証明問題
あたしと男は、初めの位置に戻り、座り込む。振り出しに戻る、だ。
あたしが息をつくと、男も息をついた。
顔を上げてみた。男も顔を上げる。
睨みつけてみた。睨み返される。
右手を上げてみた。男は左手を上げた。
「反対だよ! それに、真似しないで!」
あたしが男に向かってそう言うと、「これだからガキってやつは……」と毒づかれた。
なにがこれで、どれがやつなのか、二百字以内で説明してもらいたい。こんな非常時でまで、中学生をからかう男の方がよほどガキだ。
この人、本当は大人じゃないんじゃないの?
あたしは疑いの目で男を見た。相変わらずフードと眼鏡に邪魔されて顔が見えない。
最初に覚えた違和感。あたしは未だにそれを持て余していた。
あたしはこの男を、見たことがある? 答えは、いいえだ。
あたしはこの男を見たことがない。初めに思った通り、あたしはこの男に全く見覚えがなかった。それでも、なぜか何かが引っかかるのだ。
手放したことを忘れかけて広げたテキストは、あの時よりも見方がやはり違って見えた。
あたしはこの男を見たことがない。だから、この男を知らない?
立ち上がって、非常用のボタンを押した。
カチリ
無駄だというのは解っていても、何かをしないではいられなかった。
カチリカチリ
男がくしゃみを一つした。
カチリカチリカチリカチリカチリカチリ
パーカーとジーンズのみで、この冬空を越そうだなんて、自殺行為もいいところだ。
カチリカチリカチリ……
ボタンから指を離し、あたしは、着ていたレインコートを男に差しだした。
「なに?」
「寒そうだから、貸してあげる。風邪ひいたら大変だから」
このレインコートは男女兼用で、もとよりサイズが大きい。見る限り男は細身だし、着られないこともないだろう。
男はあたしからレインコートを無言で受け取ると、すぐに着始めた。前をとめることはできないものの、着るだけならなんとか大丈夫のようだ。
鼻水をすする様子に、もう風邪ひき始めているかも、とは思ったけれど、そこは言わないでおく。
近くで見ても、やっぱり思い出すことはない。いや、思い出すも何も、知らないのだから仕方ない。
あたしは、この男の顔を知らない。……じゃあ、何を知っているの?
非常用のボタンにまた指を伸ばす。カチリと乾いた音がして、さっきとは違う、何かが傾くような鈍い音がした。
「あ、わっ!」
突然の揺れに、あたしは壁にまたもや叩きつけられた。今度は顔からだ。
元々低い鼻を、さらに低くしようとでもいうのだろうか。鼻を押さえて、あたしはその場にしゃがみ込んだ。
そのあたしの横に、男が立ち、顔を覗き込まれる。
「痛すぎて声もでねえか」
その場に座り込んだあたしの前で、男はあたしの顎を掴んで、顔を無理やり上げさせた。
痛い。鼻もだけれど、掴まれた顎も痛い。
なるほど。この男は手加減というものを知らないらしい。
「鼻、見せろ」
恐る恐る手をどける。手のひらに血がついていた。
「あ、鼻血だ」
「お前、本当に女か?」
「コートのポケットにハンカチ入ってる。うぅ、鼻血見られるなんて……お嫁にいけない」
「じゃあ、婿をもらえよ」
男はコートからハンカチを出すと、あたしの鼻を押さえた。
血の匂いが喉に纏わりついて気持ちが悪い。
顎と鼻を掴まれて正面を向かされたまま、あたしはひとつだけ問題を崩した。
「解ったことがあるよ」
「あ? なにが?」
「あたしにナイフを突き付けたことは犯罪行為だけれど、少なくとも他の誰か、人は刺していないってこと」
「……根拠は?」
鼻を押さえられているから、少し苦しくて息を吐く。
「血の匂いがしなかった。故に、貴方は血を流すような行為はしていない、という事が解る。これをあたしは解とするよ」
あたしの証明に、男が顔を逸らした。
息を詰める。
近い顔を見上げる。
レンズ越しに、目が見える。
ここまで、喉元まで来ている。
男に見覚えがない。けれど、
「……っ」
一瞬洩れた、その吐息が、あたしを答えに辿りつかせた。
ああ、あたしは、男が誰だというのも解ってしまったのだ。
その答えに、あたしが男に見覚えがなかったのも頷けた。次に、でも、どうして? という疑問が湧き上がる。どうして、この男は、こんなところで、こんな犯罪者じみた真似を……?




