ある主婦の話。
美弥子は男に裏切られた。
白く冷たい雪の欠片が美弥子の肌に染み込んでいく。かじかんだ手に買物袋が食い込み、指が落ちてしまいそうなほど赤く腫れた。
身体の芯から凍えるような寒さだが、美弥子はこの季節が好きだった。毎日長袖の服を着ていたとしても誰も不審に思わないし、その下に隠す秘密に気付くはずもない。
しかし、やはり。
はぁ、と息を吐いた。息は白く凍って後ろへ流れていった。
この寒さは流石に応える。早く家へ帰って暖まりたい。その時、ポケットのスマホが唸り声を上げた。慌てて取り出し確認すると、真っ黒な画面にSNSアプリのポップが出ている。一言、ポツリ。
『帰る』
瞬間、世界から温度が消えた。美弥子の頭を恐怖が支配する。早く早く早く帰らなければ。家に帰らなければ。早く。
指に食い込む買物袋の痛みも忘れて、すぐさま走り出した。
結論から言うと、美弥子は家で暖まることはできなかった。夫の帰宅に間に合わず『なぜ出迎えがない』と、抵抗もできずぼこぼこに殴られ裸に剥かれ倉庫に放り込まれたからだ。ガチャンと鍵の音がして、朝まで開かれることがなかった。
翌朝、夫が様子を見に来た時にはほぼ凍死寸前の状態だった。
『飯はまだか』そう言われて、やっと家へ上がることができた。
美弥子の家庭は世間一般の粋を出ないごく普通の家庭だった。夫の居ない昼間は近所の奥様との世間話に花を咲かせる。ドラマもサスペンスも無い平凡な夫婦。だがそれも外から見ればの話である。
夫は一見普通の勤め人であり、近所からは家庭のために日夜働くお父さん、といった評判だが、家に帰れば仕事で抱え込んだストレスを暴力という形で発散する、所謂DV夫と言われる男であった。
殴る、蹴る。それはもはや日常的に、夫の気分次第で行われた。いつの日か珍しく夫の機嫌がすこぶる良かったときがあった。その日美弥子は頭に一つたんこぶを作るだけで済んだのだ。美弥子もこれなら明日に残らないと喜び、次の日は少し薄着のおしゃれをしてお隣の奥様とランチを楽しんだ。そのせいで、夫に滅多めたに打ちのめされたのだが。
美弥子も馬鹿ではなかった。この状態は異常であるし、誰かに助けを求めればきっと助けてくれるだろうこともわかっていた。けれども助けて貰った後どうする? あの悪徳男が裁判で有罪になり刑務所か罰金かで離婚になり美弥子から離れた後どうする? 大学卒業後、すぐに結婚した美弥子に一人で社会を生きていく力があるのか? 美弥子はその未来が見えなかった。だから、おかしいと分かっていてもあの男に殴られながら生きている。憂鬱ではあるが、楽な生き方ではあった。
でももう少しだけで良い、幸せになりたい。
ある日、降り積もった雪が道の端に汚ならしく積み上げられている頃、美弥子は遂に運命ともいうべき出会いを果たした。
コーヒーショップで軽く休憩していたとき、声を掛けられた。普通の男だった。なぜか見たことのある顔だった。男は高校の時の同級生だと言った。
そう言えばそんな気もする。名前はすっかり忘れてしまっていたが、一度だけ話してけっこう楽しかったような記憶があった。
男は美弥子の隣に座り、人懐っこく話しかけてきた。美弥子もその話術に乗せられてついつい長話をしてしまった。帰り際、男は電話番号を書いた紙を渡してきた。
家に帰って、門限を過ぎていると、しこたま殴られた後、目を覚ました美弥子は自分の部屋に行きスマホを取り出した。時刻は二十二時を少し過ぎた頃、もう夫は寝てしまっている。ポケットの中に入りっぱなしのちぎられた紙に掛かれた電話番号をゆっくりと打ち込んでいった。ワンコールで通話が始まる。男は昼にあったときと同じ穏やかな声で話している。いくつか言葉を交わした後、美弥子は躊躇いながらまた会いたい、と口にした。男はすぐに了承した。
その日から、美弥子の生活は少し変わっていった。体力に余裕のあるときは男と会い、やがて体を重ね、少しづつ幸せを感じていった。
美弥子は男を愛していた。情事の最中、夫のことが頭をよぎるが元々見合いでの結婚であったし愛など微塵もなかった。
ホテルで男は言った。『これを使えばもっと気持ちよくなれる』美弥子は男を愛していた。美弥子は『それ』も愛するようになった。
幸せだった。幸せだった。美弥子はこの世で一番幸せだった。青い煙が立ち込める部屋で美弥子は幸せだった。
天使達がラッパを吹いて祝福する。宇宙のドレスを身に纏い、三角形の穴が開いたフィルム巻き取り装置の上で絢爛たる芋虫達の会議に『それは潔く! 順風満帆な交通安全教室を適宜動員すべきである!』とイギリスは海底を囀ずる将軍のように手を振るのである。
何て幸せなんだろう!
ある日夫は書類を出して『お前を訴える』と言ってきた。『浮気をしている。離婚してもらう』と。
美弥子はこれをもう怖いとは思わなかった。だって自分には男がいる。この夫に頼らなくっても生きていける。美弥子は胸を張って裁判所に向かった。敗訴。あわよくばDVで逆に慰謝料をふんだくってやろうとも思ったが、証拠不十分で認められなかった。
美弥子には多額の慰謝料が請求され離婚させられ、家からも追い出され、何もなくなってしまった。でも悔しくはなかった。男の所に行けばあの時みたいに頭を撫でて優しい声で『大丈夫。一緒に頑張ろう』と言ってくれるはずだ。スマホで男に電話を掛ける。繋がらない。もう一度掛ける。繋がらない。もう一度。繋がらない。もう使われていない電話番号のようだ。
美弥子は焦る。男がいなければ誰が私を幸せにしてくれる? 何度も何度も電話を掛けてやっと気付いた。男はいつも電話一つで会いに来てくれた。会って愛してくれた。その後すぐに帰った。それだけだった。美弥子は男のことを知らなかった。電話番号以外、住所も仕事も美弥子をどう思っているかも。
すべて美弥子の思い込みだった。ポケットを探したら『あれ』があった。過呼吸になりながら火を付け、青い煙を肺いっぱいに満たす。
大丈夫だ。片目のカタツムリ達がラッパを這いずり祝福する。貝殻の爪を持つ泥水のバッタが膝に飛び乗り、三点倒立しながら小学三年生の似顔絵を描いていた。『この卒塔婆の捻転しているインスタントな高台から見下ろす、巧妙な台風一過が難しいんだ』
コンスタンティヌス大帝は『お前が悪い』と言う。『暗雲立ち込める台所で浮気をしたウサギは野原をサーフィンしていた時の傷のまま生きていれば五本の指に取り残されずにほんの少しのスパイスを感じられただろうに』『あの男にトイレに流されたチョロい詐欺未満にならずにすんだのに』『ひとりぼっちなのだよ。お前は』
『薬』はもう効かなくなっていた。
美弥子はしあわせになれなかった。
しあわせになりたい。