳お兄様が若干呆れたような目をしたけれど、きっと気のせいだ。
「いただきます」
言うが早いか、自分でもちょっとすごいな、と思うスピードで食べ始める。私の胃が、肉を求めていた。
ハンバーグは噛むと肉汁がじわっと出てきて、ファミレスとは思えないほど美味しかった。
「!!」
私があまりの美味しさに震えていると、頬杖をついてその様子を眺めていた淳お兄様と目があった。
「淳お兄様は、食べないのですか?おいしいですよ」
「うん。何だかもう胸がいっぱいだから、欲しいならあげるよ」
「えっ!いいんですか、ありがとうございます!!!」
そんなに遠い目をしてどうしたのだろう。こんなにおいしいのに勿体ない。
有難くいただき、完食した。
「ふぅ、食べたな……あ」
ここに来る前よりもかなり大きくなってしまったお腹をさすっていた私の視界にあるものが映った。
あれは、私が前世で食べたくとも食べられなかった幻のスィーツだ。その名をパフェという。
私の中でパフェ=女の子のものという等式が成り立っており、手を出せなかった。
「あの……」
「お金は僕が出すから好きに食べていいよ」
さすが、次期道脇家の当主。太っ腹です。
私は、初めてパフェを注文し、食べた。とても甘くておいしかった。こんなおいしいものを食べたことがなかったなんて、人生の半分を存していた気分だ。クッキーの次においしいかもしれない。淳お兄様にそういうと、「そう……」とだけ返された。大丈夫だろうか、ハンバーグも食べなかったし、どこか具合が悪いのではないかと心配になった。
帰ったら、病院に連れていった方がいいかもしれない。
■ □ ■
淳お兄様は家の車で来ていたので、帰りは電車ではなく車で帰った。食事中待ってもらっていた運転手さんには、少し悪いことをしてしまった。お詫びに飴をあげると、とても喜んでくれた。割と話しやすそうな人だったので、今度話しかけてみようと思う。
そういえば、なぜ淳お兄様は私の居場所がわかったのだろう。あの時は確かに寝ていたはずなのに。
私がそう尋ねると、私の行きたい方向の反対を目指した、と言われた。よくわからない。
今回はたまたまお兄様の勘が当たったということだろうか。
夕食も、ハンバーグだった。淳お兄様は、夕食もあまり食べなかった。ファミレスで食べたものとはまた違う味付けで、大変美味しかったのに、勿体ない。
もしや、夏風邪とかいうやつではないだろうか。
やっぱり病院に行った方がいいかもしれない。
私がそういうと、首を振って病気ではないから大丈夫だ、と言われた。
その言葉通り、淳お兄様は、翌日の朝食はちゃんと食べていた。でも、時々私の方に視線を向けるのはなぜだろう。
今回は失敗に終わってしまったが、計画を立て直し、次こそはプールで泳ぎたい。