1章 奈々城祈(3)
家で寝て過ごしただけの土曜日。
シャー芯を買いに行っただけの日曜日。
そして本日は月曜日。また今日から学校が始まる。毎朝一時間近くの登下校はとても面倒くさい。早くどっかの欧米諸国がテレポート装置でも開発してくれないものか。いっそ学校で寝泊まりしたい。
そんな愚痴を放課後に言うのは自分でもどうかと思うが、思ってしまったものは仕方がないと誰に言うでもなく言い訳する。相手がいないのに言い訳するとはこれ如何に。
とりあえず教室を出て図書館に向かう。佐倉坂高校の図書館は一階に降りて職員室と校長室前の廊下を右に逸れた通路に隣接している。そのため外靴に履き替えないで直接向かうことができる。少々分かりにくい場所にあるが一度行けば忘れないだろう。少なくとも俺はそうだ。他人と比較して確かめることができないので保証はできない。
ちなみに一年生の教室は本校舎四階にあり、階が下がるほど学年が増加していく仕組みになっている。若いうちに体を鍛えろという初代校長の意向なのだろうか。運動してない身にとって四階まで階段で上がるのは軽い苦痛だ。いっそのこと鍛えたい奴だけ階段を上らせる仕様にすれば誰も損しないで幸せになれるだろう。もしくはエスカレーターかエレベーターを設置してほしいところだ。
鍛えたいといえば、週二、三回の体育で個人の運動能力が向上するわけがない。教師の目が全員に行き届かず、運動能力に大きな差が生まれる現状ならばやってもやらなくても同じだろう。知識や運動能力を身につけさせたければもっと体育の講師を雇って一人ひとりに丁寧に教えていくような体系にすべきだ。そしたら貧弱な俺でもきっとボクシング世界チャンピオンに輝くに違いない。それはないか。
そんな下らないことを考えてるうちに、いつの間にか一階にたどり着いていた。角を数回曲がり、視界の奥に図書館が見えてくる。が、……変だ。電気が点いていない。
扉の前まで歩き、取っ手を引く。開いた。……別にどうってことないじゃねえか。
心の中で失礼しますと呟いて、いつもの席まで歩く。
その途中で気づいた。人が少ない。というより、誰もいない。
「……?」
いくら見渡しても人影ひとつ見えず、小蝿が飛んでるだけだった。近寄ってきたので手で追い払い、とりあえず席につく。どんな日でも誰かしら十人くらいは居るのだが、もしかしたら今日は入ってはいけない日だったのだろうか。
とはいえ鍵が開いていたのだから問題ないだろう。誰かに文句を言われたらそのときに対処すればいい。俺は気にせず教科書を開き、宿題を終わらせることにした。
黒鉛が線となりノートに張り付く。その線を文字と認識しながら数学の問題集を一ページ終わらせた、その時だった。
「ちょっと、そこの貴方」
静かな図書館に女子の声が響く。誰かを呼んでいるみたいだが、俺以外に人物は居ただろうか。まあ知らないうちにもう一人来ていたのだろう。雑念を払い、問題に集中する。
「聞こえてるかしら?」
どんなに長い公式でも問題を解いているうちに自然と覚えていくものだ。3乗の展開公式なんて最初は見るのも嫌だったが、今では空で暗唱できる。やはり復習というのは大事なのだ。問題は進級のためにそれを覚え、将来どんな時に使うのかさっぱり分からない点である。手段と目的が逆転してはいないだろうか。化学や古典なんてどんなシチュエーションで使うのだろう。具体的な事例は出さない、そんな教育でいいのか日本の将来が不安である。
「ねえ、呼んでいるのだけれど。貴方、聞いてる?」
手が止まる。もしかしたら第三者なんて存在せず、俺を呼んでいるのだろうか? しかし俺だ。遠藤孝だ。誰とも何の交流もない俺が、キャッチセールス以外で呼び止められることなんてありえるのだろうか。いや、ない。
結論。俺の勘違いだ。
「ねえ、無視しないで」
まださっきの女子の声が響いている。人を無視するとは酷いやつだ。聞こえているなら返事くらいしてやればいいのに。
そう思っていると、目の前にバン! とやや強めに手が置かれた。やや驚き、思わず顔を見上げる。
美少女がメガネ越しに俺を見下ろしていた。……え、俺?
「人に呼ばれたら返事の一つくらいしたらどうかしら」
「すまん、誰のことだか分からなかった」
「私の他に貴方しかいないじゃない。なにをどう勘違いしたのよ」
「……それもそうだな、今気付いた」
「気付くのが遅いわよ。……って、あら、どこかで……? ああそうだわ、3日ぶりね」
少し怒ったような表情から一転、彼女はにこやかに右手を振る。……そう既知の仲のように言われても。
「いや誰だよ」
「覚えてないかしら? 私よ私」
「知るか。お前みたいな可愛い女子を俺が知るはずない」
「か、かわいい?」
彼女の顔が少し赤くなる。照れる必要はないだろう。その美貌は誇っていい。それとも関係ない話をしたことによる怒りで赤くなっているのだろうか。その可能性の方が十分にある。人を怒らせることは得意中の得意だ。相手の考えていることと反対の行動を取ればいい。周囲の反応から鑑みるにどうやら俺は無意識的にそれをやっているようなのだが、だとしたら相当嫌なやつだな、遠藤孝というヤツは。
そんなことはどうでもよい。
「結局誰だよ」
「あ、ほら、私よ。金曜日に会ったじゃない」
「金曜? ……あー」
少し記憶を遡り、土日の間に人と話すこと自体がなかったため彼女の存在を思い出せた。そういえば本の譲り合いをした記憶がある。今思うと譲り合いと言うより押し付け合いに近かったような感じがする。
「思い出したようね。あの本はどうだった? 面白かったかしら」
「つまらなかったからすぐ棚に戻した」
「そ、そうなの……」
言葉に詰まったようだ。正直悪いと思ってる。さっさと去って無理矢理にでも彼女に譲ってやればよかったのだ。まああの内容だと彼女もすぐ棚に戻すかもしれんが、人の感性はそれぞれなので、もしかしたらとても面白く感じられるかもしれない。
それはそれとして、だ。
「何か用か」
「何か、じゃないわよ。貴方、なんでここにいるの」
「……? 図書館で勉強してるだけだが」
「そうじゃなくて、休館の張り紙が見えなかったの?」
「休館?」
なるほど、道理で電気がついておらず、人っ子一人いないはずである。張り紙に気付かず、その可能性に至らなかった自分は相当なバカだ。今更だが。
「すまん、気付かなかった。鍵が開いていたから開いてたものだと」
「開いてたの? 本当に?」
「じゃなかったらどうやって入るんだよ。合鍵なんて持ってねえぞ」
「まあ普通はそうよね。……はぁ、また彼女かしら……」
彼女は眉間を抑え、重々しそうにため息をつく。なにか心当たりがあるのだろうか。というか、何故彼女の方こそ図書館にいるのだろう。ただ俺を注意しに来ただけなのだろうか。でもしっかり扉は閉めたし、廊下側からこちらは見えないはずだ。まあ関係ないか。なにか理由があるのだろう。
しかし休館日とは、これじゃ時間を潰せない。……さっさと帰って寝るか。
「気付かなくて悪い。すぐに出る」
「そう? ならいいのだけれど」
机の上の荷物カバンに突っ込み、席を立つ。そのまま足早に彼女の横を通り過ぎ――
「あ、ちょっと待って」
「なんだよ」
今度はさすがに振り向く。人間は学習する生き物だ。学習しなければ人間ではないと言っても過言ではない。だから授業中に毎回騒いで注意される奴は黙ってくれないだろうか。一番後ろの席だとたまに先生の声が聞き取りづらくて困る。本当に鬱陶しい。
俺の思考をよそに、彼女は質問を投げてきた。
「本を読むのは好きかしら?」




