筆記
いつで身につけている合格祈願・学業成就のお守りが、もしや日常生活を守っていないのでは?
そんな結論に至った。
合格の前に受験を受けることができない状況があるかもしれないとは、あたしは微塵にも思っていなかった。今度は家内安全も身につけよう。
あわてず、さわがず、おちついて、せいかくに。
学校の、『あさおせ』という語呂合わせにもなっていない非常時の教えが書いてあるメモ帳のページを見て、あたしは男に視線を移した。
先ほどから、項垂れた様子で、片膝を立てて床に座り、膝の上に組んだ両腕に顔を埋めている。
非常用のボタンは、非常用のくせに非常時に繋がらなかった。
この事実はあたしと男を見事なまでにこてんぱんにし、あたしたちの頭上で、今も非常用という文字を引っ提げて燦々と赤く光っておられるのだ。
「……帰りたい」
その言葉をふと漏らした途端、緊張でせき止められていた何かが、決壊して溢れだした気がした。
寒いし、狭いし、怖いし、いつまでも、永遠にこの状況が続くんじゃあないかと恐怖した。
実際は、朝になればそんなことには絶対にならないだろうし、このまま待っていても大丈夫だと、理解はしている。それでも、こみ上げてくる何かが、理解を越えさせた。
「泣くんじゃねえよ。うぜえ」
「泣いてない」
そっちこそ泣いてるんじゃあなかったの?
突然声をかけてきた男を、あたしは欺瞞のこもった目で凝視してやった。男はそれをフンと鼻息で一蹴した後、立ち上がった。
「やっぱり繋がらねえ」
何度も非常用のボタンを押す。それに合わせてカチリカチリと音が響く。
それを見上げながら、あたしはエレベータの中全体を見回した。
大人が三人乗れば窮屈になってしまうくらいの狭さで、照明も横壁に一本蛍光灯が設置されているだけで安心感を得る明るさではない。
あたしはどこか、なにかないか探した。
狭いエレベータ。繋がらない非常用のボタン。冷たい床。薄暗い蛍光灯。申し訳程度についているスプリンクラ。動いているのか定かではない通気口。……通気口?
あたしが上を見上げていると、あたしの視線に倣って見上げた男が、いやな顔をした。考えたことが伝わったみたい。
「お前、馬鹿だろ?」
「あたしは、全教科平均六十五点以上だし、順位も上から五十五番目だよ」
「それ、良いのか悪いのかぜんっぜん解んねえ」
自慢にならないけど、あたしの成績は中の中だ。現国の点数が非常に低く、いつもこいつに足を引っ張られている。
「常識で考えろ」
「常識? 辞書を持ってないから解んないもん」
常識っていう単語の意味はなんとなく解るけれど、それでもこれが正確っていう意味を調べたことがなかった。明確な意味を理解していない今、滅多なことは言えない。
いや、待って。先生は言っていた。
解らずとも、とにかく空白は埋めろ、と。
「常識。当たり前の事柄? この非常時に当たり前なんてないよ」
無理やり常識の意味を埋めて、あたしはそれに首を横に振った。今は常識じゃないんだ。その対義語の非常識。
「今は非常識が正解なんだよ」
あたしはそう結論付けた。
常識の範囲だったら、きっとこんなことにはなっていなかった。普通のごくありきたりな受験生の日常を送っていたはずだ。
エレベータは故障しないし、男が乗り合わせてナイフを突き付けられることもない。非常用のボタンが壊れていることもなかったし、常識なら、今頃あたしは明後日の模試の為の勉強を続けているはずだ。
「だからって、さすがに無理だろ」
「無理じゃないって! やってみなきゃ解らないよ!」
すぐに諦めたがる男を元気づけるようにあたしは声を上げて、手を伸ばしてみた。つま先立ちになっても届きそうにない。
「映画じゃねえんだからよ……通気口って、お前はアクション俳優かよ」
そう、あたしが目につけたのは通気口。エレベータの天井の真ん中についている通気口だ。あそこをパカッと開けて外に出る。簡潔で解りやすい方法を思いついたのだ。
「馬になってよ」
「は?」
あたしが男に言うと、男は眼鏡越しでも解るくらい眉間に縦皺を刻む。だって、届かないのだから仕様がない。
「あたしが馬になるのは、体を見比べてできないって解るよね? 適材適所っていうんだよ。知ってた?」
「いやだ」
即座に否定されて、あたしは驚いて男を見る。
「床がきたねえからいやだ」
この人どうしよう。潔癖症なのかな? でも、さっき床に座ってたよね。
「大丈夫、汚くないよ」
「嘘つけ」
腕を組んで、男はそっぽを向いた。
いや、うん、汚くないっていうのは嘘だけれど、でも、全然気にするほどじゃあない。
外に出られるのと、洗ったら取れる汚れの二つを天秤にかけるなんて……新しい難問にぶち当たってしまった。こんなのメモ帳にだって書いてないよ。
「そうだ! じゃあ、中腰で、膝に手をついたら汚くならないよ」
あたしが登るのに少し不安定だけれど、これなら床に手をつくこともない。
及第点がとれたのか、男はしぶしぶ了承して馬になってくれた。
あたしは男の気が変わらないうちに早々と上に乗り、こわごわ立ち上がる。
大変なことを忘れていた。あたしは今日スカートだったのだ!
「上、見ないでね!」
「ガキのパンツなんか頼まれたって見ねえよ!」
なんて下品な奴だ。少し体重を故意にかけてやりながら、あたしはエレベータの天井に手を伸ばした。通気口の縁に手をかけ、力を入れて押したり引っ張ったりしてみた。
何度かそれを繰り返して、あたしは男から降りた。
「常識ってもんが解ったか?」
勝ち誇ったような男の声に、常識っていう単語が、あたしの日常を阻む敵に変わったことをメモした。




