12
ドンドンドン
「淳お兄様!!」
「……楓?どうしたの?」
部屋から出てきたお兄様に抱きついた。
「私を……助けて下さい」
■ □ ■
「……で」
「ハイ」
腕を組んでいる淳お兄様が恐ろしい。
「これは一体どういうことかな?」
「ほ、他の課題はバッチリ終わらせましたよ?でも一応確認してみた方がいいかなー、なんて思って鞄を見たらなぜか一ページも手をつけていない絵日記がありました。誰が隠していたのかな、アハハハハ」
「楓」
「……ハイ」
「……」
「一生のお願いですから、手伝って下さい!!!」
今日は、別荘で過ごす最後の日――夏休み最終日である。空白のページを一人で全部埋めるなど、到底不可能だ。
「……はぁ。三時までだからね」
別荘をたつのは、午後三時だ。つまり、ギリギリまでお兄様も手伝ってくれるということだ。
私は大喜びで、淳お兄様に絵を書いてもらった。
――私が、悪かった。頼む相手を間違えたのだ。
「淳お兄様って、美大を目指されています?もしくは画家とか」
「このままいけば、法学部か経営学部じゃないかな」
「ハハ。ですよねー」
淳お兄様の手から生み出されたページを見つめる。私の絵は図面が引けないと、クマシリーズが作れないのでそこそこは、描ける。が、あくまで、そこそこレベルである。目の前には小学四年生が描いたとは到底思えないクオリティの絵。
天は二物を与えずって絶対嘘だ。蘇るのは、悪夢のようなあの日々。
朝五時に起床し山ランニングをするということを夏祭り以来、私は毎朝行うようにしていた。もちろん、あの日お兄様に追いつかれたのが悔しかったからだ。が、何故か私がランニングをする時にはすでに一汗かかれたお兄様が、
「僕も一緒に走ってもいいかな?」
と大変いい笑顔で立っているのだ。
「まだ朝も早いですし、二度寝でもされてはいかがでしょうか?」
「それなら楓も一緒に帰ろう」
「いえ、私は健康の為に少し走ってから帰ることにします。では!」
これでも、前世は運動部――それも、陸上部だったのだ。この前は油断してしまったが、今回の私に隙はない。自分の出せる、最大のスピードで走った。
――お兄様も私についてくることはできないだろう。ちら、と後ろを振り返るとお兄様の姿はかなり後ろに見えた。
「よし!」
これなら、私が完全勝利を収める日もとおくな……
「準備運動もなしにいきなり走り出すのは、感心しないな。気を付けないと怪我をしてしまうよ」
「!?」
この時の私の動揺は、すごかったと思う。勢い余って、木に激突した。
「いっ……たぁ……」
おでこをさすると、たんこぶができていた。
「大丈夫?だから、言ったじゃないか」
いえ、これと準備運動は全く無関係です。どちらかというと、淳お兄様の……ゲフンゲフン。
おかしい。あの時は確実に後ろにいた。私のいた場所からお兄様までかなりの距離があった。それを一瞬でつめるのはかなりの無理があるような。というか、この前だって、あの距離なら私が転ぶまでに間に合うはずがなかった。
……もしかして、もしかしなくても、淳お兄様ってすごく足が速いのでは。
「帰る?」
「帰りません」
負けてたまるか。一番自信のある足の速さで負けたら、私は何一つ勝てるものが無くなってしまう。
私は走った。ひたすら走った。
「……ぜぇ、ぜぇ、さすがにここまでは」
ここまではついてきていないだろう。そう思って振り向き、安堵して横を向いた時のあの絶望。
「ここまでは、どうしたの。疲れたのならもう、帰る?」
「――!!」
果てしない戦いだった。走っては振り返り、横をむいては絶望し。
そして、結局――、一度も勝てたことはなかった。だが、淳お兄様と走ると自分の限界を超えられる気がして、つい
「淳お兄様、明日も走りますよね?」
と、毎回聞いてしまっていた。あれ、今思えば、そもそも勝つためのトレーニングなのに、その敵も一緒では、差が埋まらないのは当然じゃ……。
「うわあああああ」
私は、馬鹿か。馬鹿だ。これを馬鹿と呼ばずに何と呼ぶ。
「叫ぶ暇があるなら、日記の内容考えてて」
「……ゴメンナサイ」
私が回想している間にもお兄様の手元には新たな作品が出来上がっていた。
恐るべし、ヒーローパワー。歌も上手いし、ピアノも弾けて、ダンスも踊れて、勉強もできて、性格もよくて、足も速くて、顔もいい。おまけに、同じ年頃の中でも背が高い。頭一つぶんくらい抜けている。
このまま負けっぱなしでは終われない。何か、何か弱点みたいなものはないだろうか。例えば、そう……苦手な食べ物、とか。
「にんじん、しいたけ、ピーマン、ゴーヤ、じゃがいも、玉葱、にんにく、らっきょ、トマト、きゅうり、なずび、えのき」
ちらりとお兄様の顔を伺ってみたが、顔色に変化はない。
ゴーヤにも屈しないとは、さすがお兄様だ。
「……どうしたの?」
「あまりにも書く内容が思いつかないので、食べ物のことでも書こうと思って」
半分事実だ。夏祭りに行った日とプールに行った日はいい。それで日記が埋まる。でも、それ以外は、お兄様の警戒レベルを落とすために、部屋にこもって勉強しているか、山でひたすら走っていたかのどちらかだ。日記に書くにはあまりにも寂しい。
「鮭のムニエル、カレーライス、オムライス、ラーメン、うどん、ちゃんぽん、ステーキ、スパゲッティ、卵かけごはん、とろろ丼、海鮮丼」
あ、何だか涎がでてきた。それにしても、日記にかけるような内容が何一つと言って思い浮かばない。そうだ、こういう時こそ友達に電話をして、それとなく書いた内容を――……、その友達がいなかった。やだな、ちょっとだけ心の汗が出てきた。こういう時こそ、おいしいものを想像するんだ。
「でもやっぱり一番は、肉汁たっぷりハンバー……グ?」
……ん?
「ハンバーグってとてもおいしいですよね」
「ん、あ、ああそう、だね」
本当に、一瞬、だけど確かにお兄様が眉を潜めた。
「ハンバーグ、ハンバーグ、ハンバーグ」
呪文のように連呼すると、淳お兄様は、色鉛筆を止めた。
「……淳お兄様?」
私が首を傾げると、淳お兄様は、はっとしたような顔をした。
「何でもないよ」
「もしかして、ハンバーグはお嫌いなのですか?」
「あ、いや。嫌いというわけではないのだけど、どうしてもハンバーグを見ると胸がいっぱいになって食べられなくなるというか、何というか」
そして、何か悍ましい記憶でも思い出したのかうっと呻いた。
「大丈夫ですか!?」
「……ごめんね。大丈夫だよ」
……それにしても、なぜお兄様は微妙に私から目を逸らしているのだろうか。
もしかして、私がお兄様の弱点を探ろうとしているのが、ばれたのだろうか。
「ごめんなさい、淳お兄様!もう二度と、ハンバー……じゃなかった、例の茶色いあの食べ物の名前は口にしませんから!!!」
やっぱり、人の弱みに付け込むようなやり方はよろしくない。勝負は正々堂々とするべきだった。
「いや、そこまでしてくれなくていいよ」
優しい淳お兄様は、許してくれたけれど、あんなにおいしい食べ物が、苦手だなんて勿体ない。どうして、ハンバーグが苦手になったのだろう?理由を尋ねたけれど、淳お兄様は私から目を逸らすばかりで、教えてくれなかった。先ほどの呻き声と言い、よっぽど嫌な思いをしたに違いない。なので、それ以上詳しく聞くことは止めた。
■ □ ■
「……はぁ」
何とか絵日記は完成した。自分で頼んでおいてなんだが、淳お兄様の絵はあまりにも上手なので、途中から日記の内容を考える係と交代してもらった。なので、前半の数ページとあとの絵の落差が大変なことになっていたけれど、未提出よりはいいだろう。
今日から新学期だというのに、寝不足のせいでくらくらする。日記は、別荘たった三時までに書き終えることができたのだが、それよりももっと重要なことを思い出したので、昨日の睡眠時間はそれの準備に費やした。姉に笑われた目の下のクマは何とか上手く隠せていると思う。
そういえば、淳お兄様は父と母から大変感謝されていた。じゃ、僕はこれで、と帰ろうとしたお兄様を何度も引き留めたほどだ。一体、お兄様は何をしたのだろう。別荘に行く前にも、ストッパーがどうとか言われていたし、何かの暴走を止めたのかもしれないな。何にせよ、淳お兄様のことだから、父と母から頼まれたことはきっちりとこなしたのだろう。さすが、淳お兄様だ。
「あっ、ごきげんよう、楓様!」
「ごきげんよう、美紀さん、遼子さん」
とりあえず返事を返したが、私の心の中はごきげんよう、という余裕はなかった。教室を見渡してやつらの姿がないことを確認し、ようやく一息ついた。
約一か月ぶりに見る、美紀ちゃんと、遼子ちゃんは大変可愛らしく、そして、寝不足の頭にあの純粋な目はかなり眩しく映る。
ぐらぐらしてきたが、何とか踏みとどまる。だめだ、ここで倒れては私の睡眠時間が無駄になる。何度か深呼吸をして、ようやく落ち着いた。
「楓様は、どう夏休みを過ごされました?」
「そうねえ……」
答えようとしたとき、教室の空気が変わった。私は、教室の入り口へと視線を向ける。やっぱり、あいつだった。
「ごめんなさい、美紀さん、遼子さん。ちょっと失礼しますね」
女の子たちは、目つきは相変わらずだったけど、久しぶりにみるその顔にやられたのか、顔を上気させていた。私は、あいつの方へと身体を動かす。
あいつと目があった。
あいつの口が動く。
私はあいつ――前川の出そうとした言葉が、声として認識される前に、言葉を紡いだ。
「ごきげんよう、前川様。少しお話したいことがあるのですが、よろしいですか?」




