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非日常的日常  作者: reco
5/7

証明問題

 あたしと男は、初めの位置に戻り、座り込む。振り出しに戻る、だ。

 あたしが息をつくと、男も息をついた。

 顔を上げてみた。男も顔を上げる。

 睨みつけてみた。睨み返される。

 右手を上げてみた。男は左手を上げた。

「反対だよ! それに、真似しないで!」

 あたしが男に向かってそう言うと、「これだからガキってやつは……」と毒づかれた。

 なにがこれで、どれがやつなのか、二百字以内で説明してもらいたい。こんな非常時でまで、中学生をからかう男の方がよほどガキだ。

 この人、本当は大人じゃないんじゃないの?

 あたしは疑いの目で男を見た。相変わらずフードと眼鏡に邪魔されて顔が見えない。

 最初に覚えた違和感。あたしは未だにそれを持て余していた。

 あたしはこの男を、見たことがある? 答えは、いいえだ。

 あたしはこの男を見たことがない。初めに思った通り、あたしはこの男に全く見覚えがなかった。それでも、なぜか何かが引っかかるのだ。

 手放したことを忘れかけて広げたテキストは、あの時よりも見方がやはり違って見えた。

 あたしはこの男を見たことがない。だから、この男を知らない?

 立ち上がって、非常用のボタンを押した。

 カチリ

 無駄だというのは解っていても、何かをしないではいられなかった。

 カチリカチリ

 男がくしゃみを一つした。

 カチリカチリカチリカチリカチリカチリ

 パーカーとジーンズのみで、この冬空を越そうだなんて、自殺行為もいいところだ。

 カチリカチリカチリ……

 ボタンから指を離し、あたしは、着ていたレインコートを男に差しだした。

「なに?」

「寒そうだから、貸してあげる。風邪ひいたら大変だから」

 このレインコートは男女兼用で、もとよりサイズが大きい。見る限り男は細身だし、着られないこともないだろう。

 男はあたしからレインコートを無言で受け取ると、すぐに着始めた。前をとめることはできないものの、着るだけならなんとか大丈夫のようだ。

 鼻水をすする様子に、もう風邪ひき始めているかも、とは思ったけれど、そこは言わないでおく。

 近くで見ても、やっぱり思い出すことはない。いや、思い出すも何も、知らないのだから仕方ない。

 あたしは、この男の顔を知らない。……じゃあ、何を知っているの?

 非常用のボタンにまた指を伸ばす。カチリと乾いた音がして、さっきとは違う、何かが傾くような鈍い音がした。

「あ、わっ!」

 突然の揺れに、あたしは壁にまたもや叩きつけられた。今度は顔からだ。

 元々低い鼻を、さらに低くしようとでもいうのだろうか。鼻を押さえて、あたしはその場にしゃがみ込んだ。

 そのあたしの横に、男が立ち、顔を覗き込まれる。

「痛すぎて声もでねえか」

 その場に座り込んだあたしの前で、男はあたしの顎を掴んで、顔を無理やり上げさせた。

 痛い。鼻もだけれど、掴まれた顎も痛い。

 なるほど。この男は手加減というものを知らないらしい。

「鼻、見せろ」

 恐る恐る手をどける。手のひらに血がついていた。

「あ、鼻血だ」

「お前、本当に女か?」

「コートのポケットにハンカチ入ってる。うぅ、鼻血見られるなんて……お嫁にいけない」

「じゃあ、婿をもらえよ」

 男はコートからハンカチを出すと、あたしの鼻を押さえた。

 血の匂いが喉に纏わりついて気持ちが悪い。

 顎と鼻を掴まれて正面を向かされたまま、あたしはひとつだけ問題を崩した。

「解ったことがあるよ」

「あ? なにが?」

「あたしにナイフを突き付けたことは犯罪行為だけれど、少なくとも他の誰か、人は刺していないってこと」

「……根拠は?」

 鼻を押さえられているから、少し苦しくて息を吐く。

「血の匂いがしなかった。故に、貴方は血を流すような行為はしていない、という事が解る。これをあたしは解とするよ」

 あたしの証明に、男が顔を逸らした。

 息を詰める。

 近い顔を見上げる。

 レンズ越しに、目が見える。

 ここまで、喉元まで来ている。

 男に見覚えがない。けれど、

「……っ」

 一瞬洩れた、その吐息が、あたしを答えに辿りつかせた。

 ああ、あたしは、男が誰だというのも解ってしまったのだ。

 その答えに、あたしが男に見覚えがなかったのも頷けた。次に、でも、どうして? という疑問が湧き上がる。どうして、この男は、こんなところで、こんな犯罪者じみた真似を……?

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