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心臓の音が煩い。深呼吸を繰り返しても、収まる気配は一向になかった。
姉さん。なぜ、貴方がここにいるの?
まさか、姉さんが──いや、そんなはずない──だって、姉さんは。
「ね……え……さん」
それとも、あれは見間違いや白昼夢だとでも?夢に見るほどまでに、会いたかった私の心が見せた幻影なのだろうか。
大好きだった。大切だった。それなのに。
「……ぁ」
だめだ。耐えられない。
滲む視界の中で、私は意識を手放した。
■ □ ■
あのパーティの後、私がトイレに行ったきり、帰ってこないのを不信に思った前川を遠巻きに観察していたお姉様方が、私を助けてくれたらしい。
感謝はしている。ええ、感謝はしっかりしていますとも。でも、これはあんまりだと思う。
私がトイレにこもって出てこなかった理由は、表向き(・・・)は風邪だということにされている。
でも、本当の理由は、
「極度の下痢」
と噂されている。私はこれでも、乙女で……ああ、あれか。前川あんど赤田ファンのお姉様方からのささやかな復讐かもしれない。遠目からだと、親密に話しているように見えたのだろう。ささやか、という言葉ではかなり足りない気がするけど。前川と赤田に理由を知られたらおしまいだ。一気に学年中に広がるだろう。どうか、そこまで広がっていませんように。あの二人に知られたら、それこそ、お友達ゼロ記録をずっと更新し続けられる。ただでさえ、ぼっちなのに。私は平穏な薔薇色──いや、薔薇は姉だけで十分だ──珊瑚色ライフを楽しみたいのに、このままでは真っ黒ライフへご案内だ。
ああ、でもある意味良かったかもしれない。『風邪』なので、一昨日行われたパーティを欠席することができた。正直言って、ほっとしている。生徒会の親睦会にいたということは、あの人もなかなかの家柄の人間ということだし、会う可能性が高い。いずれは生徒会に入るので逃げてばかりはいられないだろうけど、今の私ではおかしなことを口走ってしまう自信があった。時々こっそりと物陰から、見させてもらって頭を整理したい。
鏡に映っている自分の姿が目に入った。
「……似てないなぁ」
思わず漏れた言葉に首を振った。今は、それどころではないのだ。
深く息を吸い込み、吐き出す。手を何度か握って開くことを繰り返して、溜息をついた。
何を緊張しているのだ。敵は、ただ一人。それさえ、突破することができれば、怖いものなど何一つない。
心を決めて、扉を開く。
キィッ、とその音すら、とても大きく感じられる。
きょろきょろと辺りを見回したが、敵の姿は見当たらなかった。よし、ここまでの作戦は成功だ。敵の警戒レベルは、最低値まで落ちている。
私が、あのパーティで倒れてから、なぜか私の体が弱いなどという、間違った認識を淳お兄様はもたれたようだった。
「病弱な子は、自分の部屋で大人しくしていなくてはね?」
私が部屋を出ようとするたびに、そういってやんわりと部屋に押し戻された。
お兄様、非常に残念なことに弱いのは身体ではなく、頭です。
何せ、混乱するとすぐ寝込んでしまうような頭だ。自分で思っていて、アレだけど少し悲しくなった。
警戒レベルが最高まで引き上げられた淳お兄様を突破する方法などない。
そして、私は考えた。突破できないのなら、下げてしまえばいい、と。
この二週間、私は自室にこもって勉強をした。家庭教師の先生に出された課題を終わらせ、少し進んだところまでいった。丸が続くと嬉しくなって、勉強が少しだけ好きになったのは嬉しい誤算だ。
……これで、私の脳の容量も広くなった、はず。
敵はなかなか手ごわく今日までかかってしまったが、まあ、いい。終わりよければ全てよしだ。
敵が警戒を緩めなかった場合、二階からの脱出を試みようと思っていた。二階ならそこまで高さはないし、下には植込みがあるので、着地に失敗してもクッション代わりとなってくれる。前世では運動部に所属していたので、そこまで運動神経も悪くない。それに風邪一つひかない、頑丈な体。
本当は、私の体がどこまでの強度を誇るか、やってみたい思いもある。……というか、そちらを試す気だった。残念だけど、確実なのは玄関から出ていくことなので、また別の機会に試そうと思う。
目指すのは、玄関のみ。
ここまでくれば、後はスピード勝負だ。懸念すべきなのは、淳お兄様が使っている部屋が一階にあることだけど、さすがのお兄様とはいえ、私のスピードにはついてこられないだろう。
階段を転げ落ちるように降りて、玄関まで一直線に走る。
残り十メートル、九メートル。玄関先の花は今日も美しい。
八メートル。躓きそうになった。
七メートル。何とか持ち直した。
六メートル、五メートル。
「あと、……ちょっと」
玄関を抜けさえすれば、そこには幻の乗り物が私を待っている。
四メートル。
「……!!」
敵に気付かれた。背中に気配を感じたけど、振り返らずに走る。
扉は目前まで迫っていた。
この勝負の勝ちを私が確信した時、私の足が地面から離れた。一瞬だけ宙に浮きあがるような感覚がして、その後はスローモーションのように流れていく。目に映ったのは、扉ではなく綺麗に磨きあげられた天井だった。
衝撃を覚悟して、目を閉じる。
「…………?」
しかし、衝撃はいつまでたってもやってこなかった。
そろり、と目を開けると淳お兄様の顔が広がっていた。後ろから抱きしめるようにして、助けてくれたようだけど、かなり恥ずかしいので離してもらう。
「ひっ!」
怖い。怖い。怖い。怖い。いつも穏やかな目が全く笑っていない。それどころか、細められている。
「……楓」
「………………ハイ」
「靴下で廊下を走ったら危ないよ」
「ごめんなさい。助けて頂いてありがとうございます。では、失礼しますね」
失敗した。今度からは裸足で走ろう。
何事もなかったように歩き出そうとして、全く進まなかった。
「楓」
「ハイ」
「……夏祭りに行きたかったのだろう?」
俯いていた顔をがばっとあげた。今日の午後五時から、夏祭りが行われる。そのためにこの二週間を犠牲にしてきたのだ。
「ポスターはシュレッダーにかけて捨てたのに」
シュレッダーにかけて、それをさらに手で千切った。あれから内容を理解するのは、かなり困難なはずだ。なぜ、ばれてしまったのだろう。
「最近は、ほんの少しだけ行動が読めるようになってきたからね。小学生だけで行っても間違いなく補導されるよ」
「でも、『夏休みのしおり』にはそんなこと一言も……」
スカートのポケットから、紙を取り出して淳お兄様に見える。でも、淳お兄様は全く怯んだ様子はない。
「書いてなければなんでもしていい、というわけではないんだよ」
「……ごめんなさい」
素直に謝ると、ふ、とお兄様が雰囲気を和らげた。
「叔父様と叔母様には許可を取ってあるから、僕と一緒でいいのなら連れて行ってあげるよ」
「……え?」
「もちろん、僕はまだ小学生だから保護者にはなれない。運転手の樋口さん……っていったら、わかるかな。彼が保護者になってもらえば、いろいろ言われないだろうし」
樋口さん、というのは、私が市民プールに行こうとしたときに、運転手を務めてくれた方だ。
「いいのですか?」
「そのかわり、僕から離れないこと、約束できる?」
「もちろんです!淳お兄様、大好きです!!」
私は勢いよく、お兄様に抱きついた。
「はいはい。連れて行ってくれる人は大好きで、お菓子をくれる人は神様なのだろう?」
「……何でわかったのですか」
私の心が読めるとは。まさか、お兄様はエスパーなのだろうか。
それにしても、父と母を説得するとは。さすが、人たらし。一体、どんな方法で許可を取ったのだろう。
「一樹から貰ったクッキーがあるのだけど、食べる?」
「今度から、淳お兄様のことを神様と呼びますね」
「――それは遠慮しておく」
前川の兄である一樹様から、ということはなかなか値が張るもののはず。どんな味のクッキーなのだろう。想像するだけで、涎が出そうだ。
「……僕はお菓子に騙されて、君が誘拐されないか時々心配になるよ」
お兄様――いや、神様が低く呟いた言葉は、私の耳には聞こえなかった。
それにしても悔しい。結果として怪我はせずに済んだけれど、足には自信があったのに、追いつかれてしまうとは。
別荘の近くにある山でトレーニングをしよう。
そして、今度こそ完全勝利するのだ。
「……どうしたの?」
「いえ、なんでも」
怪訝そうに眉をひそめた淳お兄様にぶんぶん、と首を振って見せた。
夏休みの残りは、淳お兄様を倒すために使うことになりそうだ。